第15話:名もない恋人
1
ARデバイスが世間に浸透し、車が空を飛び、様々なことが便利となった時代。立ち並ぶ立体駐車場に1台の車が入っていった。宙に浮かんでいる車はエンジン音が止むとともにゆっくりと地面にタイヤを着かせた。
ドアを開けて男は後部座席に座る彼女のもとへ駆け寄る。男はノブに手をかけ、やさしくドアを開いた。
「今日のディナーおいしかったね」
「はい。あの豊かな味がすべて遺伝子改良された麦から作られていることが不思議でなりませんね」
感嘆の声を漏らしながら差し伸べられた手に彼女がそっと手をのせ、立ち上がる。そして彼女と男は駐車場から消え、帰路についた。
何事もない男女の日常。しかし彼らには普通の男女交際とは大きな違いが存在した。
彼女はあらかじめ書きこまれたプログラムによって行動していた。構築された多彩なパターンを組み合わせて音声や表情をはじめ、女性としての所作やキャラクターに合わせた仕草まで精巧に作り上げる。この驚いた顔も、握る手の体温も、愛らしい声音もすべてがまがい物に過ぎない。
彼女はアンドロイドだった。
2
ある雨の降った夜、男が働いている職場は慌ただしかった。時計を見るとすでに就業時間を超えていて、一刻も早く彼女の顔を見たかったが、叶うはずもなく、男は椅子に縛り付けられているかのように黙々とディスプレイと向かい合っていた。
雨脚は強まるばかりで、屋根に当たる雨粒の音が男の神経を逆なでていく。明け方となり、やっと作業が終わり、ひと段落したところで家で待っているであろう彼女の顔を見るために男は足早に会社のエントランスを飛び出た。
「ヨシタカさん、待ってください。傘をお持ちしました」
滝のように降りかかる雨の中、彼女はアパートに1本しか置いていない折り畳み傘を差してそこに立っていた。ずいぶんとそこに立っていたのだろう。彼女の露出した右肩の上には雫が群生していた。オーナーを迎えることが最優先事項であるため、防寒対策をすることなく彼女はキャミソール姿のまま男の前に立つ。地面ではねる滴によって真っ白なキャミソールの裾はぐっしょりとぬれ、そこだけ汚れて少しくすんで見える。
「ずっとそこに立っていたのか? 」
「はい」
平然と彼女は答える。この行動もあらかじめ組み込まれたプログラムに従った結果である。そんな彼女が男には無機質に見えた。それが引き金となり、さっきまで抱えていた苛つきが蘇り、男の劣等感が徐々に煽られていく。
「これ新作なんです。どうです? 」
豪雨の中彼女はワンピースの裾を両手でつまみながらくるりと回る。その行動は晴れの日であっても雨であっても、どんな天候でも不快感という認識はプログラムの中で阻害されたままで、だから同じように繰り返されるのであろう。
「何で、帰らなかったんだよ」
「心配だったので」
「それはそう頭の中で命令されたからじゃないのか? 」
「お答えできません」
彼女の返答は否定というより、電化製品のディスプレイにでてくるエラー表示に似ていた。作られたパターンによって感情を取り繕う彼女にとっては本当の意味の怒りや、悲しみ、喜び、驚きを表出することは不可能だ。
「もういい、そんなに待っていたいならそこに立ってろよ」
インスタントな夢に浸っていた男がどうしようもない現実を突きつけられ、男は衝動のままに革靴でコンクリートの上に水飛沫を起こし、勢いよく去っていった。
豪雨の中、彼女が小さく「はい」とだけ呟いたのが聞こえた。
彼女の声は男の鼓膜を通って頭に到達する。その瞬間自分の憤りの原点がただの八つ当たりでしかないことを思い知って男は余計に現実と向き合うのが怖くなった。
3
「あの頃は本気で彼女を幸せにしたかったんだ。でも俺は弱虫だから、世間の偏見と闘ってまで彼女を守れるのか不安だった」
「どうしようもなく子供だね」
呆れた調子で女は答える。彼女は男がアンドロイドを置き去りにしたあの日に恋人を事故で亡くしていた。
最初は行きずりで、お互いの寂しさを埋めるためだけの関係性。何となく始まった二人の恋ではあったが、意外と馬があっているのかその関係はだらだらと続き、今日で5年目となった。
「うん。どうしょうもないね」
「それで、彼女はそのあとどうなったの? 」
「次の日見に行ったら、いなくなっていた」
「アンドロイドにまで見捨てられるなんて彼氏として情けないよ」
「すみません……」
ソファのひじ掛けに腰を下ろして所在なさげに背を丸める男を見て、そのすぐ隣に座りなおして彼女は「ダサいよね」と笑う。顔をあげた男は不服そうに小さく溜め息をついた。
「じゃあ、情けないついでにフォローちょうだいよ」
「そうだな……ヨシタカくんは本当にどうしようもなく意気地なしだけど、そうやって感情をさらけ出せるのは人間である証拠かもよ。うん、すごく人間っぽいよ。ヨシタカくん」
そう言って彼女はにっこりと笑った。
男は褒められたのか、けなされたのか頭の中で整理できなくなって、口をへの字に曲げたまま彼女の言葉を受け流す。
「さぁ、もうすぐお昼だし、パスタでも作ろうよ」
「うん」
キッチンへ駆けていく彼女の後姿に不意に沸き上がった疑問を投げかける。
「ねぇ、人ってなんで恋をすると思う? 」
「なんだろうね……いろいろと不安だからじゃない? 」
間もなく蛇口から水が流れ出て、シンクに水が撥ねる音ともに彼女の声は消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます