第41話:鱗の隣
1
「行ってらっしゃい。あなた」
精一杯の笑顔を作ったつもりだったが、女の顔は引きつっていた。
「なぁに心配ないさ」
男は宥めるような笑顔を返す。
「怖くは無いの? 」
「ああ。むしろ嬉しいさ。リネージュは強くて美しい国だ。だからこの国を守る一員として責務を担えることを誇りに思うよ」
「そうね」
踵を返すと見える深緑の制服を纏った男の背中。それは大きく、戦地へ向かう勇ましい背中は女にとっても誇らしい姿であった。
しかし、そう想うのと同時に今までずっと隣にいた最愛の夫が戦地へ赴くことを考えると、引き止めたい気持ちが次々と沸き起こってくる。相反する想いが女の胸中で混ざり合い、思考は混濁していき、行先も決まらないそれが女の前で漂う。
「必ず戻ってきてね」
覚悟していたはずなのに想いを口に出すたび声が上ずる。
「もちろん」
そう言って男はこの家から旅立った。
正午、街では盛大なパレードが開かれ、道化師や踊り子たちは煌びやかな衣装を纏いほの輝きに負けないほど派手に踊る。曲芸師たちは火を吹き、軍人の勇ましさを讃えた。女の夫を含めた兵士たちの出国を国民誰もが祝っていた。
喝采を浴び、行進する隊列の中で女が夫を見たのは一瞬であったが、女はその光景をこの先決して忘れることのないよう、両目に焼き付けた。
2
飛空艇に乗って男が国を離れてから1年の月日が流れた。
戦を始めた頃はリネージュの一方的な征服によって諸外国は簡単に陥落するだろう。そういうシナリオのはずだった。
が、戦というものは様々な戦略があり、展開がある。小国であるのにもかかわらず、大国リネージュはその国との戦に手こずっていた。
疲弊した兵士たちが終わらない戦場に嘆く中、男もまた肩を落とし、夜空に向かって白煙を吐き出していた。
満天の空を見ていると浮かび上がる女の横顔。胸は締め付けられ一度言葉を吐きだせば情けなく顔が歪む。自分が今、上を向いていてよかったと思った時、兵士の一人が男の肩を叩いた。
「この戦、思った以上に長引くな」
「ああ、数ではこちらが圧倒的であるはずなのに、何故だろうな」
男は慌てて袖で顔を拭い、平然とした顔を繕って戦友に笑いかけた。
「うーん。聞いた話だが……どうやらそいつには秘密があるらしいぜ」
含めたような笑いを浮かべた兵士に男は眉根にしわを深く寄せながら、戦友に次の言葉を促す。
「秘密って? 」
「これは諜報部の知り合いから流れてきた話なんだがな。どうやら敵国の兵士の一人に千人力の強い奴がいるらしいんだ。それはもう、同じ人間かと疑われるほどにな」
同期のことを紹介するかのように話す兵士に男はさほど深刻なものでもないのだろうと思った。おそらく、終わらない戦火に付き合いきれなくなった誰かがちょうどいい気持ちの落とし所を作ったのだろう、と漠然とそう思った。
「本当かよ。そんな奴いないんだろ? 」
「お前もそう思うか? 諜報部の奴も言ってたけど、この情報はあくまで噂程度でしかないらしい」
「やはり、そうか」
「ああー、早く帰りてぇよな」
兵士の一人が臀部のポケットを弄り、一枚の写真を男に見せた。
「これ家のかみさんと子供。お前んとこは? 」
写真を眺める兵士はだらしなく顔を緩ませ惚気話を始める。賑わいを聞きつけた兵士がまた一人、また一人と加わりふたりきりの会話はいつの間にか宴会へと変わっていた。
「お前は奥さんとかいねぇの?」
「いるさ、最愛の妻が」
すっかり酔いつぶれた兵士の問いかけに男は「最愛の」と恥ずかしげもなくそう言い切った。社交の場であれば笑いのひとつでも起こりそうな言い方だが、男の堂々とした姿を見て、兵士達はそれぞれ帰るべき場所を思い浮かべながら男のカップに次々と自分のをぶつけた。
明るく楽しい話題に酔った夜はもう遠くの日のように、陽が昇ればまた一年にも感じる一日が始まる。
男のいた戦線は苛烈を極めていた。地上では沢山の兵士が叫び、銃声が飛び交っている。
「おいおい……あれは、なんだ」
塹壕から頭だけを出し、地上を覗くと戦場は血風が吹き荒れていた。
兵士たちは一瞬で戦慄を刻みつけられた。
地上で戦う兵士たちが囲んで銃弾を浴びせ続けているはずなのに鎧を着た大男は膝すらつかない。兵士達は斬馬刀によって次々と吹き飛ばされていく。
「不死身なのか、アイツ……」
圧倒的な力を前にして男が所属する隊にはもはや戦略など残されていなかった。
「嘘だろ……」
昨日聞いた兵士の戯言が脳裏をよぎる。
阿鼻叫喚の渦中で雄叫びをあげることも無く、鎧は淡々と男へ近づいてくる。
本能に訴えかける恐怖が襲い、男は震える手で重戦車のような巨躯に向かって発砲し続ける。しかし放った銃弾は葛鉄のように跳ね返されるばかりで、鎧には男の殺意が届くことすらない。急ぐこともなく一歩ずつその歩を進め、鎧は男との距離を確実に詰めてくる。
「待ってる家族のためにも俺はこの道を譲―――! 」
兵士の一人が塹壕から飛び出した。
自暴自棄になるのも無理はないだろう。それほどに鎧の強さは出鱈目であった。そして策もなく真正面から突っ込んでいった兵士は鎧に頭を掴まれゆっくりと握りつぶされた。人間の脳を守るために築き上げられた頭蓋が、兜がトマトの薄皮のように破れ、ぐじゅぐじゅと音を立てながら潰れていった。
噴きだす脳汁と鎧の指股から漏れ出る兵士だった肉塊。そして断末魔。それが聞こえなくなると鎧は啼いた。
そう啼いた。
この表現が最も近いだろう。
鎧の中から聞こえてきたのは形容しがたい音であり、確実に言えるのはそれが人間の声ではないことだ。
「来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来る―――」
体を震わせ、もう懇願するしかなくなった鎧の中は汗と尿で満たされる。祖国への敬愛を胸に秘めて国を出た勇ましく、誇らしい男の姿はもうない。
「あ―――」
そして無様な男の頭上を絶望が覗きこんだ。
3
それから半年の月日が流れた。
いくら一騎当千ほどの力を持つ鎧がいたとしても小国が大国リネージュを征服するのは骨が折れるものだ。加えてリネージュは戦況が厳しくなると、同盟国から多くの技術者を呼び、兵器を盛んに輸入した。そのことで戦況は覆り、やがて小国の侵攻は緩やかに後退しつつあった。
しかし戦が続いていることには変わりはなく、残された人達の不安は解消されることはない。女も例外なくそれに打ちのめされ、不安の中を微かな希望に縋りつきながら彷徨い続ける。心は毎日擦り切れていっている。そのことに気づかないふりが段々と出来なくなっていた頃のことだ。
「どうして僕じゃ、だめなんですか」
女に詰め寄る青年は男と10歳ほど年の離れている弟であり、青年は国家が囲う技術者であるため兵役を免れていた。そして兄の家に初めて招かれたころから兄の妻に一目惚れをしていたのだ。
「私はあなたのお兄さんの妻なんです。だから―――」
「兄さんなんて関係ない。第一あの人は戻ってこないじゃないか」
「戻ってきます」
「嘘だ。兄さんはきっともう死んでる。だからその悲しみは僕が―――」
露店の並ぶ通りに何かが爆ぜたような音が響く。商い人がそれに気づいて視線をあげると微かに赤く腫れる頬を押さえて道端に座り込む青年と涙ぐむ女の姿が映った。
「あの人は『必ず』って言ったことはやり遂げる人なの。あなたには分からないでしょうけどね」
そう言って女は露店並ぶ路地を駆け抜け、裏手へと消えていった。
もう戻ることはない。
お前の夫は死んだ。
あの戦況の中で生き残る確率は少ない。
諦めろ。
様々な言葉を前にして、今にも折れかかりそうになる細枝のような信念を抱えながら男の妻として待ち続けた。
そしてその日はやってくる。
1年半に及ぶ、長きにわたる戦争を終え、多くの犠牲を払いながらも勝利を収めたリネージュは祖国へ凱旋する。国中が英雄達の帰還に沸き立ち、その日はどこもお祭り騒ぎであった。
「退いてください。退いてください」
女は必死に人垣を掻き分け、何とか最前列で兵士たちの行進を見ることができた。あの日、この眼に焼き付けた大きな背中を女は目を凝らして探す。
『きっといるはず、だって手紙は届いてないのだから』
長い時の中で女が希望を捨てきれなかったのはそのことによるものであった。もし戦場で戦死した場合、身元確認を終えた後そのことを告げる手紙が届くはずで、女の家にはその手紙は届いてなかったのだ。
「なんで―――」
しかし、男の姿は見当たらなかった。
考えられるのは身元の確認ができないほど無残に散らかさられたのか、敵国の捕虜となったかのどちらかである。女の感情など置き去りにして華やかなパレードは続いていく。
「我々は共に歩みその道中で多くの友を失った。しかし、彼らの不屈の闘志は肉体が滅びても受け継がれていく。そうして旅立った友の想いは我らの血肉となり、祖国への勝利へ繋がった。すべての犠牲に今一度、私は礼を言いたい」
壇上へ上がった兵士たちが司令官の掛け声とともに敬礼をし、民衆は黙祷する。沈黙になることは無く、女と同じように待ち人が帰ってこない人々が弔うように哭く。
黙祷が終わると賑わいは悲しみを塗りつぶして、喝采となり国中にその拍手が鳴り響いた。
「そんなことはいい……あの人、あの人はどこへ行ったの」
失意の底で女は空を仰いで涙を流した。会えなくてもいいからせめて命だけは……空の上の住人に届くかわからないが女は祈り続ける。
司令官の口から聞きなれた懐かしき響きが聞こえたのはその時だった。
「彼の名は後世にも轟くことでしょう。この勝利は彼の雄姿なしにはあり得ません。ですから私は彼の姿を形に残そうと思った」
司令官の声とともに後ろの映写機が光り、白壁に映し出された映像がカウントダウンを始める。
「それでは歴史の変わる瞬間をご覧いただきましょう」
―――そこに映っていたのは一匹の龍の姿。
その体躯を見れば恐怖を刻むことなど容易い。異形に恐れた兵士たちは隊列などお構いなしに転々バラバラと逃げ惑う。
龍は暴れ、兵士たちを虫けらのように次々と食い荒らし、踏み潰し、焼き殺す。大勢の兵士達をあっという間に焼土へ変えていった。蹂躙された兵士たちの屍でいつのまにか大地は紅く染まり、その上には絶対的な強者が君臨していた。
戦禍がようやく収まると龍は動きを止め、己の肉体をヘドロのように溶かす。ヘドロの中から現れたのは、女が待っていた男の姿であった。
「この力が我が国の新しい兵器となる。そしてその先駆者となった彼に、いや英雄に盛大なる拍手を! 」
司令官がそう告げ、男が壇上から姿を現した。
しかし、見たこともない異形を前にして国民は誰も男を讃えることなどしなかった。
その場の雰囲気を満たすのは深い沈黙と際限なく広がる恐怖心。鳴り響いていた歓声が男の登場とともに悲鳴へと変わるのは、もはや時間の問題であった。
4
祖国リネージュの都市部から外れた山に二人は住んでいた。
あの騒動の後、司令官がどんなに男の栄誉を讃えても民衆は男を受け入れようとはしなかった。
異形はどんな事を成し遂げても、所詮異形なのだ。男はそのことを最初からわかり切っていたため、傷つくことはなかった。
しかし男は責められる妻を見ていられなかったため、女とは縁を切った。そのはずだったのだが、
「見て、星がこんなにきれい。山に来ると毎日が素敵な夜ね、あなた」
女は当然のごとく住んでいた家と、街を捨て、男とともに暮らしていた。
「あなたなんて言わないでくれ。俺はもうお前の夫ではない。だから早くここを去ってくれ」
小屋の窓から差し込む月明りが男の憂いた顔を映し出す。
「『去れ』だなんて言わないで」
「何度でも言う。お前の帰る場所はここではない」
激昂するとともに男の体から鱗が生えてくる。それを見ると男は慌てて呼吸を整える。呼吸が落ち着くとともに男の小麦の肌の奥に鱗が沈む。
「どんなに場所が変わろうと、あなたがいればそこがわたしの帰る場所よ」
女は男に微笑みそう言い放つと、夕飯の買いだしへ出かけてきますといいまた扉を開け外へ駆けだしていった。
激昂とともに龍となる。そんなことを知った日を今でも男は夢に見る。
5
「ようやく、成功したか」
鎧に片腕を切り落とされたはずの男が目覚めたのは緑輝色の液体に満ちたガラスの入れ物の中だった。息が出来なく、もがく男は頭上の装置によってその入れ物から引きずり出された。
「ほう、君が」
司令官は値踏みするように男の体を見渡し、期待しているよ、とだけ告げて男の前を去った。
男は何故だか司令官の笑みが下卑たものに見えた。それは直観なのか、それとも単なる思い違いか。答えが開かされるのは翌日のことであった。
原隊復帰を命じられたその日、男は司令官によって呼び出された。
「君を呼んだ理由は分かるかね? 」
「いえ。私は今なぜ生きているのかすら正直分かりません。お言葉ですが司令官の考えを察することなど今の私には出来ません」
「まぁ無理もないよ」
司令官のの笑い声と共に白煙が吐き出される。
「君には我が国リネージュの新たな力の象徴となってもらいたい」
突拍子もないことを言い放った司令官に思わず男は首をかしげてしまった。そんな仕草を見て司令官はまた笑い、話を続けた。
「理解は及ばないだろうな。何せ神秘といっても過言ではないからな。ところで君は何のために戦う? 」
「我が祖国と愛する妻のためです」
「立派な志だな。じゃあこの戦争は何のためにあると思うかね? 」
「それは敵国が攻めてきたからであり、我らは国防のために戦いを始めたからであると記憶しています」
「そうだな。末端が聞いた情報はそんな程度だろうな。では君にだけ特別にこの戦争の意義を教えてあげよう」
そして司令官は語り始めた。
この戦争はすべてリネージュの自作自演であり、小国はその悲劇に巻き込まれ侵略をするふりをさせられていたこと。
男の片腕を切り落とした怪物、鎧は龍と人間を融合させる過程で生まれた副産物であり、多くの友を失ったあの惨劇はただの実験にすぎなかったこと。そして夥しい屍を生み出した人体実験の末に自分が生まれたこと。
「それでは敵国の兵士たちを私達はただ虐殺していただけだということですか? 」
「ああ、そうだよ。小国ごときに我らが手古摺るはずなどないじゃないか。さしずめ彼らが戦ってた理由としては君が言った通り国防のためだろう。末端は苦労が絶えないよな。ハハハ。いやぁ、気の毒だけどね。僕のシナリオに犠牲はつきものなのだよ」
「いったい、何のためにこんな惨劇をあなたは生み出したのですか」
「それは『我が国には絶対的な力がある』と周りに分からせるためさ。凱旋パレードが楽しみだよ。新聞を通じて周りの諸国が君を見たとき震えあがるだろうね。ああ血沸く、血沸く……」
恍惚とした顔に身震いを覚え、すぐにそれは激昂へと変わる。
昨日の晩に抱いた違和感が間違いじゃないと気づいた時、男は変貌を始めていた。
瞳は深紅に染まり、噛みしめる歯は牙に変わる。皮膚を破り翼が生え、体躯は男の何十倍にも膨れ上がる。そして異形は初めて形を為した。男の肌は硬度を増していき、鱗に覆われる。
嘶いた時、男は龍となっていた。
そしてあの映写機で記録された惨劇が始まり、男はその後『国のために』などと口にすることは二度となかった。
6
「ただいま、あなた」
「だから俺は『あなた』じゃない。何度も言うが俺はお前との縁を切った。もうこれ以上俺の傍にいなくてもいいんだ」
変わらず微笑む女の姿に男はまた激昂した。そして今度は体に起きた変貌を止めることはない。男の姿は見る見るうちに変わり、小屋が大破し、山の中に龍が現れる。
空気を限界まで吸い込み、腹に貯留したそれを一気に吐き出す。男は天に向かって吠えた。山肌は震え上がり、夜空には獄炎があがる。
「これでもお前は怖くないのか」
両の羽を広げ、そう問うた男に女は身体でそして言葉で答えた。
誰もが逃げ出すその光景を前にしても女はその場を動かず、怯むことすらなかった。
羽を広げた際に起きた風圧の中で細い華奢の女が両足で立つのはやっとだったが、女はやはり男の前に立ち続けた。
女の両足を支え続けたのはもちろん筋力ではなく、風に負けないほどの重りがついた枷でもない。退けない、譲れない。そういった想いが女を立たせ続けたのだ。
「何度、拒絶されたって私はあなたの隣にいるわ」
喉が割れんばかりに女は叫ぶ。
「こんな形になってもか」
「ええ。いつだってわたしはあなたの隣にいたいのよ」
時が経っても、形が変わり果てても、周りが何と騒ごうとも変わらない女の信念に二人を隔てていた壁が崩壊する。暴れていた鼓動が女の愛によって均されていき、気づけば男は人に戻り、子供のように泣いていた。
抱きしめられ伝わってくる温もりに懐かしさを感じた時、男はまた女の夫として生きることを選択していた。
「お前って普段はおとなしいけど意外と強情なんだな」
「ええ、そうよ。特にあなたに関してはね」
こうして二人は空を駆け、遠く果てにある理想郷を求め旅に出た。
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