第36話:72.00に周波数を合わせれば

 夏休み中の小学生といえば、ラジオ体操をしたり、友達と虫取りをしたり、海に行ったり、日が暮れるまで鬼ごっこやかくれんぼをしたりするのだろう。だが少年にはそれらすべてができなかった。

 少年はベランダ前に近ずいて窓から外を覗く。すると今日も近くの公民館で子供たちがラジオ体操をしているのが目に映った。

 羨ましい、と。

 少年の心がざらついた。


 外に出たくても出られない少年の部屋ではラジオ体操の放送だけがいたずらに響く。

 蜃気楼が見えるほどの熱気が漂う外とは違って、クーラーの効いた少年の部屋は涼しい。それが少年の孤独を煽る。

 少年は外を見るのが嫌になって、ラジオの前でしゃがんだ。そして意に染まない気持ちを鼻歌に乗せながら周波数を変えるダイヤルをぐるぐると弄り回し始めた。


「なつーは、なーんでそんなに、暑いのー」

 ノイズ音をバックコーラスに少年の間延びした歌声が響く。聞いたところで返答なんて帰ってくるはずなどなかった。


「そんなのしらねぇよ……つは暑……から暑いんだよ」

 ノイズに交じりながら問いかけに答えるものの声がラジオから流れた。

 驚きで少年はダイヤルを回す手を止めた。すると今度はノイズ音が消え、はっきりとその声が少年の耳に届いた。


「ラジオがしゃべった……? 」


「ああ? 俺はラジオじゃねぇよ」

 会話が成立していることに少年はまた驚いた。負担をかけてはいけない心臓が強く鼓動する。


「じゃあキミはだれなの? 」


「ああ、俺か。俺はそうだな……お前さんたちの言葉で言うと『夏』と言われてるそのものだ」


 少年の部屋に置いてあるラジオが受信したのは、今週のヒットチャートでも、昼のワイドショーでも、ラジオ体操の放送でもなく、夏という概念自体の声だった。



 子どもの順応性というのは目を見張るものがある。この少年も例外なく、奇怪としか思えないこの状況にすぐ馴染んだ。


「今日の外はどんな感じ? 」


「そうだな……」

 初対面の時にあった県のある印象は少し和らぎ、風が薙ぐような声音がラジオから流れる。


「夏休みってだけあって、海の方は観光客だらけだな。沖の方には釣り人も何人かいるな」

 ラジオから流れる声の主はこうして少年に外の様子を話すのが日課となっていた。


「へぇ、賑やかそうだね。山の方は? 」


「山はそうだな……やっぱりこっちも観光客だらけだな」


「ナツは実況が下手だね。これじゃちっとも想像が膨らまないよ」

 少年はそう言って笑う。『ナツ』とまんまの名前を付けられた天の声は悪態をつかれ不満げに言葉を返す。


「うるせぇな……別に、お前に外の様子を実況するためにいるわけじゃねぇんだ」

 ナツに顔が当たらきっと怒ってるんだろうな。そんな当てもない空想をしながら少年はまた笑った。



 昼寝から目覚めた少年の耳が捉えたのは両親の声音だった。二人は声を潜めて何かしゃべっていた。 


―――最近のあの子なんかおかしくないかしら? 

 

 断片的な会話の中で母親のその言葉だけがはっきりと聞こえた。嫌なことには嫌なことが重なるものだ。明日は夏休みの登校日であった。


 体のせいで外出は制限され、学校に行くのは月に何度か。そのため、少年は登校するたびにクラスメイトから常に色眼鏡を通してみられていた。


―――可哀想。


 そんな先入観がクラス内に蔓延し、今は学校全体に渦巻いている。


「ねぇ、その病気って治らないの? 」

 もう、うんざりだ。少年はそう心の中で呟いた。

 同情という皮を被った無遠慮な好奇心が少年の座る机の周りをとり囲む。

 少年はそんな関係は築きたくなかった。純粋に気が合うからという理由だけで誰かと繋がっていたかった。だから、たとえそれがしゃべるラジオでも少年にとってはかけがえのない友達だった。


 教室内では今、クラスメイト達が1人ずつ夏休みの思い出について発表している。

 海に行ったことや、避暑地で遊んだこと。カブトムシを採りに行ったこと、花火を見たこと。

 クラスメイト達の夏は様々な色に満ちていて、それらすべてが少年には瑞々しく映った。

 心がまたざらついた。

 だから少年はそのクラスメイト達を驚かせようとしてナツとの思い出を語って見せた。


「うん、よくできた話だけどね。嘘は良くないよ」

 語り終えて満足げな少年の頭上から落ちてきたのは嘲りであった。担任が空々しい笑顔を貼り付けて少年の肩に手を掛ける。


「本当なんだ! 」

 少年は悔しさで顔を歪ませる。

 何度か鼻をすすると担任は困った顔をして此方を覗きこんだ。すると、教室の隅で泣いた、泣いた、と茶化すクラスメイトがいて、彼が声をあげたと同時に教室がわっと湧いた。

 疎外感が少年の胸を締めあげる。視界は涙で霞んでいて、少年と同じに心臓も哭いていた。もうすぐ夏が終わろうとしていた。



「情けねぇな。べそかいてどうしたっつうんだ」


「ナツは、確かにここに、いる……そう、だよね? 」


「あん? そうだが。だから何だっていうんだよ」

 訝しみながらそう問いかけてみても少年はだよね、と呟いたきり黙ってしまう。身体があったらきっと彼は今、頭を搔いているだろう。


「なんかしゃべりやがれ……」

 立往生という奴だ。

 ラジオの奥で溜め息が漏れる。それは縋るようであった。初めて聞いた声音に少年の口がやっと開いた。


「今日、ナツのことをクラスのみんなにしゃべったんだ」


「は? なんでだよ。信じる奴なんて誰もいなかっただろ」

 うん、と少年が頷く。そして少年はさらに言葉を続けた。


「悔しかったんだ。周りの子達は海に行ったりとか、花火を見たりしているのに僕だけ家にこもりきり。何で僕ばかり……だから『僕は誰も経験したことがない夏を過ごしたんだ』ってみんなに自慢したかった」


「でも、それすら叶わなかったわけだ」

 ラジオから流れる声はいつしか宥めるような声音に変わっていた。残酷が穏やかに少年に近ずく。言葉がゆっくりと刺さっていく。


「僕はこんなにも不思議な時間をナツと過ごしているのにそれを誰もわかってくれない」

 上ずった少年の声が、部屋に響く。

 そして訪れた沈黙が外で楽しそうに遊ぶ子供たちの声を無音の部屋に運んだ。


「なぁ、分かってもらうことってそんなに大事なのか? 」

 虚を突く声が少年を襲う。

 しかしそこには憎悪や嫌悪ではなく、少年を立ち上がらせようとする熱意が込められていた。


「え―――」


「お前のクラスメイトが俺の存在を理解したとして、お前は何がしたいんだ? 」

 分かってもらえた後のこと。

 そんなこと少年は考えてなどいなかった。言葉に詰まって、会話のターンはそのまま彼に回る。


「そもそも『僕が、僕が』って他人と比べてお前は自分を卑下するけどな、そんなことしたって何にもなんねぇんだよ。そもそもお前は周りなんか気にしてっから頭ん中複雑に絡まんだよ。てめぇはてめぇのことだけ考えてりゃいい。そっちの方が単純でいいだろ? 」


 矢継ぎ早に言葉が吐き捨てられた。

 声音には苛立ちが含まれていた。

 言葉の数々が少年の胸に沈んだ時、それは熱となって身体へ伝播していく。

 少年の身体に震えが走った。


「ナツ……」


「俺はな、お前の相手をするだけで手一杯だ。だからこれ以上ガキが増えるのは御免なんだよ」



 二人は幾つもの夏を越えていく。

 交わされた友情は誰から認識されずとも続いていく。

 それは少年が青年になっても、老いて朽ちる時まで続くだろう。


「婆さん、ラジオを付けてくれるかい? 」


―――また、夏が来る。





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