旅立ちの郷

朝星青大

第1話



「ここでいい。お前達は帰りなさい」


『旅立ちの郷』の玄関で、父は車椅子を停め、振り返って告げた。


「えっ ? でも……」


姉と僕は顔を見合わせた。姉も困惑を隠せない。


母は車椅子で眠っていた。


「大丈夫だ。母さんが寂しくないように俺も一緒に行くから」


父は、穏やかに言った。


「そんな ! お父さん、いきなり何を言い出すの ! そんな話、聞いてないわよ !

お父さんと三人で、お母さんを見送る為に来たんでしょ !? 」


姉は血相を変えた。


「帰るつもりがないから、レンタカーで智に送ってもらったんだ。葬儀の手配は済ませてある。揉め事にならないように、仏壇に遺言書を置いといたから、後で読んでくれ」


「父さん ! 駄目だよ ! 送るのは母さんだけの筈だっただろ ! 」


「夫婦で逝くと市役所に届けを出して受理されたんだ。何度も引き留められたが、それを振り切った。もう変更は出来ない。いや、変更するつもりもない」


「駄目よ ! そんなこと、あたしが許さない ! 市役所への取り下げ申請には、あたしが行くから、お父さんは残って ! お願いよ。お父さんまで逝かないで ! 」


「そうだよ。僕も姉さんと同じだよ ! 当たり前だろ ? こんなのオカシイよ ! 」


「優子、智……ありがとう。だけど、そうしたいんだ。母さんだけを独りで行かせたくない。そんなこと出来るか ! お前達は母さんに育てられたんだ。母さんは、いつだってお前達のことを気にかけていた。俺が暢気でいられたのは母さんのお陰だ。晶子は父さんのパートナーだ。だから俺は、どこまでも母さんと一緒に行きたいんだ。母さんも、きっと、それを望んでる」


「だって……こんなこと……」


姉は絶句した。


「お前達は助け合って、残りの人生を大切に生きて行きなさい。いろいろあったが……良かった。お前達に会えたからな。そうだ、智に……」


父は腕時計を外して僕に手渡した。退職祝いに貰ったという父の自慢の金時計だった。


「優子には家にある母さんの持ち物を全部だ。さあ、行きなさい」


風が吹いた。


「待って ! お母さんに伝えなくちゃ」


姉は車椅子の前に回り込んで、母の手を握った。


「お母さん……これまで、ありがとう。お母さんの形見は、大切にするからね。もし、生まれ変わったら、またお母さんの娘にしてね。きっとよ」


母の眼は閉じられたままだが、姉の手を握り返したように見えた。僕も母へ呼びかけた。


「母さん。僕も母さんと一緒に暮らせて楽しかったよ。ありがとう」


母の眼から涙が流れていた。


母へ伝わったのだ。父の眼も潤んでいる。


「さあ、時間だ。帰りなさい」


父は、別れの悲しみを振り切るように告げた。


「それなら、ここで見送るから、お父さんが行ってちょうだい」


姉が泣いていた。僕も涙が止まらない。


「そうか。なら、そうするか。元気で暮らすんだぞ」


父は涙を湛えながらも最後に笑顔を見せてくれた。


そうして父と母は扉の向こうへ消えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る