第121話 すずの方が綺麗だよ
あれから少しだけ他愛のない話をしたあと、すずのお父さんは帰って行った。休日の土曜日と言えど忙しいらしい。
今の時間帯は夕方だ。この季節になればもうすぐ日は沈んで、薄暗くなり始めるころか。
「お父さんが変なこと言ってごめんね?」
お茶を入れたコップを洗い終わり、ダイニングテーブルへと腰かけると、眉を八の字にしたすずが待っていた。なんとなくじっとしていられなくて体を動かしていたかったので、今回は僕が洗い物をしたんだ。大したことはないけれど、いつもの雰囲気のままだとすずがやってしまっていただろう。
「ううん。……変なことじゃないよ」
だけどこの問題は先送りにはできない。ちゃんと考えないといけないことだからだ。婚姻届けを送り付けてきた父さんのせいにしてばっかりじゃダメなことくらい、僕にもわかっている。
「ちゃんと考えないといけないことだから……」
「えっ? それって……」
すずが瞳を潤ませて僕を見つめてくる。
僕は……、すずと結婚したい。
この先二人で人生を歩んでいきたい。だからと言って何も考えずに結婚と言うわけにはいかない。このまま結婚したとして、ちゃんと生活していけるかどうかを考えないといけないんだ。
一つの家に二人で住んで……、うん、今とあんまり変わらない? いやいや、そんなことないでしょ。お金も稼がないといけないしね。あとは、ちゃんと大学は卒業しておかないと。
現実的なことをちょっと考えていたけれど、そういえばもっと大事なこともあった。
「どうやったらすずを幸せにできるかなって……」
「……あうあう」
思わず漏れた言葉はすずにきちんと届いていたようだ。頬を赤らめて俯いてしまう。僕も何を口に出してしまったのかを自覚し、恥ずかしくなってすずから目を逸らす。
「ほら……、あの、ちゃんとした仕事もしないとね」
「……専属モデルはちゃんとした仕事じゃないの?」
言い訳がましい言葉に正論が返ってきてしまい、何も言えなくなる。モデルがちゃんとした仕事じゃないと言いたかったわけじゃないんだよ。ほら、よくある一般論が思わず口に出ちゃったというか……。ごめんなさい、モデルは立派な仕事です。文化祭でステージに上がる響さんを見ていたけれど、カッコいいと思ったし、やりがいはあると思う。さらにはピアノも弾かせてもらっているし、これ以上ない職場なんじゃないだろうか。
「……そんなことはないですね」
思わず出てしまった言葉に罪悪感を覚え、なぜか敬語になってしまった。
「あと、大学もまだ決まってないし……」
「むぅ」
さらに言い訳を続ける僕に、すずが頬を膨らませてしまう。うう……、自分でもちゃんと考えないといけないって思ったばっかりじゃないか。もっとしっかりしろよ、僕。
「だったら決まっちゃえば大丈夫だね!」
「えっ?」
「大丈夫だよね?」
「……う、うん」
なんとなく迫力に負けて頷いてしまった。
こんなところで情けない姿は見せられない。本当にしっかりしないと……。
この時の僕は、つまりどういうことなのか深く考えていなかったのだ。
「えへへ」
僕の答えに満足したのか、頬を膨らませていた表情が笑顔に変わる。なんだかとっても嬉しそうなすずに、僕も自然と笑みがこぼれる。
「あ、そろそろ夕飯の支度しないと……」
ふとリビングの時計を見たすずはそう呟くと、キッチンへと向かう。冷蔵庫の中身を確認しながら腕を組んで「むむむっ」と唸りだした。
僕が勉強に専念できるように、家事はほとんどすずがやってくれている。なんだか僕自身がダメな人間になってしまわないか心配になってくるほどだ。
「うーん、買い物に行かないとダメかな?」
「じゃあスーパーに行こうか」
「うん」
上着を羽織り、夕飯の買い物に出かけようと二人で玄関を出る。
「おおっ」
「うわぁ」
そこに飛び込んできたのは、真っ赤に染まった夕日だった。
ビルの間から見える赤い色が、グラデーションをつけて頭上まで続いている。その光景に自然と感嘆の声が漏れていた。
「綺麗だね……」
「……うん」
そっと隣にいるすずに視線をやると、夕日を受けた黒髪が赤く輝いていている。眩しさによって細められた瞳が、憂いを含んだように見えて幻想的だ。冷たい風が吹きつけてきたかと思うと、すずの髪が揺れる。とても綺麗だった。
……これはもしや、あのセリフを言わなければならないのだろうか。
「どうしたの?」
しばらく夕日を眺めていたけれど、廊下でいつまでもじっとしているわけにもいかない。見つめられていることに気がついたすずが、何かあったのかと僕を振り返った。言うべきか言うまいか悩んでいるうちに、すずの表情がいたずらっぽいものに変わっていく。
「あ、もしかして……」
僕の身長に合わせるように少し屈むと、いたずらっぽい表情のまま僕の顔を覗き込んでくる。
――あ、これはまずい。
なぜか先に言われると思った僕は、咄嗟に行動に移していた。
スッと近づくと、そのまますずの唇を奪う。
「んう……!」
驚きに見開かれた瞳に、塞がれた唇から艶っぽい声が漏れる。
「せ……、誠ちゃん……!」
すぐに離れた僕に対してすずが抗議の声を上げるけれど、あまり力は入っていない。
頬がさっきよりも赤くなっている気がしたけれど、夕日のせいだろうか? うん、僕もきっと顔が赤くなっているはずだ。でもきっと夕日のせいだよね。
「もちろん、すずの方が綺麗だよ」
「……ずるい」
さらに瞳を潤ませたすずの姿に、躊躇っていた言葉が自然と出てきた。すでに恥ずかしさで頭がいっぱいなのだ。追加で何かを言ったところで変わらない。うん、変わらないったら変わらない。
「じゃあ行こうか」
内心ではやってやったとガッツポーズをしつつも、表情には出さないように手を差し出すと。
「……うん」
はにかみながらも、そっと僕の手を取るすずだった。
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