運命のフライト

                ☆☆☆☆☆


 最後の朝。憧は窓から差し込む太陽光で目を覚ました。眠い目をこすりつつ、憧は窓から差し込む太陽光を手で遮る。窓際に吊るしてある、てるてる坊主が笑みを見せていた。

 昨日の夜はずっと雨が降っていた。もしずっと雨が止まなかったら、剛司が必死に頑張ってくれたことが無駄になるかもしれない。剛司が今日してくれることに、憧はある程度予想がついていた。だから憧は晴れることを祈った。何かしようと思い、晴れるおまじないとして、母親から聞いていた、てるてる坊主を作った。剛司の頑張りを、天候なんかで邪魔させない。その憧の願いが通じたのか、昨日までの雨が嘘のような快晴が広がっていた。

「よかった」

 自然と出た呟きを皮切りに、憧は身体を起こすと大きく両手を広げて伸びる。そして壁にかけてある鳩時計を確認した。

 午前七時。剛司が来ると言ってくれた約束の時間まであと一時間。寝床から出た憧は、顔を洗いに洗面台に向かう。鏡に映る自分の姿を見た瞬間、何故だか寂しさが急に憧を襲った。

「え、う、嘘……」

 唐突に襲ってきた感情に、憧は胸が苦しくなる。鏡に映る自分の目じりに涙が溜まり、ためきれなくなった滴が、憧の頬を伝ってゆっくりと流れ落ちた。

 その時、憧は思った。

 やはり自分は後悔をしているのだと。


 本当は人間界に残りたかった。

 帰りたくない。

 ずっとこの場所にいたい。

 そして、たくさんの初めてをくれた人のそばにずっといたい。

 たぶんこれが憧の本当の気持ち。

 でもそれはもう叶わないこと。

 憧にも十分わかっている。

 逆らえない運命なのだから仕方がない。

 だからこそ、憧は今日の為に頑張ってきた。


 洗面所から戻ってきた憧は、立てかけてある箒を手に取った。

 昨日までずっと一緒に頑張ってきた憧の相棒。剛司が声をかけてくれてから、憧は外で飛ぶ練習を積み重ねてきた。しかし未だに外では一度も飛ぶことができていない。それでも箒に跨る恐怖は消すことができた。憧はそれすらも消せないと思っていた。だからこそ自分の努力で初めて打ち勝った事実が、何よりもうれしかった。

 憧は今日言おうと思った。これまで努力してこられたのは、剛司のお蔭だと。

 それともう一つ。

 自分の気持ちを素直に伝えたい。抱いている思いを剛司に聞いてもらいたい。今日、もし成功できたら。その時は自分の気持ちを言う。憧は強く思った。

 ドアのノック音が響き渡った。

 憧は時計に視線を移す。いつの間にか時間は八時を過ぎていた。憧はドアの前に立つ。そして、ゆっくりとドアを開けた。

「おはよう、憧。久しぶりだね」

「はい。おはようございます、剛司君」

 目の間に剛司がいる。たったそれだけのことなのに、憧はとても嬉しかった。久しぶりに聞く剛司の声は、心なしかたくましさを感じた。

「元気だった?」

「はい」

 剛司の問いに上手く答えることができなかった。先程まで泣いていた。それを知られるのが憧は嫌だった。だから憧は笑顔を剛司にみせる。

「今日が、最後だよね」

「……はい」

 剛司の言葉に憧は咄嗟に俯いた。最後という言葉が憧の気持ちを揺さぶる。

「そうだ。ちょっと待っててください」

 憧は逃げるようにログハウス内へと戻った。

 ドアを閉めた憧はとりあえず気持ちを落ち着かせる。もちろんそれだけのために戻ったわけではなかった。だけど落ち着けるときに落ち着かせないと、後が持たない気がした。

 憧は窓辺に向かって歩いて行く。そしてそこに置いてあるものを手に持った。まずはこれを返さないといけない。

「お待たせしました。これ、お返しします」

「そういえば、そうだったね」

 憧は剛司から預かっていた靴を渡した。剛司は笑みを見せ受け取ってくれた。

 それでも憧は少し違和感を覚えた。あれだけ大切にしていた靴なのに、今日の剛司は何故か靴に対して積極的ではなかった。

「僕も靴、持って来たよ」

 憧に預けていた靴を受け取った剛司は靴を履き替え、履いていた靴を玄関口に置く。

 剛司の足元には、黄色のラインの入った靴が身につけられている。その光景をまた見ることができて、憧はとても嬉しかった。

「それじゃ、行こうか」

「はい。えっと、どこに行くんですか?」

 憧は今日の予定を聞いていなかった。でも、剛司の言うことが何となく予想できた。

「もちろん、パラグライダーでタンデムフライトをするんだよ」

 剛司は笑顔で言うと憧に右手を差し出してきた。導かれるように、憧は剛司の手に自分の手を絡める。剛司の手は温かかった。懐かしいこの温もりに、憧は涙が出そうになった。

 憧は必死に感情を抑え、剛司に質問した。

「タンデムフライトって二人でするんですよね。青羽さんに、私のことを話したんでしょうか?」

「いいや、話してないよ。青羽さん達には、憧が遠くに行っちゃうとだけ伝えた」

 嘘ついてゴメン、と剛司に言われた憧は首を横に振る。剛司の気遣いが憧はとても嬉しかった。それでも青羽に伝えていないってことが、憧はどうしても気になって仕方がなかった。憧は剛司に尋ねる。

「それじゃ、どう飛ぶんですか?」

「僕は憧に伝えたよね。絶対に諦めないって」

 その言葉の意味を考えた憧は、一つの答えに辿り着く。

「えっ……う、う嘘ですよね?」

「今日は僕が憧を飛ばす。そのための練習をずっとやってきたんだ。嘘はつかないよ」

 ぎゅっと憧は剛司の手を思いっきり握った。顔を上げられず、憧はこうして手を握るのがやっとだった。

「憧……」

「私……剛司君に何て言えば……」

 ずっと我慢してきた感情を心中にとどまらせておくのは限界だった。憧は感情を開放し、堰を切ったように涙を流す。

 自分の為に努力をしてくれたことが本当に嬉しかった。あの時、剛司が伝えてくれた決意の重さは相当なものだった。大切にしてきた靴を自分に渡してくれた。託してくれた。その思いがとても嬉しくて、靴を見るたびに自分も頑張らないといけない。そう思うようになった。

「憧は僕に変わろうとする決意をくれたんだ。僕は憧がいたから、一歩進むことができた」

「それは……私もです。剛司君がいたから……いてくれたから、今日まで頑張って過ごすことができました」

 変わるために頑張ること。その努力は自分がやらないといけない。だけど一人だけだと限界はすぐにやってきた。どうしてもモチベーションを保てずに、諦めそうになった。だけどそんな憧を鼓舞し続けてくれたのは剛司だった。憧は剛司がくれた言葉に救われた。剛司の大切なものにも救われた。そして、無事に今日を迎えることができた。

 憧は涙をふくと剛司に笑みを見せた。剛司もそれに応えるように笑みを見せる。

「今日は二人で飛ぼう。絶対に僕が空に導くから」

「……はい!」

 剛司の言葉に憧は頷く。風が憧の頬をなでる。雨上がりの風は少し湿気を含んでいて、重たい感じがした。それでも憧はとても身軽だった。今日はできる。隣にこんなにも力をくれる人がいる。だから大丈夫。そんな気持ちが憧の心を支配していた。



 テイクオフポイントに着いた。明け方まで雨が降っていたせいで、足場が滑りそうな状況だった。

「おっ。来たな剛司君」

「青羽さん。おはようございます」

 剛司は青羽と会話を始めた。憧は剛司にくっつくようにして、青羽と対面する。

「空美さんも久しぶりだね」

「はい。あっ……」

 憧はこの間のことを思い出す。あの時、結果的に憧は逃げるように青羽達の元を離れてしまった。謝罪をしないといけない。

「こ、この間はすみませんでした」

 憧は頭を下げる。

「いいって。もうさんざん剛司君から下げられてるから」

「えっ」

 憧は剛司の顔を見る。剛司は憧を見たまま頷いている。

「今日は風が強いからな。サーマルには気をつけろよ」

「はい」

 憧にはサーマルという言葉がわからなかった。だけど隣の剛司は、悩む様子も見せずに青羽に頷いている。

「それじゃ、準備しようか。足元、気をつけてね」

 剛司の声に導かれ、憧はハーネスが置かれた場所までやってきた。

「憧、手を離すね」

「えっ……あ、剛司君!」

 憧は咄嗟に剛司の手を強く握った。

「うん?」

「剛司君と触れてないと、青羽さんに見えないんじゃ……」

 前回は見えないことが原因で青羽の元を去ることになった。今回もそうなってしまうのではないかと憧は思う。

「そうだね。だから、憧にまた嘘をついちゃった」

「嘘ですか?」

「うん。青羽さんには、憧が見えなくなっても絶対にその場にいるって伝えてある。もし僕が一人で飛んでいるようにみえても、憧と飛んでいるってね」

 そう言ったら馬鹿にされたよ、と剛司は笑みを見せた。

「でも、青羽さんは信じてくれた。だから大丈夫」

「……わかりました。もう気にしないです」

 憧は自ら剛司の手を離した。今は剛司を信じよう。剛司となら絶対にできる。

 ハーネスを装着した憧は、剛司の準備を待っていた。剛司は青羽と一緒に機体の確認をしている。その剛司の姿がとても格好良かった。

「憧、こっち来て」

 呼ばれた憧は剛司の元へ向かった。青羽の視線が憧に注がれる。まるで見えているかのような視線に、憧は頬を赤らめた。

「じっとしててね」

 剛司はそういうと、パラグライダーとハーネスの接続をはじめた。憧の胸元付近にひっかける場所があった。剛司はそこにカラビナを取り付け、ライザーに固定する。

「よし、大丈夫」

 剛司は笑みを見せると自分の方の準備を始めた。

 徐々にフライトが近づいていることが憧にもわかった。目の前を見つめると、そこには広大な景色が広がっている。いつも地上から見つめていた景色だ。今日は地上ではなく、空中から眺めることになる。

 憧は深呼吸をした。ずっと箒に跨って練習をしてきた。でも外では結局飛ぶことができなかった。だからかもしれない。一回も成功していない事実が憧に襲いかかってくる。それは震えとなって憧の身をこわばらせる。

 大丈夫、絶対に大丈夫。憧は自らを鼓舞するように心で叫び続けていた。

「憧」

 声がして憧は後ろを振り向いた。そこには笑顔の剛司がいた。

「はい」

「手、出して」

 剛司に言われ、憧は左手を差し出す。剛司はその手を強く握ってくれた。

「お互い緊張してるね」

「……はい」

 二人の手は氷のように冷たかった。努力をしてきた剛司ですら不安を抱いている。

「でも、今日は憧を必ず連れて行くから。素晴らしい世界に。だから僕を信じてほしい。僕も憧を信じるから」

 力強い視線に憧は迷うことなく頷いた。

「はい。私も剛司君を信じてます。一緒に飛びましょう」



                ◇◇◇◇◇



「よし、それじゃ剛司君。飛ぼうか」

「はい」

 手袋をつけ直した剛司は、一度頬を軽く叩いて気合を入れた。

 失敗は許されない。今までの練習の成果を見せないといけない。

「最後に一つだけ。今はよく晴れていて気温もかなり高い。そのせいで気流が乱れている可能性がある。だから、サーマルには気をつけてくれよ」

 安全面を大切にする青羽は念入りにサーマルについて剛司に警告してきた。サーマルに関して剛司は練習でも捕まえるどころか、見つけることすらできていない。サーマルを見つけるのは経験がものを言うと羽田に習っていた。だからこそ経験のある青羽がここまで言うなら、注意すべきことだと剛司は頭に入れる。

「憧」

 剛司はもう一度憧に声をかける。

「はい」

「憧もやらなくちゃいけないことがあるんだ。もうわかるよね?」

「大丈夫です」

 憧は笑顔だった。先程まで緊張しているように見えたけど、今はもう大丈夫そうだった。

 今の状況なら絶対に飛ぶことができる。そして、飛んだ暁には憧のトラウマが直ってほしい。そう剛司は強く思った。

 テイクオフ前の姿勢で剛司と憧は少しの間、風がおさまるのを待った。パラグライダーは風が強すぎると飛ぶことができない。コントロールできないことには飛べないのだ。自然環境を相手にするスポーツの難しさがある。だけどこんなに簡単に空の旅を楽しめるのはパラグライダーの特権だ。鳥のように空を飛ぶ。果てしない大空に手を広げて飛べるのなら。剛司は命を失ってもいいのかもしれないと思った。ギリシャ神話のイカロスのように。

 風がおさまった。剛司は青羽に視線を移す。青羽も頷いてくれた。後は憧に声をかけるだけだ。剛司は憧の肩に手を置いた。

「憧、そのまま聞いて」

「はい」

「次に『走って』って声をかけたら足を動かしてね。直ぐに空の旅が始まるから」

「わかりました」

 剛司は憧の肩から手を離した。手にはライザーとブレークコードをしっかりと握る。飛ぶ準備は整った。後は一気に走り出すだけだ。

 剛司は一度大きく深呼吸をした。新鮮な空気が何だか力を与えてくれる気がする。

 今日は絶対に飛ぶ。そして憧に素晴らしい世界を見せる。さあ、飛び立とう。

「走って!」

 剛司が声を発した瞬間、憧が勢いよく走り出した。剛司も自らの足を動かしつつ、上空を見上げる。キャノピーは真っ直ぐ剛司達の真上に上がってきていた。

「よし、その調子。もっと走って」

 その声がけで憧の速度がさらに上がった。そしてキャノピーが剛司達の真上に来る。

 そこからはあっという間だった。急勾配に入った二人の足は一気に加速していき、身体が浮き上がる。そして足に地面を蹴る感覚がなくなっていく。

 テイクオフは見事に成功した。

「憧、飛んだよ。真上を見て」

 剛司は優しく憧に声をかける。憧は高所恐怖症と言っていた。そんな憧を怖がらせないためにも、まずは素晴らしい景色を見てもらいたかった。

「す、凄いです」

 憧は首を反らし上空を見上げていた。青一面の世界が今、憧の目に移っているはず。風を切るたびに頬に当たる感覚も、飛んでいることを実感させているはずだ。

「憧、手を後ろに出せるかな?」

 憧はライザーのバーを握っていなかった左手を剛司に出す。その手を剛司は握った。

「正面、見れる?」

「……はい」

 憧が手を握ってきた。その手が震えているのがわかる。剛司もそれに応えるように手を握る。

「大丈夫。僕もいる。絶対に落ちたりしない。上空に広がる空のように、正面も素晴らしい世界が広がっているから」

 剛司は憧ができるだけ安心できるようにしたかった。だけど、剛司ができるのはここまで。後は憧自身の勇気が問われる。

 憧なら大丈夫。その思いを伝えるため、剛司はできるだけ手を強く握った。

「き、綺麗です」

 憧の声が聞こえた。目の前の憧は正面を向いている。憧の目には遠くに見える山や街の様子が見えているはず。

「大丈夫?」

 剛司は憧に声をかけた。パッセンジャーの状態を確認するのもインストラクターの役目。そう青羽から習ってきた。

 でも、今はそんなこと剛司にはどうでもよかった。

 憧が素晴らしい世界の旅を楽しんでくれること、怖がらずに一歩踏み出せること。この体験が勇気に変わってくれること。それだけでよかった。

「はい。大丈夫です」

 憧から明るい返事が返ってくる。その言葉を聞いた剛司は感極まる。

「私、空を飛んでいるんですよね?」

「うん。憧は今、空を飛んでいるんだ」

 素晴らしい空の旅に憧は満足してくれている。剛司はそれだけでも十分嬉しかった。



 タンデムフライトは順調だった。

 風も今のところ穏やかで、快晴の空がどこまでも遠くに連れて行ってくれるような気にさせる。揺れも少なく、前を見ることができた憧もフライトを楽しんでくれていた。

 最初は怖いと言っていた憧も変えることができた。剛司は思う。パラグライダーは、何かを変えるきっかけになりうるスポーツなのではないかと。この広大な地球を鳥のように飛ぶ。日常の生活では決して体験できない快感を、パラグライダーはくれる。その体験に剛司も知らない力が眠っているのではないかと。今なら強くそう思えた。

「剛司君」

 憧の声が風に乗って剛司に届く。

「何?」

「私、その……きゃっ」

 瞬間、機体がふわっと浮いたのがわかった。突然の揺れに憧は驚いている。

「サーマルだね。高度がさっきより上がってる」

 剛司は取り付けたアルチバリオメーターに視線を移す。半分以上高度を下げていた機体が、今のサーマルで高度を上げていた。

「怖かった?」

「いえ……剛司君がいるので大丈夫です」

 憧はいつもの調子で剛司に応える。剛司は憧の言葉に少しだけ不安を覚えた。

 自意識過剰でなければ、憧は自分に依存し始めているのかもしれない。もし剛司がいなくなった時、憧はちゃんと克服できるのだろうか。剛司は靴に依存していた。だからこそ今の憧の状況を不安に思った。今の状況が本当はあまり良いことではないと。時間があれば少しずつ克服していければよかったのかもしれない。でも憧にはもう時間がない。剛司が出来ることは限られている。どうにかして剛司が関われる間に、憧に伝えられることを言わないと。

「鳥がいます。剛司君」

 思考を巡らせていた剛司の目の前に、鳶の群れが横一列に並んで飛んでいた。

「可愛いですね。飛んでいる鳥をこんなに近くで見たのも初めてです」

 憧は笑顔を絶やさなかった。憧の明るい声を聞くたびに、剛司は気持ちが安らいだ。憧は本当に空の旅を楽しんでくれている。それが剛司のやってきたことを認めてくれた気がした。

「でも、どうして鳥がいるんでしょう?」

 憧の疑問に剛司は思考を現実に戻される。

 今まで浸っていた世界が嘘のように、突然来た戦慄が剛司を襲う。

 剛司は既視感を覚えた。以前にもこの光景を見たことがあった。必死に剛司は過去の記憶を思い出す。そして剛司は一つの答えに辿り着く。

「憧、しっかり捕まって」

「わかりました。でも、どうし――」

 瞬間、突然の突風が剛司達を襲った。強い揺れが剛司達に負担をかける。アルチバリオメーターの記す値はみるみる増していき、その数値はフライト時の四〇〇メートルを記していた。

 剛司はこの状況をどうにかしようと、ブレークコードを引きバランスをとる。そして機体は落ち着きを取り戻した。

「大丈夫?」

「……はい。なんとか大丈夫です」

 憧の声を聞いて、剛司はほっと息を吐く。

 飛ぶ前に気流が乱れていると青羽が言っていた。実際に青羽の言う通り、気流が乱れていたのだ。それに鳶の群れを見た。これもサーマルの合図だった。

 タンデムフライトの時の体験を剛司は思い出す。鳶の群れを襲ったサーマル。そのサーマルの先に広がっていた景色。視界一面がコバルトブルーに染められ、まるで綺麗な海を泳いでいる気分に浸れる空間。ブルーサーマルの存在を。

 剛司は頭上を見上げた。キャノピーの先に見える空は、あの時にみた景色と似ていた。今日は快晴。そして雲一つない最高のコンディションだ。

「憧、上を見て」

 剛司は憧にも景色を見せてあげたかった。

 ブルーサーマルの空を。ソアリングをする人達にとってはブルーの日とも言われ、あまり条件が良くない。それでもタンデムフライトのようなサーマルを使わないフライトにとっては、最高の景色。サーマルがあるのに雲ができない。条件がそろわないと出会うことができない空間だ。

 目の前の憧も言葉を失っていた。その景色を見たら、誰もが吸い込まれそうになる。その景色に、その魅力に。パラグライダーから離れられなくなる現象なのかもしれない。

 剛司はアルチバリオメーターに視線を移した。高度は少しずつ上がっていた。既にテイクオフポイントよりも高い高度になっている。サーマルを掴む練習をしていなかった剛司は、流石にこのまま上昇するのは危険だと思った。

「憧、もうそろそろ降りようか」

「はい。こんな綺麗な景色が見れて、本当に幸せです」

 憧の声が弾んでいる。剛司は名残惜しい気持ちを胸に、ブレークコードを肩まで引いた。

 サーマルから外れ、機体は高度を下げていく。ブレークコードを巧みに操り、キャノピーを潰して高度を下げていく。この練習は青羽とたくさん練習した。その成果が今、確かに出ている。

「少しゆれるから気をつけてね」

 そう声をかけ、ブレークコードを胸まで引いた。高度が一気に下がっていく。アルチバリオメーターで確認すると、高度は既に四〇〇メートルを切っていた。

 後はこのままランディングゾーンに行くだけ。そこには朋や光や亮、友恵に青羽と関わってくれている人達が待っている。練習通りのコースをたどるだけだった。

 剛司は自信に満ち溢れていた。何度も練習をした。繰り返し反復練習をした。このまま飛行すればランディングゾーンに辿り着ける。

 そう思ってしまったのが間違いだったのかもしれない。

 進路を変えるため、右のブレークコードを引いた瞬間だった。

 突然の突風が機体を襲った。先程とは違い、サーマルではない風。横風が剛司達の機体を揺らす。バンクが思ったよりも発生してしまい、機体が大きく右に傾いた。

「きゃっ」

 たまらず憧が悲鳴を上げた。剛司はどうにかしようと左のブレークコードを引こうとする。

 しかしその瞬間、またしても横風が機体を大きく揺さぶった。まるで風が剛司達の機体を包んでいるかのように、剛司が機体を立て直すのを邪魔するように襲いかかる。

 そしてキャノピーがついに潰れてしまった。先程まで空気を孕んでいたはずのキャノピーの姿に、剛司は顔が真っ青になる。機体は完全に操縦不能となってしまった。

 このままでは墜落の危険があった。機体のバランスが崩れ、コーヒーカップに乗っているようにぐるぐると回り続ける。視界の確保が難しい状況だった。

 その時、無線機が入る音がした。剛司は何とかホルダーに手を伸ばし、無線機を取り出す。

 スイッチを入れようとした瞬間、さらなる突風が剛司を襲った。突風は無情にも剛司の手から無線機を奪い取った。無線機は真下に落ちていく。

 このままじゃ危険だ。剛司は最終手段に打って出る。ハーネスからレスキューパラシュートを取り出した剛司は、憧と剛司を繋ぐライザー部分に取りつける。そして斜め下にめがけ、思いっきりパラシュートを投げつけた。

「憧、ごめん。緊急脱出するから、しっかり捕まってて」

 剛司のまくしたてる言葉に、憧は迷わず首を縦に振った。剛司はレスキューパラシュートが開くまでの間、キャノピーのラインを手繰り寄せ、完全にキャノピーを潰していく。

 その間、下に投げたレスキューパラシュートは完全に開き、剛司達の真上に向かっていく。それに代わるように潰れかけたキャノピーを手繰り寄せた剛司は、空気を孕まないように完全に潰す。

 レスキューパラシュートが剛司達の真上に来た瞬間、降下し続けていた剛司達はふわっとした感覚に包まれる。どうにか体勢を立て直すことができたと剛司は思った。しかしそんな安心も束の間、剛司達をさらなる横風が襲った。

 風に煽られた機体はレスキューパラシュートまでも飲み込む。剛司は上空を見上げる。レスキューパラシュートのキャノピーが潰れかかっているのが目に入った。

 高度はもう二〇〇メートルを切っている。剛司の脳に最悪の状況がよぎった。

 このままだと、地面に叩きつけられるかもしれない。

「ごめん……憧」

 言うつもりがなかった諦めの言葉が出ていた。憧に聞かれてしまった。言いたくなかった心の声が、音となって空中に響き渡る。

 風を切る音が耳元で聞こえる。剛司は目をつぶった。

 結局、自分は何ができたのだろうか。憧のためにと頑張ってきた。ずっと走り続けてきた。多くの人に迷惑をかけた。だからこそ、今日は成功させないといけなかった。それなのに、少し自信がついたからと言って、サーマルに乗ってしまった。

 出発前に青羽に言われていた。サーマルに気をつけろと。青羽はこうなることを予期していたのかもしれない。それなのに、無駄な自信が今の現状を招いてしまった。憧の恐怖を失くすどころか、今自分がしていることは恐怖しか残らないこと。


 もう無理だ。


 剛司は目をつぶったまま、静かに終わるのを待った。

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