第3話 もう一人の大学生

 さて、僕の住んでいる部屋は2LDKである。

 一人暮らしだというのになかなかに広い部屋だ。

 だがまぁ家賃はそれほどでもない。伊達にエレベータがついていないだけはある。


 玄関を入ると左側に風呂とトイレ、右側はちょっとした収納で、正面の扉を開けるとリビングになる。

 リビングの奥にはさらに二つの扉があるんだけど、左側を自分の寝室にしていた。もうひとつの部屋はどうしようか考え中だ。

 パソコン部屋にしようかとも思ったけれど、近くにベッドがないのも不便だと思ったのだ。


 そして部屋には僕の趣味であるキーボードが置いてある。もちろんパソコンのキーボードではなく、楽器のキーボードだ。

 幼稚園の頃から習っていたのだが中学の頃に辞めてしまった。

 だけど無性に弾きたくなるときがやっぱりあって、結局キーボードを買ったのだ。


 まあそれはいい。

 現状を振り返ったところで明日はやってくる。

 荷解きと片付けがほとんどだったけど、一人暮らしの春休みというものは満喫できたような気がする。

 ……が、明日から学校が始まる。

 長期休みの最終日と言うものはなんとも憂鬱になるものだが今日はどうやら違うようだ。


 くだらないことだろうけど、一人暮らしを始めたことを皆に言いたくてしょうがない。

 春休みに入る直前はまだ未確定だった。父さんから海外転勤の話が出ていると聞いただけだったので、友人にはまだ何も言っていなかった。

 転勤の話が決まったら決まったで、僕のことはどうするのかまた忙しかった。

 引っ越しの準備と実際の引っ越し作業で、友人に連絡を取ることも忘れていたのだ。

 気づけば春休みも半分を過ぎて今更連絡する気にもならず、こうなれば始業式の日にカミングアウトしてやれという気分になっていた。


 さて、春休み最後の夕飯である。

 引っ越しの荷解きにかまけて自炊をしていなかったが、せめて今日から始めようかと思う。

 テーブルに出しっぱなしの財布をポケットに突っ込むと、家を出てスーパーへと向かった。


 食材を買い込んでマンションの階段をえっちらおっちらと登っていると、空き部屋を挟んだ向こう側の野花さんが上からの階段を降りてきていた。

 その姿と言えば、初めて会った時とあまり変化がない。外に出るのに身だしなみは整えないのだろうか。

 それとも近所のスーパーやコンビニは『外出』に含まれないのか。


「こんばんわー」


 微妙にこの長い階段もこの一週間で慣れてきたなと思いつつも挨拶をする。


「あら、こんばんわ。……もしかしてお料理されるんですか?」


 僕の買い込んできた袋の中身に気付いたのか、野花さんが尋ねてきた。


「ええ、まぁ。……今までは親の手伝いだけでしたけども」


 苦笑しながらそう切り返すと、それでも野花さんは感心したように続ける。


「へぇ、えらいですねぇ。私も一人暮らし始めた当初はがんばってましたけど……。最近忙しいのと、近くのスーパーが優秀すぎてほとんど自炊しなくなりました」


 確かにあのスーパーのお総菜や弁当は優秀だ。コストパフォーマンスは最高で、味も文句がない。

 僕も思わず春休み中ずっと自炊せずに過ごすところだったのだ。


「はは、確かにあそこのスーパーのお弁当はおいしいですよね。僕も負けそうになりました」


 実際に迷ったのだ。食材と、夕方になって値下げされたお弁当のどちらを買うか……。


「……私も学校が休みの日くらいは自炊しようかしら」


 野花さんが僕の買い物袋を見つめながらポツリとつぶやく。


「学校ですか……」


 見た目で判断がつかず、なんとなく年上なのかなと思っていたのだが、どうやら野花さんは学生らしい。


「ええ、そうよ。これでも同じ階に住んでる秋田すずちゃんと同じ大学の一年生よ」


 野花さんが相変わらずの乱れた髪型と丸眼鏡で微笑んでくれる。

 髪を整えて眼鏡が変わればかわいく見えるのに……、と思わなくもない。

 それにしても野花さんは隣の秋田さんと同じ学校なのか。もしかしたら僕の高校の先輩だったのかなぁ。

 ……あ、隣の女子高という可能性もあるのか。いやでももしかしたら大学のために引っ越してきたのかもしれないし……。


「そういえば黒塚くんは……、高校生かしら?」


 自分の記憶にない二人についてあれこれ巡らしていると、ふと野花さんが尋ねてきた。


「はい、高校三年になります。明日が始業式なんですよね」


 中学生に間違えられなかったことにちょっとだけ頬が緩む。


「そうなんだ? ……それにしてもなんだか嬉しそうね」


「えっ?」


「じゃあ今年は受験生か。……がんばってね」


 それだけ言うと野花さんは手を振りながら階段を下りていく。

 なんだか勘違いされた気がしないでもないけど、中学生に間違えられなかったことが嬉しかったと訂正するほうが恥ずかしいので、僕はそのまま自宅へと帰るのだった。

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