第26話:スコールのち虹

 屋根に滴が当たる音。段々とその音は滝の傍へ近づいたようにとめどないものになる。

 部屋の外がどんなにうるさくても彼の微睡みは続いていた。昨夜の疲労と倦怠感が彼を布団から引きはがすまいとその場に縫い付けて離さない。ゆっくりと瞼を開け、壁に立てかけられた時計を見るともう夕刻になっていた。


「もう、こんな時間かよ……」

 寝癖で跳ね上がっている髪を何度も撫で付けながら彼はしぶしぶYシャツ、スラックスを脱ぐ。

 彼は数分でシャワーを済ませると、ルームウェアに着替えた。

 テレビを点けると一昨日から続く台風情報が流れている。バラエティ番組をバックにL字枠は台風が週末いっぱいは続くことを知らせていた。


 遮光カーテンを開けてワンルームのアパートから外を見ると目の前が霞むほどだった。生い茂る木々は激しく揺れ、眼下ではアンテナのように裏返った傘に翻弄されながらも人々が街中を歩いている。街中に漂う陰鬱さを感じとってしまった彼は目頭を抑える。


 理由。

 別に仕事が失敗したわけでもない。彼女と別れたわけでも、愛犬が死んだわけでもない。前触れもなく霧は現れる。そして彼の心の中に棲みつき、頭のなかを目いっぱいそれで覆う。

 何事もないのに涙が一粒こぼれる。頭の中で思考の糸が混線し、彼の心はあっという間にぐちゃぐちゃになった。


 彼は気晴らしに、と先週買ってきた文庫本を手にとり気をそらせようとしたが、虚無に囚われた頭に内容が入っていくわけもなく、ただ文の上を目線が滑っているだけであった。彼は栞も挟まず、文庫本を部屋の奥へ投げやって再び布団に潜る。


 こんな時は眠ってしまえばいい、そう唱えて瞼を閉じるが、昨日の晩のアルコールがまだ続いているのか微かに響く頭痛のせいで微睡みはいつまでたっても訪れそうにない。


* * *


「ユウスケ君…だっけ?あー、君には期待しているんだから、今度のプロジェクト頼むよ」

 気を良くしたのか、貼り付けたような慇懃な笑みをした上司が彼の肩を叩く。すると彼はありがとうございますと頭を深々と下げ、上司の空となったグラスの口元に瓶を傾け、ビールを注ぎ入れる。

「本当の名前はシュンスケです」と言っても仕方がないだろうな、と思いながら彼の方もまたわざとらしい笑顔を貼り付けて上司に再び頭を下げた。


『何でこんな事やってるんだ……』


 人間関係、社会の上下、全部煩わしい。という感情は確かにあった。

 だがそんなものはとうの昔に置き去ってしまった彼はもう何も感じることはない。退屈な夜を彼はただ、今日もアルコールで少しずつごまかしていく。


* * *


 嫌なことを掘り起こしてしまい、彼は一層深く、布団の中に沈んでいく。全ての感情が煩わしく感じる。『心なんてなくなってしまえばいい』と彼は独り思った。


 羽毛布団の重みですら撥ね退けられなさそうで、気づけば彼は何もしたくなくなっていた。

 いまだに止まないスコールも、仄暗い部屋で聞えるテレビの音も、水底に沈んでいく彼の耳にはすべてがくぐもって聞こえる。こうして土曜の夜が過ぎていく。


 明け方、耳元でスマートフォンのバイブ音が鳴る。


 彼はその音によって水底から水面に引き戻される。手探りでスマートフォンを手にとり光に目を焼かれながらディスプレイを覗くとそれは彼女からの着信だった。


「なに」


「ねぇ、外見てみてよ」


「あがってる……」

 しぶしぶカーテンを開けると雨はやんでいた。窓を開けて履いていた靴下を脱ぎ、放置しているサンダルにつま先をひっかけてベランダに出る。


 室外機の上にある観葉植物には差し込む陽光で光る雨粒の一粒一粒。まるで宝玉のようだ。立ち込める雨上がりの匂いを嗅ぐとなんだか落ち着いてきて抱えていた薄靄が晴れていくような気がした。


———極彩色が淡く滲む橋が見える。


「虹でてる」


「綺麗でしょ。これを見せたかったんだ」

 電話口の向こうで彼女がしたり顔をしているのが分かる。きっと彼女はまるで虹を自分が一番目に見つけ出したかのように笑っているのだろう。


「これだけのためにわざわざ連絡してくれたの? 」


「そうだよ。だって一昨日の飲み会の時シュンスケ辛そうだったから」


「そんなことないよ」

 そう言いながら彼は笑った。

 自分のことを思ってくれる人がいる。それだけで錨のように彼を重く沈ませていた憂鬱は消え、心が軽くなった。


「ねぇ、せっかく早く起きたし、近くにおいしいパン屋ができたらしいんだ。一緒に行ってみない? 」


「うん。行こうか」


「じゃあ、10時にそっちへ行くよ」


「待ってる」


 突然振りだしたスコールのように悲しみは訪れ、そしていつかは去っていく。

 それに翻弄されるのは煩わしくて堪らないし、感情なんてなくなってしまえばいい、と思う時もある。だが喜びを感じた瞬間、感情というものは手放せなくなってしまうものだ。


———僕らはめんどくさくて愛おしい感情という波の中で揺蕩う木の葉なのかもしれない。

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