諦めない気持ち
☆☆☆☆☆
頭がくらくらする。風にあおられてからずっとこの調子だった。
どうして邪魔をするのだろう。
憧はひどく今日の風を恨んだ。
レスキューパラシュートが開いたところまではよかった。
だけど、どうして風は止んでくれないのだろう。
剛司は憧に素晴らしい世界を見せてくれた。
憧は今も怖さを感じていない。
危険に陥っているはずなのに、何故か冷静さを保てている。
憧はその理由を知っていた。
これは剛司がくれた安心だと。
剛司がどうにかしてくれる。
諦めずにここまで導いてくれた剛司なら、この状況も絶対どうにかできる。
そう信じて疑わない自分が今もいる。
だからこそ、剛司が放った言葉が憧は信じられなかった。
「ごめん……憧」
風に乗って剛司の声が憧に届く。一瞬憧は自分の耳を疑った。剛司がそんな言葉を放つわけがないと。いつも剛司なら、前だけを向いて諦めずに進んでくれると。どこかで期待していた自分がいた。
でも、剛司は確かに言った。ごめんと。その言葉の重さが憧に襲いかかった。
突然戦慄を覚え、手足が震え出した。今まで忘れていたはずの恐怖が、突如として憧を飲み込む。どうしてこの場にいるのか、憧は理解ができなかった。
どうして空を飛ぼうと思ったのか。
どうして剛司を信じたのか。
自暴自棄になりそうな感情を、首を振って振り払う。
今日は最後の日。こんな状況に陥っているにも関わらず、最後という認識が憧の中で膨らんでいく。そして堪えきれなくなった憧の目から、涙が零れ落ちた。
剛司に伝えたいことが憧にはあった。この一ヶ月。変わりたい、諦めたくないという気持ちを強く持つことができた。今まで止まっていた時間がたしかに動き出したのを憧は感じた。そんな憧の気持ちを笑うことなく、必死に憧の為に走り続けてくれた人間がいた。
梔子剛司。憧はそんな剛司に勇気をもらい、今日まで頑張ろうと思った。途中くじけそうな場面があった。もうだめだ。そう思った憧を救ってくれたのは、いつも剛司だった。
――諦めずに頑張ろう。
そのたった一言が、憧を今日のフライトまで導いてくれた。剛司には感謝してもしきれないくらいの恩がある。
でも、まだ憧はその思いを口にできていない。今のままだと、それすらも伝えることができないまま。憧はきゅっと口を結ぶ。
剛司からたくさんもらったものがある。だから今度は自分が剛司に言葉を返したい。
「剛司君」
憧は後ろに振り向き、口を開く。剛司は目をつぶったままだった。それでも憧は続ける。まだ終わらせたくない。その気持ちを言葉に乗せて、憧は剛司に伝える。
「私はまだ諦めてないです」
◇◇◇◇◇
「私はまだ諦めてないです」
憧の言葉が聞こえ、剛司は目を開けた。
目の前にはこちらに顔を向けた憧が笑っていた。
どうして笑えるのか。剛司は疑問で仕方なかった。
パラシュートは潰れ、絶望的な状況。地面が近づいているのは明らかだった。それにも関わらずに憧は笑っている。目の前に映る姿は偽りなのではないかと剛司は思った。
「大丈夫。私が何とかします」
それでも確かに聞こえてくる温かい声が、剛司に現実だということを思い出させる。そして目の前で起こった奇跡に、剛司はただ見惚れてしまった。
憧は空中に手を伸ばすと、何やら口を動かしていた。風を切る音のせいで、上手く声が聞こえない。それでも憧が口を閉じた瞬間、目の前に現れた物に剛司は思わず息を飲んだ。
それは部屋の片隅に立てかけてあった憧の箒だった。
「剛司君。私、剛司君と出会えて本当によかったです。剛司君は言ってくれました。諦めるなって。だから私もずっと練習してたんです。空を目指していたんです」
憧から紡がれた言葉に、剛司は目頭が熱くなった。
剛司はずっと思っていた。今日のフライトをきっかけに憧が空を飛べるようになれたらと。でも、既に憧に自分の気持ちは届いていた。憧は自ら空を目指そうと頑張ってくれていた。だから笑っていられる。それだけの強さを既に憧は手に入れていた。
剛司の頬に涙が零れ落ちる。憧の美しく勇ましい姿に、剛司はただ見惚れていた。
憧は笑みを見せるとベルトを緩めた。
そしてハーネスから抜け出すと、箒に跨った。
一瞬、憧の顔に弱さが見えた。いつも見ていたから剛司はその顔を知っている。一緒にショッピングモールに行ったときにも見せていた顔。やはり憧も不安なんだ。それでも剛司は自分にできることがある。それを知っていた。
このパラグライダーもそう。一人では決して不可能なことだった。でも、二人なら出来る。そう何度も思ったことがあった。だから剛司は、自分も憧の力になれることをしようと思った。
自らのハーネスに手をかけた剛司はベルトを緩め、ハーネスから抜け出す。そして憧の手に自分の手を重ねた。
憧と視線が交差する。お互い次の行動がわかっているようだった。
言葉は蛇足。こうして手を繋いでいるだけで、伝わってくるものがある。だから剛司は怖さを全く感じなかった。それは憧も同じだと思う。
憧は剛司に頷いた。剛司もそれに応えるように頷く。
そして剛司は、パラグライダーの機体を思いっきり蹴飛ばした。機体から完全に離れた剛司は、憧と共に箒にまたがっている。瞬間、高度が下がるのを剛司は感じた。
剛司は視線を憧へと向ける。目の前の憧は震えていた。手だけではなく、身体全体が震えている。憧は初めて人を乗せて飛んだはずだ。だからこそこんなに震えている。今まで体験したことのないことが、憧の心を襲っている。それでも憧は必死に前を向いている。
――私はまだ諦めてないです。
以前、剛司がかけた言葉を憧は今も大切にしてくれていた。憧に言うだけ言って、一度剛司は諦めてしまった。その事実がとても悔しかった。
どうして弱気になっていたのだろう。諦めてしまったのだろう。こんなにも近くに、力をくれる人がいるのに。また一人でゆっくりと歩もうとしていた。剛司は周りが見えていなかった自分に苛立ちを覚えた。
憧は今、必死に頑張ろうとしている。だからこそ剛司は憧に何かしてあげたい。今の剛司が憧に出来ること。力になってあげることを。
躊躇いはなかった。剛司は憧に密着すると、後ろからぎゅっと憧を抱きしめた。
身体全体で自分の思いを伝える。大丈夫。憧ならきっと飛べると。
剛司の強い願いは、憧に変化をもたらした。
憧の震えが徐々におさまっていく。それと重なるように徐々に降下がおさまり、剛司と憧は完全に空中に浮遊した。
剛司にとって初めての経験だった。今までパラグライダーで飛んでいたこともあり、空の上で無音の状態に出会うことがなかった。
そんな無音の空間に、剛司は憧と二人でいる。それはまるで奇跡のような空間だった。
「やったね、憧」
剛司は憧のことをより一層強く抱きしめた。
「はい……飛べました」
憧の笑顔が目の前で輝いている。
今はその笑顔を見れたことが、剛司にとって何よりも嬉しいことだった。
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