絶対零度の夜

@tabizo

絶対零度の夜

「よし、終わった」

書類を作り終えて時計に目をやった。午後10時15分。窓の外は人影もまばらで冷たい夜の闇が広がっていた。

彼の名前はアキヤマ ナツオ。平凡な中小企業で働くサラリーマンだ。

残業を終えた彼は帰り支度をして会社を出た。

外に出た瞬間、あまりの寒さに身震いした。今年は厳冬になると聞いていたが、特に今日は冷える。

会社から駅まではそれほど離れていない。彼は体を丸めながら小走りに走って商店街を抜けたところにある駅に向かった。

電車の中は温かく快適だった。このまま家の前まで走ってくれないかなぁ―などと馬鹿なことを考えている間に自宅の最寄の駅に着いた。

電車から出た彼を澄み切ったどこまでも冷たい空気が包み込む。

「うぅ寒っ!」

思わず声に出た。耳がちぎれんばかりに痛い。霜焼けになりそうだ。コートを着込んでいるのにさっぱり役に立たない。歯が上手くかみ合わず、がちがちと不快な音をたてる。

駅から自宅までは少し離れていた。この時間バスはもうなく、薄暗い国道沿いの道をひたすら歩いて帰ることになる。

顔や耳の感覚が刺すような冷気にさらされ、すでになくなってきている。彼はもともと暑がりで、いつもなら分厚いコートを着て歩いていたら汗をかくのだが今晩は違ってきた。

暑くなるどころか体温は一向に上がらず、冷える一方だった。

自然に体に力が入り、肩も不自然なくらい凝っていた。明日は筋肉痛なんだろうなぁとか考えながらもとりあえず一歩でも先に進みたく歩調を速めた。

しかし、なかなか家に着かない。景色からすると半分くらいまで来ている。

「まだ、半分かぁ、家までの道が今日はやけに遠く感じるな」

熱めのお風呂と炊きたてのご飯が、湯気をくゆらせて待っている―そのことばかり考えながら歩いた。赤信号で待っているのもつらいくらい早く帰りたかった。

いつの間にか雪もちらつき始め、寒さも一層増したように感じた。

雪国は到底住めないなぁなんてことを思いつつ歩いていたが、だんだん物を考える余裕もなくなってきた。

「やばい、本当に早く着かなければ凍え死にそうだ」

そうつぶやいた言葉さえ言葉にならないくらい震えていた。

(あと少し、もうちょっと歩いたら……温かい……)

もう考える気力もなく、ひたすら足を前に出すことだけに集中していた。

町全体が大きな冷凍庫に入ってしまったかのような寒さだった。これが絶対零度の世界なのかもと彼は薄れゆく意識の中で感じていた。


もう限界だと思った時に見慣れた近所の灯りが見えた。最後の気力を振り絞って歩きなんとか家にたどり着いた。

(……助かった)

彼は部屋の電気のボタンに手を伸ばした。カチッカチッと音はすれども電気はつかなかった。彼は首をかしげながらも寒いので手探りでエアコンのリモコンを探した。悴む手で何度もボタンを押すが、エアコンも作動しなかった。携帯電話のライトを頼りにいろいろなスイッチを試したが、どれも作動しなかった。全部の電気が止まってしまっているようだった。

「おいおい、どうなっているんだ、こんな日に限って。寒さのせい……なのか」

風呂を沸かそうと浴室に行きかけて足をとめた。そうだ最近オール電化に換えたんだった。当然のことながら、お風呂も電気がきていないと沸かせない。

「マジか? ツイてないな……」

家の中とはいえ、暖房も入れていないので、かなり冷える。

(寒い……とりあえず体を温めないと)

彼はお風呂も暖房も諦めて布団の中にもぐりこんだ。そして毛布を何重にもかけて少しでも温まろうとした。しかし、何故だかなかなか温まってこない。

しばらくして、眠気が襲ってきた。

よく雪山で眠ったら死んでしまうと聞いたことがある。このまま眠ってしまったらまずいのではないか。そう思い必死に眠気と戦う。

(ダメだ、ダメだ。眠ったら駄目だ。眠ったら……)

しかし、いつの間にか寝てしまったようで、画面が真っ暗になった。


再び画面が明るくなり、ナツオは起き上がった。

見慣れたいつものリビングだ。

「どうだった? <バーチャル体験プログラム 四季編~絶対零度の夜>は?」

自動調理器から朝食を取り出しながらナツオの妻が言った。

この時代、人類は増加した人口と環境保全対策の一環として主な先進国主導の下“宇宙移民計画”が実行されており、宇宙空間に巨大な居住地“スペースコロニー”を建造、宇宙航行用シャトルによる移民が始まっていた。

コロニーは居住区域を回転させて遠心力によって擬似重力を得るしくみで、内部には地球上の自然が再現され、人々が地球上と変わらない生活ができるようになっている。コロニー内の温度はすごしやすい温度が一定に保たれていて地球の日本のような四季はない。そのため四季の風情を楽しみたい人のためにバーチャルで地球の気候を体験できるシステムが標準装備されているのだ。

「冬がこんなに寒いものだとは思わなかった。昔の人は大変だったんだなぁ……」

ナツオは寒がる格好をしながら首を振って言った。

「すごく寒い思いをしたせいか、いつものスープがすごく美味しく思えるよ」

ナツオの妻は、複雑な笑顔をみせるのであった。

                                               END

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