海象が出た日

鐘辺完

海象が出た日

 休日の静かな朝のことだった。

 玄関を開けると、目の前に巨大な岩があった。褐色をさらに小汚くしたような色の岩が玄関前にどでんと居座っていた。

 推定三トンはあるそれを見て俺は言葉を失って茫然とした。

 これは何かのいやがらせか?

 しかし、よく見るとそれはゆっくり動いていた。まるで息づいているように……って生きてるぞこいつ!

「トドだトド! なんでこんな所にトドが!」

 俺は意外な事態に少々冷静さを失ってちょっと大声を出してしまった。

 く…る…り、と、緩慢な動作でトドは俺の方を振り返った。

『トドじゃなくてセイウチなんですが』

 そいつはトドみたいな顔してるくせに、アニメのロリ系キャラのような声でしゃべった。

 少し冷静になってみると、確かにそいつの言う通り彼女はトドではないようだった。〝彼女〟と呼称するのは、ただ単に女のような声をしてるからだ。彼女の口には立派なキバが生えていた。これはセイウチの特徴だ。ちなみに「海象」ともいう。

 よく考えたら、キバのでっかいセイウチはオスだったような気がする。けど、俺は動物にくわしいわけじゃないんで断言はできない。

 昔、地球に彗星か何かが衝突しそうになり、北極だか南極だかからジェット噴射して流星の衝突するのをよけるという豪快な映画があった。その話の中で、あんまりストーリーと関係なく登場するセイウチのような怪獣がいた。それを思い出した。

 ――唐突なのだ。とってつけたようにただ俺の家の玄関前にどっしりと居座っているセイウチ。……しかもロリ声でしゃべるではないか。まるで童話だ。できの悪い映画だ。地球が彗星よける映画はある意味傑作だったんだが、……あまり関係ないが。

 俺はなにかもう脳のなかの何かが歪んでるのを感じていた。もう冷静であった。何かが歪んだまま冷静だった。

 夢の中なんかであるだろう。非常にシュールな事態なのに、それがあたりまえのように行動してしまってる自分があるってのが。俺はまさに起きたままシュールな夢の中にいる心境であった。

 幸か不幸かセイウチがしゃべれるので、事情をきくことにした。

「なんでこんなところに?」

『さて、なぜでしょうねぇ?』

 セイウチは眉根を寄せて首をかしげてみせた。

「あんたにもわからんのですか」

『はいー。さっきからとまどってるんですよ』

 そわそわしてるようだ。やっぱりセイウチにこの町中の環境は落ち着かないのだろう。無理もない。

 俺は腕を組んでみた。これからどうしたもんか。

 警察……、動物園……、保健所……、どこに頼んでもなんらかの対応はしてくれる気はする。ただ問題はこの事態を連絡して信用してくれるかどうかだ。だいたいセイウチがどこかから逃げたというのなら、すぐにニュースにもなろうし、役所から放送でもあるだろう。セイウチの陸地での移動速度なら居場所を補捉するのはたやすいだろう。だのに誰もいないということは、このセイウチは動物園なんかから逃げたとかいうんじゃない。本人の戸惑い加減からしても、突如としてこの場に現われたことになる。

 うちの前の道路は近所の小学校の通学路になっているので、小学生がうちの前を通るのだが、誰もセイウチの姿を見てびっくりしない。いや、誰もセイウチに見向きもしないのだ。

 世の中、他者との関わりが希薄になったとはいえ、二トンはありそうな(最初三トンて言ってるが、それは岩だと思ったからだ)巨大な海獣が玄関前にいるうちに対してこうも無関心でいられるとは思わなかった。こんな小学生が大人になる頃には世の中の常識は大きく変わっていることなんだろう。

 だが、その母親たちというか、近所の主婦も、このセイウチをもの珍しげに見る人はない。

「あら、お散歩ですか?」

 向かいのマンションのおばさんが声をかけてきた。白いトイプードルを連れている。散歩に出るのだろう。

「いや、これはペットというわけじゃ。なあ」

 俺はセイウチに話を振った。

「ええ、まあ……」

 セイウチも戸惑ったように答えた。

 おばさんはこちらのリアクションを流してトイプードルの散歩に出かけていった。

 セイウチがしゃべることも問題じゃないんだろうかと、俺は心内につぶやいた。だいたいセイウチを連れて近所の公園を散歩してるやつがいるのか。

 ふとセイウチと目が合った。

 セイウチは困った顔をしていた。きっと俺も同じように困った顔をしているんだろう。


 あれから何分たったんだろうか。俺は別段用事がないから、セイウチと一緒に玄関前に居続けた。このセイウチをどうにかしないといけない。素直にそう考えた。

『これからどうしましょ?』

 セイウチが言う。

「そう。どうしましょ、だ」

 俺は腕を組んだ。そしてまた同じことを考える。

 警察……、動物園……、保健所……、どこに頼むか――。セイウチがどこかから逃げたというのなら、すぐになんらかの対応があろう。本人の戸惑い加減からしても、突如としてこの場に現われたことになる。

 俺は突然妙な考えになった。

 このセイウチは本当にセイウチなんだろうか?

「どうなんだ。あんたは本当にセイウチなのか」

 俺は問いただした。

『そう……思いますけどぉ』

「よく考えたらセイウチの声帯の構造では日本語(というか人間の言葉)を話すのは無理なんじゃないのか?」

『そんなこと言われましてもぉ……』

 そうだ。事実だ。事実、このセイウチは声優声でしゃべっている。それを否定することはできない。――俺が正常に外部の刺激を認識してるならば、だ。

 このセイウチは本当にセイウチなんだろうか。常識でいって動物園から逃げてきたとかいうのでもなければセイウチがこんなところにいるはずがない。ここから一番近い動物園にセイウチはいないし。

 これは本当にセイウチなのか。俺はセイウチだと思っているが、だいたい直にセイウチを見た覚えはない。これが絶対的にセイウチだと言い切ることはできないのではないのか? 本人もセイウチだと言っているが、本人も自分がセイウチだと思い込んでいるだけのジャイアントパンダなのかもしれない。いや、ジャイアントパンダではないとは思うが。本当はキバをつけたでっかいアシカなのかもしれない。

 あ! まだあった。

「これは何かの冗談だろう」

『はぁ? なんのことですかぁ?』

「どこかに隠しカメラでもあって、あんたは着ぐるみか何かで、声はどっかの声優つかってるんだろう! よく考えたらその声はかないみかに似てるぞ。どうなんだ!」 俺は言いながらカメラを探した。見つからない。

「中はどうなってるんだ!」

 俺はセイウチの口を両手で開いて中をのぞいた。

 中は舌とかのどちんことか……、生物の口腔内であった。しかもちゃんと生臭い。力なく口から手を離すとセイウチは咳き込んだ。

『ひどいじゃないですかぁ』


 咎めるセイウチの眼を見る。生の生き物の眼だ。

 俺は地面に座り込んだ。

「俺はおかしくなったのか?」

『まともだと思いますよぉ。いきなりわたしの口こじ開けて覗き込んだりしなかったら』

 そうだ。第三者に見てもらおう。これがセイウチなのか。俺がおかしいのか。判断してもらおう。

 都合よく通り掛かりの銀行員がカブに乗ってやってきた。俺はカブの前に立ちはだかった。

「どうもこんにちは」

 銀行員はうちによる予定だったらしい。

「あんた、ちょっと見てくれ。これ」

 俺はセイウチを指差した。

「はあ、ペットですね」

 平然と銀行員は言う。

「これが何に見える?」

「セイウチ……でしたっけ? あんまり動物にはくわしくないものでして」

「だろう? セイウチだろ! こんなプールもないうちにセイウチが飼えるわけないじゃないか。大体ワシントン条約に違反しないのか?」

 ワシントン条約。『絶滅のおそれのある野性動植物の種の国際取引に関する条約』の通称。セイウチがこれに該当するかどうかは知らないが。

「あ、あの、だからあんまり動物にくわしいわけじゃないんで……」

「変か? 俺はおかしいか? みんなセイウチ飼ってることに疑問を持たないことを不思議に思う俺は変か?」

「あ、あの。お宅の裏に池があるでしょう。そこから来たんじゃないんですか?」

「裏の池?」

 俺は裏に向かった。俺の家のすぐ後ろはため池になっている。周囲四百メートルほどで、たいしてでかい池ではない。

 どぷん! とでかいものが池に沈んだ音がした。俺はあわててそちらを向いた。波紋が広がっている。かなりの大きさのものが沈んだようだ。まさか、この池にセイウチがハーレムつくってるのか。ハーレムってゾウアザラシだけだったっけか。

 何かが水面に現われた。でかい。巨大な生物の背中。そこから水が吹き上がる。クジラか! そんなもんがなんでため池にいる!? それは大きくはねた。巨大な頭、ちいさな背ビレのある背中、そして水平な尾ビレが順に弧を描いて水上に現われた。俺は水しぶきを浴びながら唖然とした。シロナガスクジラだ。これは完全に絶滅危惧種だぞ。だいたい地球最大の生物がこんな周囲四百メートルの池に棲めるわけないじゃないか。それにこの池は淡水じゃないか。海水に棲む生物は浸透圧の関係で淡水じゃ棲めないはずだ。

「あなたは理屈がすぎるようです」

 隣に銀行員が来ていた。

「目の前にある事実を事実として受け止めましょう」

「シロナガスクジラがこんなため池でジャンプしてるのを事実として受け止めろ、というのか」

「そうです。世の中にはおかしなことなんていっぱいあるんですよ。それをいちいちめくじら立てて否定したり真剣に検証しようなんて考えちゃいけませんよ」

 銀行員は『シロナガスクジラが淡水のため池でジャンプすること』を『近所のネコがオス同士でさかっていること』ぐらいだと思っている。

「だが、こんなことこれまでなかった」

「さあ、本当になかったんですか? 今まで目を閉じてきたんじゃないんですか? 耳をふさいできたんじゃないんですか? 今日初めて目を開き、耳をすませてみたんじゃないですか?」

 俺はひどく疲れていた。精神的にまいるしかなかった。とぼとぼと表にもどる。

 すると、セイウチが何かを食べていた。タライに入った何か、ドッグフードか? 

 セイウチの影で見えなかったがそばに妻がいた。

「あらあなた。まだピョンちゃん記憶が戻らないのよ」

「ピョンちゃん?」

「何いってるのよ。この子のことよ」

 どーもセイウチのことらしい。

「はぁ?」

「ほらぁ、ここ見てよ。傷があるでしょ」

 セイウチの左側頭部に長さ六センチほどの傷があった。よく見ないとわからないものだった。

「獣医さんが、この傷受けたときのショックで記憶なくしたっておっしゃたでしょ? 後遺症でそれ以降の記憶も混乱してるらしくて……」

「え? あ? 何のこと?」

「もう! なにしらばっくれてんのよ。あなたこそ記憶なくしたんじゃないの」

「そうかも知れない」

 俺はつぶやくように言った。何かが歪んでいる。俺の記憶する世界と、この世界とが―。夢の中のようだ。当たり前におかしなことが起こる。これは夢なのか? 俺は眠っているのか?

「しっかりしてよ!」

 妻が叱咤するが、この世界についていけないのにしっかりできるもんか。

「病院でも行くか」

「本当におかしくなったの?」

「さあ。俺は自分が正常だと思ってる。けど、俺は自分の周りのことを正常と理解できないでいる。だか俺は相対的におかしいことになる」

「また難しいこと言う―」

 どうも妻の性格は、私が認識しているものと同じらしい。それにはほんの少し安心した。

 また家の裏のほうでクジラがはねたのか、水しぶきがあがる音が聞こえた。


 病院に着いた。一時間半ほど待ったあと、精神科の診察室へ向かう。

「―俺はおかしくなったんでしょうか?」

「いいえ、おかしくありませんよ」白髪まじりの白衣の医師が言う。「家の庭に記憶喪失のペットのセイウチがしゃべっていても、裏の池でシロナガスクジラがジャンプしていてもまったくおかしくありませんよ」

「いや、そうじゃなくて」俺は「俺がおかしくなったのか」を聞きたいのに医者はなぜか「現象がおかしくない」と説明する。

「いえ、そうなんです。あなたは正常ですよ。ここは夢の中なんですから」

「……そうなんですか?」

「そうです」

 医者ははっきり言い切る。

 仮に夢の中だったとしよう。だからといって夢の中の登場人物が「ここは夢の中です」と言い切るだろうか。

「そんなものですか。自覚はありませんが」

「そんなものです。夢ですから、じきに覚めますよ。心配ありません。そうですね、とりあえず、こんな非常識な夢の中で過ごすのは戸惑うでしょうから、静かな病室を用意してあります。そこで眠ってみてはどうですか?」

「夢の中で眠るんですか?」

「あなたは眠っている自覚はないでしょう? だから夢の中でも眠ることはできるんですよ」

「そんなものですか」

「そんなものです」


 そして俺は病室へ案内された。

 病室らしく白を基調にした清潔な個室だ。

 ベッドに入る。寝心地はなかなかいい。

 とりあえずゆっくり眠ろう――。


 目が覚めた。朝だ。

 妙にだるい目覚めだが、今日は休日だ、ゆっくりできる。何か長い妙な夢をみていた気がする。

 しばし考える。

 ああ、セイウチがどうとかクジラがどうとか、ばかばかしい夢だ……。

 ――。


「どうでしょうか、あの人の具合は」

「ああ、かなり重症ですね。

 今は睡眠学習装置で、彼の〝常識の世界〟へ行ってもらっています。そんな世界は夢の中ぐらいですからね。

 だけど心配いりません。少しづつ現世の常識になじんでいってもらいますから――」

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