第40話:青二才
1
「今日も大漁、大漁祭りっ。俺が漁に出りゃわんさか魚が。わっしょいわっしょい……」
薄靄いまだはれぬ早朝の頃、静まり返る通りに呆けた男の声が響く。男の声に合いの手を入れるように阿呆とカラスが鳴く。
低く喉を鳴らしながら騒々しくてかなわない、と訴えかけるような視線が男に向く。
「うぉ、とらさん。おはようさん」
とら、と名付けられた猫は不機嫌そうにまた低く喉を鳴らした。
「いつもだけどつれないねぇ、とらさんは」
男は笑いながら猫の頭を無遠慮に撫でまわすと、肩で風を切りながら薄靄の先へ消えていった。
しばらく歩くと港が見えてきて、橙色の船の灯が靄に滲んでいる。
「おお与太郎。なんだい、今日はずいぶん早いじゃないか」
「へぇ! 親方、今日は大漁な予感がしたもんで」
「与太郎がそう言うならそいつは期待できそうだな」
親方は出港準備を始める。与太郎も鼻歌を歌いながら漁の準備に取り掛かる。すると船室から壮年の男が1人出てきて与太郎を見てため息をつく。
「親方、あんまり与太坊を調子に乗らせない方がいいですって」
「元気があっていいじゃねぇか吉ちゃん。若いうちは調子に乗るもんだ。それにあいつが大漁っていった日は大量だったろ? なぁに問題ないさ」
豪快な笑いが船室に響く。
「おい、与太坊」
「なんです? 」
「海の様子はどうだ? 」
「うーん。波のうねりは今のとこ穏やかです。ここ最近はこんな気候だし、ぱーっと行ってさっと戻ってくれば問題ないっすよ」
「そうか」
吉造がため息とともに吐いた煙は薄靄に溶け込んでいく。吉造は短くなった一本を吸い殻に捨て、もう一本火をつけて一服付けた。
「ああいけねぇ。煙草が湿気ってやがらぁ」
取り出された一本は吸われることなく、吸い殻へ落ちた。
2
いつもは沖へと一勢に出ていく船が、今日は少なく、数は指を追って片手で足りる程だった。出港したのは与太郎の乗った船と、この町一の漁師が乗り込んだ船と、その他2、3隻程度だ。
波は与太郎の言った通り穏やかであったが、吉造にはその波が嵐の前の静けさの気がしてならなかった。
「親方、今日は奥まで行くのはやめよう」
「そうだな。ここ最近靄はあったが今日は一層濃いしな。よし、今日は定置網を引き揚げて、それから手前のポイントで網投げて回ってみるか」
「それがいい」
「そんなぁー。親方今日は大量の予感がするんだ。おいらの予感は大概的を外れてねぇ。行けば釣れ―――」
「おい、与太坊」
凄んだ吉造が与太郎を睨む。それに気づいた与太郎はすぐに口を閉じ、小刻みに震えながら肩をすぼめた。空気が氷結する。静かな海がどんどんと冷え上がっていく気がした。
「まぁ、吉ちゃん。そう怒りなさんな」
親方の一声で吉造が目を逸らし、針のむしろに立たされたような緊張感から解放された与太郎はやっと息を吐きだした。
「与太郎。漁ってのは塩梅ってのがあってな、あんま欲張りすぎると神さんに怒られるんだ。お前も漁師の端くれなら覚えとくといい」
温かい親方の手が与太郎の頭を優しくたたく。はいと一言呟き与太郎は作業に戻る。すっかり調子を崩したのか与太郎は一言も喋らなくなった。
漁をこなしていくうちに吉造の不安は時間とともに消え去り、帰る頃に小雨が降っただけで空の模様も海の模様も変わらず穏やかなままであった。
3
翌日の早朝、与太郎が引き戸を開け猟に出かけようとすると、家の前に親方と、吉造が立っていた。
「ど、どうしたんでさ? 」
「与太郎、今日は海に出れねぇ」
「何でです? 」
「馬鹿野郎、この格好見てわからねぇのか。葬式に行くんだよ、早く支度しろ」
「え―――」
寝ぼけた眼をこすって前を見れば、真っ黒の背広を羽織った二人が俯いていた。
「昨日の漁で貴さんの船が奥に入っていったろ? 」
「はい」
「帰ってこなかったんだよ、貴さん」
「嘘だ。貴さんはだって……」
「よく聞いとけ与太郎。嵐ってのはなぁ誰もかなわねぇんだ。それがこの町一番の漁師でもな」
親方が言い終わると同時に力なく空を仰げば、雲一つない快晴であった。
いつもならこんな日は駆けだしていくのだが、与太郎は今、立っているので精一杯だ。外の天気とは裏腹に胸の中では驟雨が降っていた。
4
町一番の漁師、貴樹の死から数日経つ。与太郎は通夜に行った帰りから寮には出られなくなっていた。
親方が死んだわけでも、吉造が死んだわけでもなく、船を出禁になったわけでもないのに与太郎は小屋から一歩も出られないでいる。
それは船の上で口走った一言のせいであった。
『親方今日は大量の予感がするんだ。おいらの予感は大概的を外れてねぇ。行けば釣れる』
吉造に遮られなかったら与太郎はそう言っていた。
もし吉造がその言葉を聞いて、船の進路が変わっていたら、そう思うと与太郎は夜も眠れなかった。
海は危険な場所だ。そう言い聞かされ、頭では与太郎も納得していた。だが心に刻み付けていなかったのだ。故に海を軽んじるような言葉が与太郎の口から漏れたのだろう。
「おいらは大馬鹿者だ……」
天井を仰ぐ。天窓からは月明かりが降り注ぎ、やさぐれた与太郎を浮き彫りにしていく。
「ちくしょう」
酒瓶をまた煽った。
「ごめんください」
聞きなれた穏やかな声を与太郎はもう何日も無視し続けている。しかし、今日は一人ではなく二人のようだ。
「おい、与太坊いねぇのか」
借金取りのように怒鳴り続ける声と共に戸を蹴りつける音が響いた。
「与太坊、ほんとにいねぇのか? いねぇんなら返事してみろ」
小屋全体が揺れ、それに飛び上がった与太郎は咄嗟にはい、と叫んだ。
「なんだ。いるんじゃねぇか。いいかげんに漁に出てこい」
小屋の外から響く声に与太郎が行けません、と返す
「てめぇ、いつまで―――」
「まぁ吉ちゃん、まずは理由を聞こうじゃねぇか」
戸の向こうで怒号が鳴りやんで与太郎は胸をなでおろす。
「どうして漁には出られんねぇんだい? 」
「おいらは海を、そしてみんなの命を軽く見ちまった。だからもうおいらは船に乗る資格はないんです」
「お前、あの日『奥まで行こう』って言ったの気にしてたんか」
吉造が戸の奥に向かって声をかけた。その声音にはさっきまでのいらだちは込められていなく、純粋に吉造は驚いていた。
「そうかい、それを気にして与太郎は海に出られないわけか」
「はい……」
「気にすることはねぇよ。俺だってそう言っちまった時があったし、そん時は先代の親方によく怒鳴られたもんだ」
威勢のいい笑い声が方々へ響く。吉造はあたりを見渡し、親方にもっと声の大きさを下げるように注意する。すまん、すまん、と親方はまた笑った。
「なぁ、与太坊。確かにあの一言は浮ついた小僧のわがままだ。俺はなぁ、おめぇのこと今まで調子の良い奴としか思ってなかった。でもな、今俺はお前の見方が変わったぞ。正直な驚いてんだ。漁に来ない理由も『どうせ嵐に怖気づいたんだろ』と思っていた。でもお前は自分の失敗を悔いてたんだな」
「はい……」
力なく与太郎が答える。
「与太坊、失敗を悔いたなら前を向け。糧にできりゃあ失敗してもいいさ。だってお前はまだ、若ぇんだから」
膨れ上がっていた想いが弾けて、涙に変わった。煽り続けて空になった酒瓶がもう一度満ちる程涙を流し続けた。
「ったく、親方も与太坊も近所迷惑ってもんを考えねぇのかい」
「まぁいいじゃねぇか。泣くのも笑うのも失敗するのも生きてるって証拠だ」
与太郎の部屋の前で二人は煙草をふかす。昇る煙が夜風に乗ってやがて溶けていく。
「いけねぇ。呑んだ分全部、目から零れ落っちまった」
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