第25話:微熱37.0

 彼女が風邪を引いたらしい。季節の変わり目だからか、最近は寒暖の差が激しいからだろうか。

 彼がそれに気づいたのは明け方のことでその日、目覚まし代わりとなった携帯の着信に気づき、通話を開始すると声の主は彼女の勤務する会社の同僚からであった。


「昨日のチカなんか元気なかったし、顔色も悪そうだったから心配なんだ。ヨウスケ君見に行ってくれる? 」


「分かった。すぐ行く」

 彼は二つ返事で家を出て、彼女の住んでいるアパートに向かった。ペダルを踏みながら彼はささやかな幸福感の中にいた。それは普段は気丈に振る舞っている彼女の弱った顔が見たかったからだ。

 どんなものなのだろうか、と彼は想像する。自然とペダルを踏む足裏に力が入った。


「チカちゃん。大丈夫? 」


 ドアの奥でうめくような返事が聞こえた。瞬間、幸福感はすぐに薄れて急いで彼は合鍵を挿し込み彼女のベッド脇に駆け込む。


「来てくれたんだ……」

 赤らむ頬に汗でしっとりと濡れた髪。半開きとなった口からは浅い息漏れる。普段見えない表情に彼は驚き、その姿はかけがえなく、そして愛おしく彼の目に映った。


「今、スーパーで食材買ってきたからおじやでも作るよ。待っててね」

 彼女は詰まった鼻でだしの香りやネギの匂いを微かに感じた。間もなく台所から音が消え、彼は盆にのせた器の中身を溢さないようにゆっくりと彼女のもとへ向かってくる。


「起きれる? 」


「うん。それぐらいできるよ」

 重たそうに体を引きずりながら彼女が起き上がる。

 ベッド脇に小さなテーブルを寄せてその上に盆をのせる。彼は湯気が立つおじやから蓮華で中身を少し掬い取って彼女の口へと運ぶ。親鳥が餌をあげる時みたいだ。雛鳥のように彼女は大きく口を開けた。彼は一口ずつ掬い取り、しっかり冷ましながらおじやを彼女の舌に乗せる。


「味濃くなかった? 」


「大丈夫」


「そっか」

 すらりとした身体が今日は余計に華奢にみえる。彼はふと昨日の夜にテレビで見た光景を思い出す。


 それは不治の病と闘う家族を追ったドキュメンタリーだった。

 娘のことが心配だ、という家族の腕や首元を見るとそこには高そうな銀の時計や、大玉の宝石が埋め込まれたネックレスが光っている。その時彼は本当にこの子の親は娘を助けてやりたい、という思いでいるのか、本当はギャランティ欲しさに娘を広告塔にして甲斐甲斐しく世話を焼く親を演じてるのではないか。

彼は変に勘繰り始めてしまい、自己犠牲や善意っていったい何だろうかなどと答えの出ない問いを夜が更けるまで考え込んでしまった。

 

 それを思い出してしまった彼はだんだんと自分の行為や彼女の家に訪れる前に考えていたことが急に後ろめたくなってきてしまった。

『自分が彼女を看病するのは自己満足のためではない』と分かってはいるが、こびりついた妄想は離れなくなってしまった。純粋でいたいと思えば思うほど不純な考えが沸き上がり、彼は袋小路へと追いやられる。


「ねぇチカちゃん」


「なに? 」


「誰かのためにする行為ってどこからが純粋な善意で、どこからが自己満足なんだろう」


「なに言いだすの」

 吹き出した瞬間、せき込む彼女。心配そうに見つめる彼に向けてそんなの解るわけないじゃん、といって彼女は笑った。


「でも、はっきりとさせたいんだ。少なくとも俺はチカちゃんに『元気になってもらいたい』って思ってるよ」


「だったら、それでいいじゃんか。どれだけ、ヨウスケ君はまじめなの? 」

 そう言って彼女はまた噴きだすように笑う。あまりにも笑われるものだから彼の口はへの字に曲がった。


「ねぇ、この前俺を看病してくれた時、チカちゃんは何を想ってたの? 」



「うーん、何も考えてないかな」

 あっさりと答える彼女に彼は自分に興味がないのかと不安になって彼女の顔色をつい、窺ってしまう。ちなみに二人は付き合ってもう3年が経つ。


「強いて言うなら、ヨウスケ君と同じで『元気になってほしいなぁー』ってぐらいかな。あのねヨウスケ君、いつも言っているけどさそんなにまじめに考えていると疲れちゃうよ」


「そうかな」


「そうだよ」

 実は彼女の風邪はもう治りかけている。今朝、熱を測ったら37.5度に下がっていてどうやらピークは昨日の昼間に過ぎていた。

 それを彼に伝えてみてもいいが、慌てる彼の姿は面白くて、たまには甘えてみたいかったから彼女はそのままにしておくことにした。


「結局、善意と自己満足をより分けることなんて出来ないし、受け手からすれば、そんなことはどうとでも取れるんだよ。だから今ヨウスケ君が思ってることがすべて正解で、不正解。つまり『良いも悪いも決めるのは当人次第』っていうこと」


「そんなものなんかな……」


「そうです。あーあ、あたしはなんで、こんなにめんどくさい彼氏に惚れてしまったんだろうね」

天井を見上げ、目線だけを彼に向ける。


「これからもよろしくお願いします」

てっきりごめんなさいと体を小さく窄めるかと思ったが、意外な返しに彼女はまた笑った。


「あのさ、ヨウスケ。君は君。胸を張って、ありったけの自分でいればいいんだよ」

 病人より弱った彼の横で快活そうに彼女はまた笑った。

 いきなり呼び捨てにしたことを彼は追求しようとしたが、彼女は取り合わなかった。





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