11-2
曇り空の下、空気は生温く湿っていた。
弥絵は重い足取りで歩いていた。唯一持っているよそゆきの黒いワンピースを着て、服と不釣り合いな無骨なバッグを肩から下げ、箱を両手で抱いていた。白茶けた斜めがけのバッグは一志が使っていたものだ。
突風が弥絵の髪とスカートの裾を揺らした。無意識に遺骨の入った箱をきつく抱きしめ、前方に視線を向けた。見渡す限りの草野原、あちこちに不揃いの石碑。いまは虫の音さえ聞こえない。この場所で生きているものは自分ただひとりだけなのかもしれない。
ここへ来ると寒気を覚える。兄と一緒に訪れたときでも、やっぱり怖かった記憶がある。けれど、母の墓碑の前でだけは、多少穏やかな気持ちになれた。墓碑に使った石は角に丸みがあり白っぽく、なんとなく愛らしい形をしていた。
母の墓碑の隣には、四年前に置いた父の墓碑がある。兄と協力して見つけた、欠けた岩でつくったものだった。
弥絵はしゃがんで、遺骨の箱を草の上にそっと置いた。
父を見送ったときには兄が隣にいた。母親を見送ったときの記憶は弥絵にない。七歳の頃の話だが、どういうわけか何ひとつ覚えていなかった。父と兄と三人で、母を見送ったはずなのだけれど。
「最後のひとりになっちゃった」
墓碑の欠けた部分を眺めながらつぶやく。ひとりずつ欠けてゆき、上条家の血筋はついに途絶えてしまうのだろう。
……あたしのことは誰が見送ってくれるんだろう。
弥絵はぼんやりと思いを巡らせた。幾人かの顔が浮かぶが、その中に頼ってもいい者はいなかった。
宣子のことは好きだけれど、自分の面倒を頼もうなどとは思えない。一志のいなくなったいま、もう深く関わることはないような気がする。
村のひとも、もちろん篠沢も、弥絵の世話をする義理はない。
芝じいも、ずっと帰ってこない。おそらく二度とは帰ってこない予感があった。
……あのひとだって、すぐにいなくなる。
弥絵は杉本の顔を思い浮かべた。浮かんだのは、机に向かい書き物をしているときのうつむいた横顔だった。眼鏡の奥の優しげな眼差しだった。
遠からず杉本も、自分の場所へ帰ってしまうだろう。
あたしは取り残されて、死ぬまでひとり。
「ねえ、お兄ちゃん」
たまらず呼びかけた。声がかすれた。返事は聞こえなかった。
弥絵は草の上にへたり込むようにして腰を下ろした。柔らかい草が彼女の脚を包んだ。そのままゆっくり、弥絵は身体を倒した。草が頬を撫でた。土のにおいがした。彼女はまぶたを閉じた。
空は高く澄み切っていた。晴れていたけれど風は冷たく、肌寒い日。
四年前の夕方。秋の空気の中、彼らはふたりきりだった。
父親の塚をつくり終えると、兄妹は立ち上がって並んだ。長い影と短い影が揃って地面に落ちる。
野原の寂しげな光景を眺めていると、ここに父の骨を置き去りにすることが申し訳なく思えてきた。かといって家に持ち帰ることもできない。死者の
弥絵は黙って足下を眺め続けた。父親の不在が、心に大きな穴を開けていた。
「弥絵。ここ、出るか」
一志が言った。
もう塚野原から立ち去ろう、という意味なのかと思った。弥絵は傍らの兄の顔を仰ぎ見る。
「でも、もう少し……」
ここへ立ち入るのは身内が亡くなったときだけだ。母の塚を見るのもほとんどはじめてのような気がしていたし、なにより、父との別れをもう少し惜しみたかった。
困惑顔の弥絵に向かって、一志は首を振った。
「違う。ここ、じゃなくて。村」
「村?」
意味が判らず、おうむ返しに問い返す。一志は弥絵の目を見つめて頷いた。
弥絵は意味を飲み込むと瞳を見開いた。
想像したことすらない提案だった。
父の死因は理解していた。このまま村に留まることが危険かもしれない、ということも。この村で生まれ育った者にはある程度の免疫がついていると思われるが、医学的に安全を保証されたものではない。現に彼らの父親は、四十半ばという若さでこの世を去った。
彼らの母親は余所者だった。この村に土地を持つ父に嫁ぎ、ふたりの子供を遺して世を去った。
両親ともに村の出身である血の濃い者は長生きをする。村の者は皆、本能でそれを知っている。誰も口に出さない、公然の秘密。
はっきりとした根拠や確証があるわけではないのに、彼らは平然と村に留まり続けているのだ。
しかし当時の弥絵は幼く、それを不思議に思ったり、疑念を抱いたりするまでには至らなかった。
「金がないから、すぐには無理だけど」
一志は静かに言葉を続けた。
「出ていこう」
どうすることがいちばんいいのか、正直、弥絵にはよく判らなかった。
用事で村を離れることすら
けれどそれ以上に、兄と離れることは、断然に有り得ないことだった。兄の行くところへついてゆくことは決まっている。だから、答も自動的に決まる。
一志が出てゆくと言うのなら。
弥絵は無心で、大きく、首を縦に振った。
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