第五章

第86話 練習

 翌日の今日は八月二十一日。とうとう夏休みも昨日で終わり、今は学校に来ている。

 高校三年生の僕たちだけ夏休みが短いなんて残念過ぎる。

 せっかく秋田さんと付き合うことになったのに、デートにも行けていない。まぁ、昨日からなのでどちらにしろ無理なんだけど。

 それに一応受験生だ。遊んでばっかりはいられない。……秋田さんと同じ大学へ行くんだ。

 でも……、秋田さんの顔を思い浮かべると、頬が緩んできてしまうのが止められない。どうしよう。


「黒塚……、妙に機嫌がいいな。……何かあったのか?」


 夏休み中も夏期講習で顔を合わせることのあった早霧が、僕の様子を見て早速探りを入れてくる。

 今の時間帯はまだ朝のホームルームが始まる前だ。すでにいつもの五人が教室に揃っていた。


「そうだね。夏休みが早く終わったって言うのに機嫌がいいね」


「うんうん。黒塚っちにしては珍しいよね」


「……黒塚くん、何かいいことあった?」


 次々に声を掛けられるけれど、みんな僕を何だと思ってるんだ。僕って休み明けはいつもそんなに不機嫌オーラ出してるのかな。

 いやそれとも僕の緩んだ顔が問題なのか……。

 だってあのあとカップケーキを大絶賛されて、今度一緒に作る約束までしてしまったのだ。

 そう、秋田さんと一緒にお菓子を作るのだ。


「いやだからニヤけてねぇで教えろよ」


 おっと……、霧島の言う『いいこと』を想像していたらまた顔に出ていたらしい。もうこれは隠し通すことはできなさそうだ。

 まぁ、隠すつもりもないんだけど、どうせまたからかいのネタにされるのは目に見えている。


「もしかして彼女でもできたの?」


「……なんでわかったの?」


 冴島の言葉に思わず聞き返してしまったけれど、これじゃ認めてるのと同じだと言った後で気づいたり。


「あ……、できたんだ」


 黒川がいつものようにニヤリと口角を上げる。

 霧島は口元に手を当てているが、そこまで驚いた様子は見えない。

 なんだか態度で「バレバレなんだよ」と言われた気がするぞ……。


「それで、相手はどっちだ?」


 同じくニヤリとした表情の早霧に聞かれるが、どっちって、二択なの?


「やっぱり秋田さんじゃない?」


「いやいや、大穴で野花さんかもしれないよね」


 勝手に目の前で予想が始まるけれど、ちょっと黒川、それは野花さんに失礼じゃないかい?

 確かに普段はボサボサ頭の丸眼鏡だけど、でも気合いを入れると結構可愛いよ? ってか気合い入れた野花さんのプリクラ見なかったっけ?

 というか野花さんは黒川が憧れる菜緒ちゃんなわけだけど、そんなこと言っていいのかなぁ。

 うん、でもやっぱり面白そうだからまだ黙ってよう。


「秋田さんだよ……」


 僕は観念して答えると、みんなは「やっぱり」と言った表情だ。

 だけど冴島だけが僕の答えに怪訝な表情になっている。


「黒塚くん、おめでとう」


 霧島だけは素直に祝福してくれた。うん、この中で僕をからかってこないのは霧島だけなんだよね。


「ありがとう」


「黒塚くん」


 そんな怪訝な表情をしていた冴島が、僕の名前を呼ぶなり面白そうなものを見つけた表情になっている。


「……なに?」


 僕は警戒して尋ね返すけれど、なんだかまたこのパターンかという気がしてしょうがない。


「秋田さんのことは何て呼んでるの?」


「――えっ?」


 秋田さんは秋田さんだけど……。


「黒塚っち……、それは私も気になるなぁ」


「もちろん黒塚くんは、『すず』って呼んであげてるよね?」


 ――ええっ!? な、名前で呼ぶの!? ……ちょっとそれは難易度が高いと言うか。


「……ちょっとそれは、……難しいというかなんというか」


「何言ってんのよ。苗字呼びとか他人行儀にもほどがあるでしょ」


 そう言うと、黒川がちらりと早霧の顔を覗き見る。


「……あぁ、いやでも、……一応年上なわけだし」


 なんとか回避しようとするけれど、ちょっとこれは自分でも避けて通れないような予感はしている。

 ……確かに他人行儀すぎるよね。付き合い始めたばっかりで全然気にしていなかったけど、改めて指摘されると全くもってその通りだ。

 というか早霧も焦ってるような気がするけれど、なんだろう。


「何言ってんの黒塚っち。今このタイミングで呼び方変えないと、ずるずるいったら余計に変えづらくなるだけだよ?」


 今度はじっと早霧を見つめる黒川。それに伴って顔を逸らしている早霧だけど……。

 いやいや、今はそんなことより僕だ。確かにこれはいい機会なのかもしれない。ここで躊躇ってしまうと、いつ呼び方を変えられるだろうか。

 それに……、今までずっと秋田さんには丁寧な言葉遣いだったし……。せっかく付き合うことになったんだから、他人行儀なのはやめたほうがいいよね。


「あはははは!」


 僕の決意した表情を見たのか、冴島が急に笑い出した。


「じゃあ練習してみようか」


「……ええっ!? ここでっ!?」


「え、なに? 黒塚くんはいきなり本番でも大丈夫なの?」


 いやいや、その理論はおかしいよね!? 別にここじゃなくても練習はできるでしょ! いくら家が隣だからって、帰ってすぐに会うわけでもないし。


「いきなり本番って! い、今じゃなくてもいいよね!?」


 そもそも今日は始まったばっかりでこれから授業とかもあるし。

 それに、『すず』って呼ぶだけだよね……。『すず』って……。

 えーっと……、なんだろう。心の中で呼んだだけなのにちょっと恥ずかしい……。

 さん付けは何か違う気がするし……。


「何言ってるのさ。たった二文字じゃない?」


 いやそりゃそうだけど……。

 あー、もう、名前を呼ぶだけじゃないか! この場に秋田さん本人がいないだけ言いやすいと思えば簡単だろう!


「……すずって言えばいいんだろ」


 とうとう口にした僕に、周りから「いえーい!」と歓声が上がるのだった。

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