前夜

 高高度フライトをはじめて四日目の七月三〇日。いよいよ明日に迫った本番を前に、剛司は思うような練習ができなかった。決して身体の調子が悪いとか、どこか怪我をしたとかではなかった。スカイスポーツにはどうしても避けられない問題がある。

「今日も雨か……」

 剛司は憂鬱な気持ちだった。

「明日は晴れるみたいだ。だからそのための準備をしっかりとしろよ」

 青羽にかけられた言葉で、どうにか剛司はやる気を取り戻す。明日は晴れる。その言葉を信じて、剛司はイメージトレーニングを繰り返す。

 タンデムフライトの練習は特に難しさを感じなかった。青羽の指導もあり、タンデムフライトでも、剛司はパイロットを難なくこなしている。技術的にはまだまだ不足している部分もあったが、青羽から合格点をもらえるレベルまで来ていた。

 その技術を確実なものにしようと思った昨日、無情にも剛司の練習を阻んだのは雨だった。当然雨の中でのフライトはできないとのことで、剛司は昨日からずっとイメージトレーニングを繰り返している。

 そして本番の前日を迎えた今日の天気も雨だった。

 剛司は憧との約束を思い出す。

 明日の朝八時。その時間になったら憧を迎えに行く。

 そのための準備は出来る限りやってきた。

 だからこそ剛司は、憧のためにも絶対に最高のフライトにしたいと思っている。

 イメージトレーニングでは、何度も二人で空を浮かぶ光景が脳内で繰り返し映し出されている。テイクオフの瞬間、旋回の瞬間、そしてランディングの瞬間。一つ一つの動作の度に憧が笑みをみせている。

 そんな笑顔が咲き誇るフライトを、本番でも行いたいと剛司は思った。



「剛司君、ちょっといいか?」

 夕食後、呼び出された剛司は青羽の元に向かう。

「とりあえず座ってほしい」

 青羽の正面が空いていたので剛司はそこに腰掛ける。

「どうしたんですか?」

「実は、剛司君にお礼を言いたくて」

「お、お礼ですか?」

 むしろお礼を言うのは自分だと思っていた。だからこそ剛司は青羽の言葉に驚かされる。

「友恵から聞いたと思うけど、以前俺はここでスクールを開いてた。その時に、一人の受講者を怪我させたんだ」

「でも、あの怪我は受講者の不注意じゃ……」

 下半身不随になってしまったと剛司は友恵から聞いた。でも、話の内容を聞く限り青羽のせいではないと剛司は思う。

「違う。監督責任は俺にある。受講者のせいじゃない。あの怪我は俺のせいなんだ」

 青羽の言葉に剛司は何も言えなかった。

 暫く沈黙が続く。雨が激しさを増し、プレハブ小屋に雨音が響いている。剛司はなんだか気まずくなり、青羽から視線をそらした。青羽はそんな剛司に向け話を続けた。

「そのこともあって、最初は剛司君の挑戦に賛成できなかった。事故が怖かったんだ。もし俺が教えて、また怪我をすることになったらって考えてしまって」

 剛司は顔を上げた。そして青羽が震えていることに気づく。

 青羽は一度起こしてしまった事故を悔いている。取り返しのつかないこと。それは今の剛司も思うことはあった。剛司自身、親友との間に悔いていることがあったから。

「でも、それは俺の甘えだった。剛司君は怪我もせず、今日までずっとパラグライダーに真摯に向き合ってくれた。そんな剛司君に俺は勇気をもらった。空美さんの為に、本気で成し遂げようとしている気持ちが伝わってきたんだ」

 ありがとう、と青羽は頭を下げた。

「や、やめてください。青羽さん。お礼を言うのは僕の方です」

 青羽にどうにか頭を上げてもらった剛司は、改めて青羽にお礼を言う。

「無理を聞いてもらって、ここまで僕のためにしてくれて。本当にありがとうございます。ここまでやってこれたのは、多くの人の支えがあったからです」

 剛司は今日までの日々を思い出す。一人じゃここまでできなかった。無理を言ったのにも関わらず、剛司の要望を聞いてくれた青羽達には本当に頭が上がらない。

 剛司は決めていたことがあった。

「だから僕、決めたんです」

「決めたって?」

 青羽は小首を傾げる。剛司は自らの思いを青羽に伝えた。

「明日のフライトが終わったら、本格的にスクールに通います。それで正式な資格を取って、青羽さんの体験のお手伝いをしたいんです」

「剛司君……」

「青羽さんの指導は世界一だって僕は証明したいです。怪我をしてしまった子も、僕と同じ気持かもしれない。だから体験を続けてほしいって言ってくれたんだと思います」

 剛司は余計なことを言ってしまったと思った。それでも青羽は目を潤ませていた。

「ありがとう。明日は必ず飛ぼうな」

 剛司の頭に手を置いた青羽はその手に力を入れた。剛司の身体が青羽にゆすられる。普段受けたことのない行為だったけど、剛司は何故かそれがとても嬉しかった。



 午後一〇時。明日に備えて剛司は早めに寝ることにした。雨はまだ降り続けている。明日は朝から晴れる予報だったけど、剛司は不安で仕方がなかった。

 布団の中に入った剛司はスマホの天気予報を見る。雨雲レーダーによると、午前四時まで降るかもしれないとのこと。剛司は雨が止むことを祈るしかなかった。

 突然スマホが震えた。確認すると、光からのメッセージだった。


『明日、五時にそっちに向かう。朋も亮も来るから。朋に言いたいこと、はっきり言うこと』


 明日の五時。朋が来る。その文章を見た剛司は、心臓が跳ねたのがわかった。

 朋との関係は、あの日以来崩れたままだった。お互いに連絡することもないまま、今日まで来てしまった。それでも、明日。剛司は自分の気持ちを朋に告げる。

 パラグライダーの練習を通していろんなことを学んだ。それは技術だけではなかった。特に学んだのは人間性だった。パッセンジャーに対して不安を抱かせない導き方は、剛司にとって新鮮な驚きがあった。今まで知っている人としか、コミュニケーションをとってこなかった。いつも受け身で人に頼っていたから。気づかないことがたくさんあった。

 でも、そんな自分はもういない。

 剛司は既に知っている。

 だからこそ剛司は、自信を持って朋に伝えることができる。

 明日、剛司は今までの関係にお別れをする。

 朋との関係に終止符を打つことを決めた。

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