第12話:黒繭さん
1
今年、小学校に上がる彼は友達にも恵まれ、保育園では人気ものだった。そしていじめられている子がいたらその子を助けてあげられるような勇ましい子でもあった。
しかし、そんな彼であっても怖いものが一つあった。それは……
1階から2階に上がるとき通る玄関ではなく、その奥にある深い闇だった。
「ねぇ黒繭さんって知ってる?」
小学校に上がった彼はクラスの中でそんな噂を聞いた。
「なにそれ? 」
「え、知らないの? 」
あたかも常識であるように責める女子に少しイラつきながら彼はその話の続きを促す。
「黒繭さんていうのはね、みんなが寝静まった頃に枕元にひっそりと出てきて、鼻がぶつかりそうな距離でずうーっと。こっちを見続ける妖怪なんだって」
「普通、幽霊とか妖怪とかって人間を攫ったりするんじゃないの? 」
「そうなんだけど、黒繭さんはそうゆうことしないらしいよ」
「ただ見てるだけなの? 」
「うん、ただ見てるだけ」
「そっか、じゃあ怖くなんかないじゃん」
そう言って彼は何事もなかったように笑った。
『こっちを攻撃してきたりはしないんでしょ。平気、平気』
そう彼は思うことにした。
授業が終わり、彼は友達と児童館でサッカーをして、夕方5時の夕焼け小焼けを聞くとさっさと帰り支度を始めた。
「もうちょっと遊んでこーぜ」
「ムリ。今日はごちそうだから早く帰んないと妹に全部食べられちゃうんだ」
「それは、早く帰んないとな」
友達はみんな兄弟持ちだったから幼い歳であれ、兄の苦しみをわかってくれるようで、すんなりと彼を返してくれる。そんな理解者たちと別れるのを彼は少し惜しく思って、足を止めた。
「なぁ、黒繭さんって知ってるか? 」
好奇心で彼は尋ねた。
「ああ、俺も妹から聞いたよ。なんか枕もとでうわ言を言うらしいね」
『え? 』
しゃべるの?
彼は首を傾けた。
「それ俺も知ってるよ。鼻が当たりそうな距離でずっとこっちを見てるやつだろ? 」
『そうそう』
彼は首を縦に振った。
「違うって。俺が聞いた話だとそいつが枕元に立つと息が速くなって心臓がきゅーっと縮まるらしいぞ」
それからどんどんと「黒繭さん」という妖怪の話は増えていったが、言う人それぞれ転々バラバラで、全く一貫性がなかった。中には「そいつが現れると3日以内に不幸が訪れる」なんて噂もあった。
「黒繭さん」という存在が彼の中でどんどんとエタイノシレナイモノに変わっていく。
2
『こんなことなら聞かなきゃよかった……』
後悔で胸がいっぱいになりながら家にたどり着いた。
それから家に帰った彼は大好きなハンバーグも口に入らず、さっさとシャワーを浴びて、布団に入ってしまった。
『寝てしまえば関係ないもんね』
そう言い聞かせて顔が潰れるほど強く目をつぶった。
目を閉ざした彼の前にあるのは果てない闇。そこには何もなく星の灯すらない暗さが広がっている。
ぺた……ぺた……ぺた……
部屋の床を誰かが歩いて近寄ってくる。鼓動は早まり心臓は握られたように痛んで彼はそれが黒繭の仕業だと思った。
ぺた。
耳元で急に足音は鳴りやんだ。
凍えてもいないのに顎は震え、今にも、もよおしてしまいそうな気分だ。
目を閉じても闇。開いても闇。
かといって電気を付けようものなら、立ち上がった瞬間に襲われるかもしれない。得体のしれないものだから何をされるかもわからないし、下手に動くこともできない。鼻先で黒繭が覗いているのかと思うと、もう目を開けることすらもできない。
時計の秒針が頭痛のように響く。
体を包む闇が無数の黒蟻のように思えてそれが周りを這っているように感じ、冷汗は布団に沁みて、その湿気は黒繭がまとわりついてるかのように思えた。
『いま目を開けたら黒繭がこっちを見ている』
そう思うと嗚咽が急に込み上げてきた。
でも、これが毎日続くことの方がよっぽど恐ろしい。不意に彼はそう思った。
『いじめっ子をやっつける時と同じだ』そう心の中で覚悟して何度も何度も自分に言い聞かせ、弾けるように彼は瞼を開いた。
そこには何もなかった。
3
大人になった彼はあの噂をふと思い出す。「あれはきっと、親が子供を寝かしつけるために言いきかせたものに過ぎなかったんだろう」そう思うとクラスメイト達の意見がバラバラであったのもうなづける。
「怖さを克服するために必要なのは理解である」
人はそのものを知り尽くす、あるいはそのものと折り合いを付けさえすれば恐れなどなくなるものだ。
逆にそのものを知らないからこそ勝手に頭の中で悪い方へ想像力が働き、余計に恐怖を助長させることとなる。
試験などでプレッシャーがかかった時、大事な試合の前、大事な会議の前、人は自分が作り出す恐怖に打ち勝つために努力をする。
だから人は学び続けるのかもしれない。
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