魔王城図書館の管理人

@L2M

第1話 「こんにちは、異世界」

 足が潰れた。

 腰が潰れた。

 手が潰れた。

 腹が潰れた。

 胸が潰れた。

 肩が潰れた。


 肉が潰れた。

 骨が潰れた。

 内臓が潰れた。

 血管が潰れた。

 神経が潰れた。

 細胞が潰れた。


 トラックだったと思う。

 夜だったはずだ。

 頭以外がなくなった。

 全部、全部潰れてしまった。

 いたるところの神経細胞が連続にも等しい発火を起こし、けれども分断された連絡路はもっと近くで異常を細胞電位として置換して、それでもそれが脳幹を直撃する寸前に、ぼくは魔王の前にいた。


 魔王と言っても、そのときはただの女の子に見えた。

 自分の視線は低くなっていた。

 少女は息を荒げており、こちらを見ると安堵したのか、手に持った杖を取り落として崩れるように床に座った。

 ぼくも座っていた。固い木製の椅子に座っていた。

 あたりを見回す。

 暗い。

 が、何もない空間ではない。エンタシスが乱立する、どこか禍々しさを醸し出そうとして失敗した感じの、中学生が好きそうなファンタジーなお部屋だ。あれだ。RPGのボスの玉座の間と言われたら苦笑して、ああ、はいはい、と頷くしかない。壁には漆黒のタペストリ。玉座には竜の装飾。燭台には髑髏。中二病絶対排除主義者のぼくとしては鼻で笑い飛ばすか、二度と関わりたくもない感じの大きな部屋だ。

 途端に頭がさえてくる。

 ぼくは死んだ。

 でも生きている実感はあるし、死後の世界にしては随分とまぁ世俗的すぎる。意識が脳の処理過程と定義された以上、死後の世界なんてものはもちろん存在しないから、あらゆる宗教が語る虚構をここで引きずり出したところで、この現象を正しく理解することはできない。

 右手を見る。

 握る。

 開く。

 また握る。

 生きている。

 夢であることは否定できないが、夢であったならば生きているので結論をわざわざ書き換える必要はないだろう。即ち、鉄の塊に押しつぶされて、死んでいなくて、主観の物理的な移動が起こったなら、こう考えるのが妥当だ。


「複製されたのか?」


 異世界に転生なんてことは物理的にあり得ない。世界を飛び越える物質の移動は宇宙の破壊を起こす必要があり、そのエネルギーは宇宙の内部のすべてのエネルギーを集めても足りない。従って物質の異世界転送は移動はあり得ない。そして意識は、この場合精神と呼んだ方がしっくりくるかもしれないが、物質の化学反応の上にしかなりたたないため、物質の移動なくして精神だけ異世界にこんにちは、なんて都合のいい小説みたいなこともあり得ない。

 だが、人格を形成する要素は記憶と演算回路だ。人間の演算回路は脳、特に大脳新皮質と呼ばれる部分だが、この回路は酷く複雑でいい加減なものだ。回路の構成部品である脳細胞がばしばし死んでいっても、記憶がそこそこたしかならば人格にはほとんど影響が出ないのである。だから人格の大部分の構成要素は記憶であるといっても過言ではない。この記憶だってもちろん物質に由来する構造物であるのでそのまま世界の壁を突き破ることはないだろう。だが、もしその構成原子のすべての相対位置情報を確率密度関数として表記できたとし、それに従って物質を構成するマシンがあったら?完全ではないにしろ、というか位置情報には揺らぎがあって完全な情報の読み取りは不可能なのだが、確率の波として転写されたスペクトルを今一度再現するような方法で複製できる技術があるとしたら、ぼくという主観が別人として生まれることの説明はつく。原理的には過去から未来にのみ行けるタイムマシンと同じであるが、別人なので重複存在が可能である点が面白い処だ。

 となると、ちょっとショックだ。


「ぼくの本体は死んだのか……」


 そう捉えるのがいいだろう。

 誰か、答え合わせに付き合ってくれる理系の人間はいるかい?そうだね、非干渉で電子の位置情報を、しかも遠隔で読み取る方法の議論から始めようじゃないか。きっと世界が終わっても答えが得られないだろうが、二度目の人生はそれで費やしても楽しいかもしれないよ。

 はて、そういえば女の子がいたはずだ。

 見れば、ピンク色の髪をした、黒いマントを羽織った少女が驚いたように赤い目をぱちくりさせていた。マントの下は黒いビキニ。薄い胸の割に腰骨は張っている。首には、何かの生物の爪と指で作られたチョーカーをきらめかせており、頭の両側で髪を束ねている髪飾りも何かつやつやした甲殻類の甲羅を使ったものであるらしい。うーん、ファンタジー。

 彼女が術者、いわゆる召喚主というやつだろう。当然のように鎮座しているはずの近未来的な機械は見当たらず、木製の杖をついてふらふらと立ち上がった彼女のみ。

 魔法か。

 実に度し難い。

 しかし、魔法と聞くと、中二病絶対殺すマンのぼくとしてもなかなかどうしてわくわくが止まらないではないか。尽きることのない好奇心は自分の死すらも乗り越えられる、


「うっぉおぉぉっぇえええええ!」


 突然ですけど、ワタシ、吐きました。

 血です。真っ赤な血です。

 臭くて、生臭くて、臭くて、不味い!

 これは多分あれだ。

 ついでに酸っぱい。

 そう、あれだ。

 頭が回る。

 間違いなくやばいやつだ。


「ぐぉぁおぁえええええええええ!」


 口からモンスターでも生まれてきそうな感覚だ。

 こんなのはじめて❤

 自爆してしまいそう。

 ぼくの胃の中には多分ハデスが住んでいます。

 今度、生まれ変わったら、もう少し長く生きられる世界に、Helloを刻みたいです。


 さようなら、異世界。

 また会いましょう。


 意識はそこで黒く途切れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る