五章 努力と絆

特訓!

 七月一七日の日曜日。剛司は埼玉県熊谷くまがや市に来ていた。

 前日に友恵から紹介してもらったスクールの場所は熊谷だった。熊谷といえばよく日本一暑い市ということで、猛暑の日にはよくテレビ中継される場所。駅の入口には暑さ対策として冷却ミストの噴霧が舞っていた。

 花加はなかから熊谷までは電車で片道一時間半かかった。スクールまで通う時間が長いと思ったが、復習の時間に当てられると、剛司は前向きにとらえるようにした。

 駅から徒歩五分。友恵からもらった紙を手に、右往左往しながらもスクールに辿り着いた。剛司は友恵からもらった紙に目を向ける。そこに書かれている住所をスマホに入力し、マップで現在地を確認する。

 間違いない、この場所だ。

 確認をしたのにも関わらず、今いる場所が本当に正しいのか剛司は疑問を抱いていた。

 パラグライダースクールは、青羽の所みたいに都会から離れた山々に囲まれた場所にあるものだと思っていた。それなのに剛司がいるのは、近場に山が一切ない住宅街の中にある五階建ての建物の前。少し不安を抱きながらも、剛司は住所と一致する建物の中へと入っていく。この建物の最上階、五階がスクールの場所とのこと。剛司はエレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。ボタンの下にはシールが付いており『羽田はねだパラグライダースクール』と書かれていた。その表記を目にした剛司はほっとする。

 エレベーターが到着し、ドアが開くと目の前に一つだけ扉があった。一目見ただけだと、この場所にスクールがあるとは到底思えない雰囲気が漂っている。ドアの上にある表札に『羽田パラグライダースクール』と書かれているものの、それすらも偽物ではないかと思うほど。

 剛司は躊躇いを抱きつつ、インターホンを押した。

 朝九時過ぎ。友恵には九時半前には到着しておいてと言われていた。少し早く着いてしまったが、問題ないはず。剛司はその場で応答を待った。

 暫くしても反応がなかったので、もう一度インターホンを押す。次第に不安が脳内をよぎる。この場所は違うのではないか。それとも時間が早すぎたのか。色々と模索していると、インターホンから声が聞こえた。

「はい」

 思ったよりも低い声だった。声が掠れているというかこもっているような声質。

「あ、あの。青羽友恵さんの紹介で来ました、梔子剛司です」

「友恵……ああ、紹介の子ね。ちょっと待ってて」

 ドア越しにドタバタと音が聞こえる。暫くしてドアが開いた。

「お、おはようございま……」

 半開きのドアから見えた女性の姿に、咄嗟に剛司は顔を背けた。ドアが全開し、剛司の前にその女性は現れる。

「やあ。君が剛司君か。ともちゃんから話を聞いてるよ」

 友恵のことを友ちゃんと呼ぶところから、剛司はこの人が羽田だと確信した。

「はい。っと、その前にちょっといいですか」

「どうした? もしかして恥ずかしいのかな?」

 にやにやと表情を浮かべる羽田を一瞥しつつ、剛司はできるだけ羽田の身なりを見ない様にしていた。

 羽田の恰好は剛司には刺激が強すぎた。上は白地のタンクトップ。下ははいているのかわからないくらい短い紺色のパンツという身なり。タンクトップ姿の羽田は細身で綺麗なのがわかるくらい身体のラインが出ており、胸元には大きな膨らみが二つあった。

「その、服装なんですけど……」

 剛司の指摘に、羽田は自らの服装に視線を向ける。

「ああ、ごめんね。ついさっきまで寝てたんだ」

 どうりで聞こえてきた声のトーンが低かったと剛司は思った。今の羽田は先程よりも声がこもっていなかった。

「とりあえず上がって」

 羽田の指示に従い、剛司は玄関で靴を脱いで廊下を進んでいく。左右に二つずつドアがあり、突き当りにもドアがあった。全てのドアが上半分ガラス張りとなっており、中の様子が伺える。各部屋にはホワイトボードと机と椅子が置かれている。

 突き当りのドアを開けると、この部屋の居間と呼べる空間に出た。

「ごめんね。君が来るの九時半って聞いていたから、五分前まで眠てようと思ってて」

 コーヒーでいいよね、と声をかけられた剛司はただ頷くことしかできなかった。独特のリズムを持つ羽田は、青羽と雰囲気が似ている気がした。やはりパラグライダーをやる人には奇抜な人間が多いのかもしれないと、剛司は再度実感する。

 丸テーブルのある場所に座った剛司は、目の前に広がる光景に違和感を覚えずにはいられなかった。そもそも剛司の想像していたスクールは、もっと大きな講義場所が複数あり、大勢の人達が一度に授業を習う、大学の講義と似たような場所だと思っていた。しかし剛司の目の前にはそんな光景は一切広がっていない。マンション住まいの家庭の光景を見ているような感覚だった。

「お待たせ、はいコーヒー」

「あ、ありがとうございます」

 グラスに入ったアイスコーヒーを口に含む。ブラックコーヒーが好きだった剛司には、とても嬉しい飲み物だ。

「あら、ブラックいける口?」

「はい。小さいころ、よく母親のコーヒーを飲んでいたので」

「あら、おませさんね」

 笑みを見せた羽田に剛司はほっと息を吐いた。はじめはどうなるかと思ったけど、羽田の優しそうな雰囲気が伝わってきて、心地よさを覚える。

「あの、ちょっとだけ質問してもいいですか?」

「何かしら?」

「この部屋に入った時に思ったんですけど……スクールっぽくないなって」

「たしかに。ここに初めて来た人はみんな口をそろえて同じことを言うわ。ここは学科専門の場所なのよ」

 友恵の言っていた意味がようやく理解できた。学科で認められること、学科に集中する場所を友恵は用意してくれたのだ。

「フライトはどうするんですか?」

「フライトに関しては休日に行うの」

「休日……って今日じゃないですか」

「そうね。だから君以外の受講者は別の場所に行ってる」

「インストラクターの方が他にもいるってことですか?」

「そうよ。三人講師がいる。私を含めると四人ね」

 先程、部屋が四部屋あった。おそらく一部屋に講師が一人つく体勢なのかもしれない。

「羽田さんは行かないんですか?」

「私はここの代表をやってて、教えるの専門。他の三人がインストラクターの仕事を請け負ってくれてるの。それと君が来るって聞いてたから。だから私は行かなかった」

「なんか、すみません」

「いいのよ。テイクオフポイントに行くとなると、朝が早いから。こっちにいる方が楽なの」

 ふふっと笑みを見せた羽田は、コーヒーに口をつける。

「さてと、私は少し着替えてくるから、君は第一部屋に行ってて」

「第一部屋ですか?」

「あれ、来るときに見えなかったかな。廊下に出ると左右に二つずつドアがあるから、右奥が第一部屋。そこで講義するから待ってて」

「はい、わかりました」

 羽田は席を立つと奥の部屋へと消えていった。もし一人で住んでいるとしたら、羽田はとんでもないお金持ちなのではないかと剛司は思った。部屋の間取りを考えると、5LDKはあることがわかる。パラグライダーは意外に儲けることができるのかもしれない。そんな思考が剛司の脳内をよぎった。

 空いた二人のグラスをシンクに置き、剛司は羽田に指示された第一部屋に向かった。先程は気づかなかったが、部屋の入口にはそれぞれネームプレートがかかっていた。

 第一部屋に入った剛司はとりあえず一番前の机に座る。

 白い壁をベースにした部屋の作りがとても新鮮な気がした。部屋の中を見渡すと、部屋の入口と正反対の場所に窓があった。剛司は窓辺まで近寄り外を眺める。そこからは熊谷市の街並みが見えた。どことなく田舎という空気を感じたが、青羽の場所に比べると田舎というよりは都会に近い。それでも遠くにうっすらと見える山の姿が、何故だか遠くに来た気持ちを剛司に抱かせた。

「お待たせ。それじゃ、始めようか」

 羽田が部屋に入ってきた。黒のウィンドブレーカーを身に纏い、先程よりも露出が少なくなっていた。腕まくりをしており、その着こなし方がどことなくスポーツをする人に見える。先程の姿とは全く違った羽田に、剛司はほっと息を吐く。

 席に着いた剛司は羽田に視線を向ける。

 これから目の前にいる人から多くの事を学ぶ。それが憧のためになる。そう思うだけで剛司のやる気は上がった。

「まずはじめに」

 羽田と視線がぶつかる。暫くの間、そのままの状況が続いた。まるで心を読み取られているような気がした剛司は、少しだけ不安を抱いた。

「友ちゃんから色々聞いたけど……本当にやるの?」

「えっ」

 羽田の言葉に剛司は身が引き締まった。背筋に緊張が走る。

「正直、今回の学科を習っても資格は取れない。それはわかってるよね?」

「は、はい」

 当然だ。パラグライダーの資格を取るには学科以外にも実技の試験がある。それを乗り越えて初めて資格として認定される。剛司も調べていたのでそのことは知っていた。

「タンデムまで行うのはいくら学科だけでも正直なところ、かなり難しいことだと私も思ってる。たった一週間であなたがどれだけ学べるのか。スクールの受講生を見てても、そんなに早く学ぶ人はまずいない。それ相応の覚悟が必要なの」

 友恵も同じようなことを言っていた。だから剛司には覚悟ができている。

「大丈夫です。僕は絶対に諦めません」

「憧ちゃんだっけ?」

 突然羽田の口から憧の名前が出てきて、剛司は狼狽えた。おそらく友恵さんが羽田に話したのだろう。

「色々聞いたけど、私にはあまり関係ないこと。もし君がついてこれないようなら、途中でもバッサリと切るから。わかった?」

 羽田は剛司に視線を送る。

 もう逃げ場はない。憧の力になりたい。今はそのために出来ることをするまでだと、剛司は意気込む。

「はい。お願いします」

「まあ、友ちゃんがどうしてもって言ってくるってことは、見込みはあるんだと思う。わからないことはどんどん質問して」

 こうして羽田によるマンツーマン指導が始まった。


 はじめに教わったのはパラグライダーの歴史。パラグライダーは一九七八年にフランスのスカイダイビング愛好者が、山の斜面からパラシュートで飛び立ったのが始まりと言われているとのこと。そこからアルプス周辺の国々から世界中に広まり、一〇年後の一九八八年頃には最も一般的なスカイスポーツとして親しまれるようになった。日本にパラグライダーが広まったのも同時期で、テレビでパラグライダー講座が放映されたことにより、認知度を高めていった。そんなパラグライダーは自動車のような国家ライセンスがない。そのためパラグライダーには技能証制度がある。現在日本には技能証を発行しているパラグライダーの団体が二つあり、日本ハング・パラグライディング連盟の「JHF」と日本パラグライダー協会の「JPA」という二つの団体がある。この二つの団体が発行するいずれかの技能証を持つことによって、日本全国の決められたエリアでパラグライダーを楽しむことができる。

 二つの違いについて剛司は羽田に質問したが、羽田自身も詳しく知らないらしい。ただJHFの方が古くからあり、世界のスカイスポーツを統括している国際航空連盟「FAI」にパラグライダーの統括機関として多くの事業を移譲しているため、JHFは日本のパラグライダーの統括代表機関と言われている。一方のJPAはFAIとは一切関係なく、独自の技能証を発行している団体と教えてくれた。羽田パラグライダースクールはJHFの団体に所属している。羽田本人はJPAの資格も持っているとのことで、二刀流の指導ができるスペシャルな人だとわかった。青羽も羽田と同じで両方の資格を持っているらしい。

 パラグライダーについて淡々と話す羽田の話は、とてもわかりやすかった。今話してもらっている歴史を踏まえて、多くの人が空を目指して実際に飛んでいる。剛司もその一員になれることが誇らしく思えた。


 歴史に関しては余裕だった剛司が次に学んだのは、パラグライダーの飛ぶ原理について。しかし、これが意外にも剛司の苦手な部類の話だった。

 パラグライダーで空を滑空することができるのは、パラグライダーで空気の中を進むと上向きの力(揚力ようりょく)が発生するから。この揚力とパイロットの体重、前進する力、それらの抵抗などが釣り合って、安心した飛行を行うことができる。揚力の発生には翼の上面を流れる空気と、下面を流れる空気の速度差が重要になってくる。揚力を発生させる仕組みがパラグライダーの翼にはあった。パラグライダーの翼を側面から見ると、よくイルカや魚からひれを取り、さらにその背中に丸みを持たせ、腹部を上へやや反らせた外形になる。このように背中が丸みのある流線型にこそ、パラグライダーが飛ぶ原理が隠されている。この翼に風が当たったり、翼を加速させたりすると翼には相対的な空気の流れができる。翼の上面はイルカの背中のようにカーブしており、空気が回り込むため速度の速い流れができる。流れが増すと気圧が減少する。一方で翼の下面はレンズ状にへこんだ形に反っている。そのため空気の流れは抑えられ、速度は遅くなるため気圧が上がる。気圧は高いほうから低い方へと移動するため、この圧力差によって翼が上に引き上げられる。これが揚力の発生と言われており、上面と下面で起こっている流体の速度が上がると圧力が下がることは「ベルヌーイの定理」と呼ばれている。


「とりあえず五分だけ休憩。ここは重要だから覚えといてね」

 さらりと羽田は告げると、一度部屋から出て行った。羽田の後姿を見送った剛司は、直ぐに机に突っ伏した。まだはじめの方だと思うのに、既に脳が疲れていると悲鳴をあげているのがわかる。

 剛司は文系の大学に通っている。そのため物理とは無縁の生活を送っていた。物理に耐性のない剛司にとっては、とても辛い内容だった。

「はい、それじゃ次に行くよ。それと、今日学んだ内容は最後にテストするんで」

「て、テストですか!?」

「そう。それくらい当然よ。一週間で学ぶんだから。もしかして、もう降参かしら?」

 意外なスパルタ指導に、剛司は先程抱いた感情を捨てることにした。

「いいえ。大丈夫です。お願いします」

 剛司は頬を叩いて、自ら気合を入れる。真剣にぶつかってきてくれる羽田に応えたい。自分で決めたことに最後まで取り組む。その気持ちで剛司は羽田の話に耳を傾けた。



 その後も羽田の話はずっと続いた。パラグライダーに働く力について、テイクオフ時の助走、安定飛行中、旋回時等、様々なシチュエーションでの力のかかり具合について剛司は学ぶ。

 ある程度学んだ剛司は、パラグライダーは物理法則がわかっていないとやっていけない競技だと言うことがわかった。青羽の体験で飛んだ時には、ここまでしっかりと習うとは想像もしていなかった。友恵や羽田が厳しいと言っていた理由がようやく理解できた気がする。

 そして午後八時過ぎ。最後に行われたテストも何とか合格した剛司は、ようやく長い一日を無事に乗り切った。

「今日はありがとうございました。明日も朝からお願いします」

 剛司は頭を下げた。羽田は剛司の言葉に表情を曇らせる。

「ごめんね。平日は午後三時から六時の三時間しか教えられないの」

「そ、そうなんですか」

 剛司は拍子抜けしてしまう。てっきり朝から晩までみっちりとしごかれると思っていた。

「私も色々とやることがあって。これから夏休みでしょ? うちってスクール体験もやってて、結構お客さんが多いの。だから私も含めて、インストラクター全員が現地に行かないといけないの」

 羽田の事情を剛司は言われるまで考えていなかった。時間がないと言っていたのは、羽田自身も教える時間が限られていることも含まれていたみたいだ。

「すみません。お忙しい中、僕の為に時間割いてくださって」

 剛司は改めて羽田に頭を下げた。

「いいのよ。そのかわり、教本貸してあげるからみっちりと復習と予習をしてきてね。特にパラグライダー用語ね。これを覚えてないと実践でも苦労するから。げんが教えるなら尚更ね」

 笑みを見せながら語る羽田に、剛司は気になることを質問する。

「あの、羽田さんは青羽さん達とはどんな関係なんでしょうか?」

「友ちゃんとは友達かな。実は私、二浪して大学入ったんだ。その時の同期が友ちゃん。源とは年齢が同じで、パラグライダー仲間の飲み会で会って以降、色々と親交があって。まあ、一種のライバル的な関係かな。まあ、だから友ちゃんの頼みは断れないってわけ。なんか色々と縁があるのよね」

 窓の外に視線を移した羽田は、どこか儚げで哀愁を帯びた表情をしていた。

「ま、それは置いといて。明日から金曜日まで、午後三時過ぎに来てくれれば大丈夫だから」

「わかりました。今日はありがとうございました」

 剛司は頭を下げ、羽田パラグライダースクールを後にした。


 帰りの電車で剛司は今日習ったことを思い返していた。それと同時に、色々と用語を覚えていく。キャノピーはパラグライダーの翼のこと。ラインはキャノピーとパイロットを連結しているもの。初めて体験した時に、青羽はラインのねじれについて確認していた。もしねじれていたら、キャノピーが上手く立ち上がらずに事故につながることが、今の剛司にははっきりと理解できた。当時はわからなかったことも、羽田の教えでわかるようになってきている。まだ一日目だけど、自分の成長を肌で感じることができたことが少し嬉しかった。


 花加に着いた頃には既に午後一〇時になろうとしていた。アルバイトで遅くなる時と同じ時間帯だったため、そこまで苦痛ではなかったけど、脳はかなり疲れていることが剛司自身わかった。

「あれ、剛司じゃん」

 剛司に声をかけたのは光だった。

「あれ、天堂君。どうしたの?」

「今日、ふうちゃんのサイン会があって。東京の方まで行ってました」

「そうなんだ」

 そういえば光は楓のファンだったと剛司は思い出す。それと同時に、この間の出来事が剛司の脳内を徘徊する。

「それで剛司はどうしたのさ。こんな時間まで」

「えっと、実は……」

 脳が色々と疲れていたこともあったのかもしれない。剛司は考えることもせずに、光にパラグライダーを本格的に始めることを伝えていた。そしてそれと同時に、憧が七月末に遠くに行ってしまうこと、それまでに自分の力で憧と一緒にタンデムフライトをすること。剛司が抱いている思いの全てを光に伝えた。

「へえ。なんか剛司頑張ってるな」

「そうかな」

 頑張ってる。光の発した言葉に剛司は改めて強い気持ちを抱いた。

 憧と一緒に飛びたい。だからこそ剛司は今、精一杯頑張れる。

「それで、その学科が終わったらどうするんだ?」

「終わったら青羽さんの所に行って、泊まり込みで学ぶ予定なんだ」

「そっか。青羽さんの講義はいつから始まるんだ?」

「えっと、二四日だよ。一〇時からって聞いてる」

 羽田のテストを合格しないと、今話していることはなくなってしまう。剛司は光にそのことは伝えなかった。

「よかったらその日、自分の車で行かない?」

「そ、そんな悪いよ。朝も早いし」

「いいって。剛司が頑張ってるんだ。自分も協力したいと思ってる」

 それに空美さんの為に剛司が頑張るんだから。と光は笑いながら言ってくれた。

「ありがとう。僕、頑張るよ」

「それじゃ、二四日は七時に花加駅のロータリーに集合ってことで」

 そう言い残して光は帰っていった。その背中が見えなくなるまで剛司は見送る。そして視界から光の姿が消えたのを確認し、剛司はゆっくりと歩き出した。

 初夏の夜。独特の匂いが剛司の鼻腔をくすぐった。草花の匂いや土の匂い。ベッドタウンとして栄えている花加でも、自然を感じられる場所が身近にあることに剛司は今更気づいた。

 ふと空を見上げると、黒で塗りつぶされた空のパレットにひときわ光る三つの星があった。南東側に見えていることから、夏の大三角形であることがわかった。

 剛司の脳裏に七夕たなばた伝説の話がよぎる。織姫と彦星。一年に一度しか会うことを許されない二人。剛司は詳しく知らなかったが、織姫と彦星が仕事をしなくなったから制約が生まれたのだと、光が話しているのを聞いたことがあった。その話を聞いてからは、会えないことに対して同情する気持ちよりも、自業自得だと思う気持ちの方が強くなった。それに一度は会えるのだから、とても幸せなことではないかと剛司は思う。

 だってもう、憧とは二度と会えなくなる可能性が高いのだから。

 上空には無数の星が瞬いており、剛司を照らしてくれていた。自分もあの星のように輝いて、憧を照らす力になれたら。そんな思いを募らせながら、剛司は今日習ったことを頭に思い浮かべていた。

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