第16話:紙一重

「今まで若手書道家の担当が多かったが、君にはそろそろ新しい風を入れようと思っている」


 彼の前に一枚の名刺が滑り込んできた。

 数々の若手書道家とともに歩んできた彼にとって名刺というものは見慣れているものであったが、今、彼の前にある名刺はどの書道家よりも簡素で素っ気のないものであった。


『なるほど、今度はベテランか』


 それなりに積み上げてきたキャリアに基づく彼の勘は当たっていたようだ。目の前に出された名刺に記されている書道家は今年で65歳を迎える「武本流雲」という男だった。


「年齢の差もあるだろうから、上手くいかないことも多少ある。それにそいつはな。昔から俺が見てきたからわかるんだが、はっきりいって変人だ。だから心してかかってくれ」

 そんな笑いながら、簡単に言ってくれるなよ……


「はぁ……」


「まぁゆっくり彼と歩んでいってくれ、そしたら変人という印象もなくなるくらい彼を好きになれるよ。あいつは誰よりも真面目な男なんだ」


「私の将来を見据えてくれた提案に断る余地はありません。相手が誰であれこの経験を今後に生かせるよう頑張っていきたいと思います」


「グッジョブ。よろしく頼むな」

 彼に吹いた風は新しい風ではあったが、同時に自分の歩みを妨げそうな向い風でもあった。



 地図に沿って針葉樹が乱立する森をさまよい、途方に暮れそうになりながらもやっとの思いで居場所を突き止めた。玄関らしきところに立ち、今にも朽ちそうな壁に気を払いながら彼は何度か叩いた。


「ごめんください」


「ごめん、少し散歩して待っててくれるかい? 」

 中からは生気のこもっていなさそうな細い声が聞こえて、彼は待っている間に小屋のあたりを回った。


 あばら家。

 という表現がおそらく一番適格だろう。

 持ち主と同様に生気をなくした灰色の木板が覆いかぶさっただけの屋根は雨ごいすらできなさそうで、黒くすすけた木板が並ぶ壁はところどころに隙間があり、その隙間からは微かに墨汁の匂いが漂ってきた。


「いやー、待たせたね。流雲といいます。よろしく」

 ガタガタと戸を震わせながら戸が開き、そこからはぐったりとした様子の老人が姿を現した。微かに震える手は墨だらけで差し伸べられた手を無視するわけにもいかず、彼はしぶしぶ手を握った。


「さ、入ってくれ」


「お邪魔します」


 老いた書家、流雲との歩みはここから始まった。

 流雲が書き残す書は若手書道家の作品とは違い、どれもに彼の息吹が歴史が込められていた。流雲には積み重ねてきた歴史がある。それはすべて重みであり、味でもあった。それらがすべて乗った書には、目に映るどれもに彼の生き様がありありと伝わってくる。

 彼はでき上がった数々の書を見るたび魅了され、あっという間に流雲の虜となった。しかし、流雲には「書を提出するまでがいつも締め切りわずか」という欠点があり、毎度それは彼の頭を悩ませた。



「もう提出までに時間がないんです!徳田首相の誕生祝賀会は明日なんですよ!」


「待ってくれよ。まだ駄目なんだ」

 電話口から弱々しい囁きが聞こえる。こちらの怒号にひるんだようでいつもより流雲の声は聞き取りずらく、それが余計に彼を苛立たせた。


「もういいです。そちらに向かいますから、先生は今すぐ筆をとって活動を再開してください」

 受話器を叩きつけ、椅子の背にかけてあったトレンチコートを肩にかける。


「いつもながら、ご苦労だね」


「ええ、全くです」

 隣の席と短く会話を交わし、彼は足早に画廊を後にする。


 踏み荒らすように森を進み、あばら家の戸を開ける。

「先生、書は仕上がりましたか———」


 瞬間、息をのんだ。


 共に歩み始めて、書と向き合う瞬間の流雲を今日彼は初めて見た。鶴の恩返しよろしく、いつも流雲は彼を招き入れなかったのだ。

 あばら家にはその眼に水滴が見えてしまうほど墨汁の匂いが空間を満たし、床には大量の半紙の屑が丸め捨てられていた。その多さは度を越え屑が床を覆い尽くすだけでなく、まるで波をかき分けるように歩を進ませねばならないほどだった。


「島みたいだ……」


 そして半紙の屑が作り出した白い渦の真ん中で一人の老いた書家が必死に書と向き合っていた。

 頬を伝う汗を何度も何度も腕で拭って、己を溶かしているかのように墨を磨る流雲。

 そして筆をとると、彼は身に降りかかる老いも、囁きのように流れるそよ風も、木々の新緑も、彼の言葉すら置き去って筆を躍らせた。

 目の前の半紙と自分が握る筆に全てを注ぎ込んだ流雲はその瞬間だけ、時間さえも超越しているかのように思えた。


 全身が沸き立つような興奮が過ぎ去った後、静寂の中で流雲はゆっくりと書を見渡し、得心が言ったのか首を小さく縦に振り、「これが今の限界だろう」と呟いた。


「待たせたね……これなら総理も納得してくれるかな」

 童心に帰ったように流雲は無邪気にはにかんで見せた。


「大概にしてくださいよ……先生はなんで毎度締め切りギリギリなんですか? 」

 肩を落としながら彼は出来上がった書をケースにしまう。


「すまないね。でも納得のいくまで打ち込むのが務めだと僕は思っているから」


「先生は真面目ですけど、自分勝手ですよね」

 彼がそういうと流雲はいたずらが成功した子供のように笑った。


 紙一重なんだよ。

 不意に流雲がぼやく。


「え……? 」

 急に無表情に戻った流雲の横顔を彼は訝しみながら見つめる。


「自己満足と賞賛の間には確かに差がある。でもそれはね、紙一重なんだよ」


「先生はその紙一重を心得ているんですか? 」


「いや、それは僕にはまだ見つからない。もしかしたらもう見つからないかもしれないねぇ」


「そんなことはないですよ。僕が言うのもおかしい話ですが先生は立派な書道家です。だからこうして首相からも依頼が来ているんですから」


「よしてくれ、僕は才能ある書道家なんかじゃない。才能というのは自己満足と賞賛の間にある紙一重を最初から分かっている人達のことだと思うんだ。残念ながら、僕は芽を出すまでに膨大な時間を捨ててきたし、毎度書きあがるのが遅いから君にこうして肝を冷やさせ続けてしまう。それは僕が知らないからなんだ」

 申し訳なさそうに言葉を連ね、彼は背を丸める。


「では、先生がその紙一重を心得るまで共に歩んでもいいですか? 」

 彼の声で流雲の微睡んでいた瞼がはっと開き、振り返って流雲は彼に手を伸ばした。


「墓場までとは言わないが、少しの間でいい。僕を見守っていただけたら嬉しいです」


 固く結ばれた握手を細やかに祝うように吹き抜ける風が木の葉を揺らした。

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