第37話:ぺるそなちゃん。
1
「ねぇ! なんで営業ひとつできないの! 」
会社裏の小さな駐車場。ため息とともに吐き出された煙が漂う。
『敏腕編集者になる』
そんな夢はどこかに消え、もはや編集部にもいないわたしは新人と同じ扱いを受けていた。
コピー代をコストダウンさせるために印刷屋に頭を下げ続けたり、コラムニストの使い走りさせられる毎日。
「すみません」
先輩の説教の語尾が強まるたびにわたしは怯えながら頭を下げ続ける。
「仕事と遊びの区別ひとつできないなんて…… ったく、まだ大学生気分が抜けてないのよ。あなた」
暴言を吐き捨てたと同時に背を向けて歩き出した先輩の後をわたしはしぶしぶ続くしかない。ここで居直ってもアピールできるのはわたしの気持ちじゃない。わたしが切り替えのできない子供だということを晒すだけだ。
鼠色の空からは雨が降り始めていて、土砂降りでもなく、晴れてもいないはっきりとしない天気は今のわたしのようだった。
「あーもう、こんな嫌なことなんて思いだしたくなかったのに」
昼下がりの出来事が頭によぎって、わたしはそれを流すために缶ビールを一気に煽った。
仕事の時の私。
家でだらけているわたし。
彼氏の前のワタシ。
そんな切り替えなんて歳をとれば自然と出来上がっていると思っていた。
―――スイッチが欲しい。そう思った時だった。
「こんばんわぁ~」
残業明けの夜道。
知り合いでもない少年が後ろからしかも飛び跳ねながらこちらに向かって手を振っている。
外灯に照らされた頭髪は真白で、頬には紫色のハートと赤色の涙のシールタトゥーが貼られていた。
「ちょっとちょっと。おねぇさん」
ハロウィンにはまだ早いだろうけど、少年の笑顔に癒されたわたしはバッグからチョコレートを取り出そうとする。すると少年は大丈夫、と言い受け取ろうとはしなかった。
「え、仮装じゃないの? それ」
「違うよ。僕は公私混同が悩みのおねぇさんを救いに来た魔法使いさ」
これが少年を象った魔術師との出会いだった。
2
窓から朝焼けが差し込む。差し込む光でほんのり温かいソファに座り、アメリカンコーヒーに口をつける。酸味とカフェインが体にスゥっといきわたって、下がっていた瞼が少し上がる。
目線を横に流すと脱ぎ捨てたパンツスーツとワイシャツの山。クリーニングに行くのすら怠い、と感じながらもエコバッグにそれを詰め込んでいるとその中で埋もれているナニカに指先が当たった。
手に取るとそれはおかめの面だった。
昨日の夜そういえばこんなの貰ったっけな……?
どうやら頭はまだ起きてないみたいだ。
わたしは眉間をつまみながらやっと昨日の記憶を思い出した。確か、少年が言うにはこれは自分の気分を自由に切り替えられるものらしい。だとすればこの仮面は仕事の時、プライベート時など切り替えが必要なわたしの生活にはぴったりかもしれない。
ずっと欲しかったものが目の前にある。そう思うと効き目はどうあれ、試したい気分はあった。まずはお試しくださいというやつだ。
姿見の前に立ってわたしはそれを顔に当てる。すると仮面は泡のように静かに弾けて、化粧水が馴染んでいくような感覚があった後仮面は消えた。
起こった変化はそれだけで、別に顔が変わったわけでもないし、最近丸くなってきたフェイスラインも昔からコンプレックスのぺちゃっとした鼻も治ってはいない。
いつもの冴えないわたし。
まぁそれもそうか、別に美人になる仮面とは言ってなかったわけだし。
だとしても実感というのがまるでない。まんまと子供のいたずらに騙されたと落胆し、私は部屋を後にする。
週明けの月曜日。
オフィスに入って自分の席につくと、いつもより周りの会話が明瞭に聞こえる。目に見える情報が瞬時に頭の中で整理され何をすればいいのかがあっという間に判断がつく。外身は変わっていないのに、中にはわたしじゃない誰かがいる気がした。
それから一週間後。
「あの子、どんな時でもその場の雰囲気に合わせられて、気遣いもできるし、愛嬌もあるし……いいよね」
先輩の口から取引先の社長がそう言っていたと告げられた。先輩は私の変わりように納得できないのか、言葉の歯切れが悪い。
「最近変わったよね。綺麗になった」
ワタシは彼氏からそう言われた。
「おどおどしてたのに、なんか最近器用になったよねー」
わたしは女友達からそう言われた。
考えるより先に自動で口が、体が動く。
そんな感覚が何日もあって、1か月過ぎるころには仕事も、プライベートも、私達を取り巻くすべてが上手くいっていた。新しい人と出会う度に、その人に合わせたわたしや私やワタシが量産されていく。
「この企画あなたなら一人でできると思うの。とりあえずでいいから方針決めてきてごらんなさい」
凛とした態度は保ったままだけど先輩の声音は穏やかだった。一か月前に怒鳴り散らされていたことが嘘のようだ。そして目の前の仕事は私が入社して始めてもらえた編集者としての仕事だった。
「はい、がんばります」
満たされている。思わずにやけそうになる顔を私は頭を下げることで隠した。
3
「うん、確かに最近のニーズにはあっているし、レイアウトのセンスも悪くないと思うわ。でもね、あなたの色が見えてこないの。まぁ今週はこれで大丈夫。編集者としての初仕事を加味したらだけど。でも今言ったことは覚えておいてね」
―――あなたの色が見えてこない。
言われた瞬間、なぜか私の心がざわついた。靄のような不安感が体を包む。
それから3か月が経った。
「この仮面はね、魔法の仮面なんだ。でもねその仮面に頼りすぎちゃいけないよ」
いつか少年に言われた言葉が過る。
仕事は上手くいっている。怒鳴られることもなくなったし、思考ははっきりしているし、どんな時もその場に合わせて自分を変えられる。
―――どんな時でも自分を変えられる。
「あ―――」
わたし、私、ワタシ。
気づいた。わたしは自分を量産することで、元のわたしを埋もれさせていっていることに。
この時間ならもしかしたら―――ふとよぎる予感に賭けてみたくなった。残業明けで疲弊している体に電撃が走る。
「あら、こんばんわぁ」
外灯の下で少年はあの日と変わらず立っていた。まずは少年がいたことに対しほっとして、胸を撫で下ろした。
「あの、貰った仮面を返そうと思うんです」
「え? なんで」
不思議そうに首を何度も傾げる少年にわたしはもう要らないから、と言い放った。
「だって僕ずっとあなたのこと見てたけど、前と違ってあなたは誰からも好かれるようになったよ。夢だって叶ったばかりでしょ? すれ違い気味だった彼氏とだって、最近はほかの男とだって上手くバランス取れてるしさ……ねぇ、それじゃダメなの? 」
「だめってわけじゃないんです。ただ……」
「仮面を外すのはいいけどさぁ、今上手くいっているすべてが消えるよ? 元の鈍臭くて頑固な自分に戻るってもいいわけ? 」
駆けだした心が思わずその場で立ち止まる。
誰からも好かれることは確かにうれしいことだし、満たされる。だけどさ……だけどね……
「うん。あなたが言う通り元の自分に戻れば今まで通りにはいかないと思う。でもね、気づいたんだよ。わたしは変わっていたんじゃなくて、ただズルをしてたんだって」
私という形をした人形の山から埋もれて見えなくなっていたわたし、つまり自己が顔を出した瞬間だった。
戻ればわたしはたくさんのものを失う。
でも苦労することなく、手に入れたこの魅力はやっぱり借り物であって、それは返すべきだ。だってそれは決して自分の力などではないからだ。
「ちぇっ、もう少し依存していたらいずれ『自我を失わせてやろう』と思ってたのに。お姉さん意外と賢いんだね」
一瞬で少年から無邪気さが搔き消えた。冷淡なピエロの顔がわたしを覗く。
「え―――」
「いいや、何でもないよ」
一瞬で張り詰めた空気は弛緩するのも一瞬で、わたしは身震いする恐怖を愛想笑いで繕った。これがわたしがわたしを偽った最後だった。
4
「ついこの前まではマシだったのに……相変わらずあなたってどんくさいわよね」
会社裏の小さな駐車場にため息とともに吐き出された煙が漂う。
先輩の顔は暗く、苛立ちに染まっている。わたしはまたゆっくりとスタートを切った。
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