第4話 朱殷(しゅあん)の邂逅

「きゃああああああああっ!!!?」


 テララは自分の腕にまとわりつく"ナニカ"を振り解こうと咄嗟にあがいた。

 だが、ナニカは少女の細腕にきつく喰い込み、その表情を一瞬で恐怖に染め上げる。腕があらぬ方にじれきしむ。「憤慨」「絶望」「嘆き」「悲しみ」「切望」「憎悪」黒く陰湿で邪悪な計り知れない何かが激しく入り乱れ、狂い立つ衝動となって少女を締め付ける。


「いやっ!? いっ!? 痛いっ!? 痛いっ!! 痛いっ!!!! いやっ!! 放、してっ!! やだっ!? い、やっ……!!!?」


 とてつもない情動の圧に声が詰まる。息ができない。苦しい。

 早く逃れようと手足をばたつかせてもがくも、かえって足場が崩れ態勢を崩し引きずり込まれる。

 誰か……助けて……っ!?

 拒否など許容されない一方的な脅威。視界がたちまちににじむ。体力を著しく消耗し意識がだんだんと薄れてゆく。全身を引き裂かれそうな激痛にもだえながら残された片手を必死の思いで石斧に伸ばす。

 ……届いたっ!?

 震える指先でそれを手繰り寄せ、残りわずかな力で握り締める。そして、それを肉山の中で蠢き今も尚腕に喰らい付いているナニカを目掛け渾身の力で振り下ろした。


「……Γιαααααααα!!!?」


 手応えがあった。石斧が命中するや腕の拘束が解ける。

 瞬間。その反動で弱り切ったテララの身体は勢い良く後方に転げ込む。

 に、逃げなくちゃ……! は、早く。逃げっ……!?

 直ぐさまその場から去ろう。そう何度も繰り返し身体を起こそうと力を込める。だが、四肢は震えるばかりでまるで言うことを聞かない。体重を支えることができない。


「いっ……、いや……! は、はや……。早、くっ……!? お願い……!! 動いてっ……!!!?」


 混乱の淵に捕らわれたまま逃れることのできない少女に構うことなく、ナニカは肉山の中でうごめき続けている。その蠢動しゅんどうはやがて大きくなり辺りの肉片を徐々にどかてゆく。そしてついに、日の下にそれは正体をあらわにした。


「…………っ!?」


 するとどうだ。そこには見慣れた形の"ようなモノ"が弱々しく横たわっているではないか。


「……何……? これ……!?」


 喉は裂け、風音を立てて息は漏れ、鎖骨は飛出している。右肩は脱臼しその前腕は砕かれ手は垂れ下り、左上腕はえぐられ白骨が露出している。腹部からは鋭利に割れた何かが臓腑ごと身体を貫き鮮血を噴き上げ。右大腿はいくつもの瓦礫が突き立ち削ぎ落され、左脚は膝下から原形を留めていないほどに損壊が激しかった。

 その姿はまるで"人の形"を留めてなどいない。目も当てられないなど、過少評価も甚だしいほどの酷すぎる有様だった。


「……ヒ、ヒト……?」


 そのモノの顔面は血糊で覆われて赤黒い髪が垂れはっきりと確認できない。だが、その奥では相対あいたいするもの全てを喰い千切るように煌々と揺らめく銀眼が真直ぐ少女を捉えていた。

 テララは震える口元を両手で押さえ無意識に生唾を呑み込む。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。い、いやだっ……!

 言い表せない経験したことのない恐怖に思考が掻き乱される。仰け反る身体を支えた腕が肉片に滑りまたしても態勢を崩す。その一瞬、わずかだが正気が戻り、一つの言葉が脳裏をよぎった。

 逃げなくちゃっ! 逃げないと、このままじゃ、こ、殺されるっ!?

 にじむ視界を懸命に振り払い、痛覚以外の感覚がまだ戻らない片腕をかばってよろめきながらなんとか上体を起こす。酷く身体が重い。これ以上どこも力が入らない。立っているだけで精いっぱいだ。

 動け……!? 動け動け動け動け動けっ!!!!

 ただただおののき続けるか細い脚を赤く腫れるほど、血が滲むほど何度もち、なんとか一歩。逃走経路へ向けることができた。だが、どうしてもそのモノから目線を反らすことができなかった。


「……い、いや……。早くっ!? お願い、動いてっ……!! どうしてっ!? 動いてよっ……!? 動いてっ!? 動いてっ!? 動ごけっ!!」


 何故か背を向け逃れきれる想像がまるでできない。アレは手も足も砕けて立てないはずだ。しかし、その銀の目が。血にまみれて砕けた身体から溢れ出す狂気が、まるで喉元に喰らい付いて放してくれない。

 昂ぶり荒ぶる鼓動に五感を支配され上手く思考ができない。同じ思考過程が煮えたぎる熱湯のように何度も何度も反復される。

 どうしよう!? どうしよう!! どうしよう!! どうしよう!! どうしよう!!!?


「……動……いて……! お願い……! 動……け……!! 動っ……お姉ちゃんっ……!?」


 どれだけのその場に居るのかもう判らない。もしかしたらもう息をしていなくて、今見えているこれは過去の、誰かの記憶なのかもしれない。

 浮かび上がる最悪な想像を何度も振り払った。何度も、何度も何度も何度も。それでも、どんなにこの状況を拒んで否定しても一向に現実は変わらない。だとしてもどうにかしなければ。テララは唇をきつく噛みしめ意を決して背を向ける。その間際、視界でわずかに輝く一粒の光が見えた。


「……え……? 今のって……」


 激しく葛藤する最中、何故だろう。その正体だけは何よりも確かめなくては。

 そう思えてならなかった。恐る恐る視線だけをもう一度その方へ向ける。


 ――涙だ。

 蠢くモノの瞳から一つの雫が頬を伝うのが見えた。


「泣いて……るの……?」


 それは危害を及ぼすものではなかった。それは怒りや憎しみだけのものではなかった。

 少女と同じ恐れと寂しさ、それに幼い弱さを感じた。その一筋の声にならない思いに、それまでテララを縛っていた恐怖がほんの少し影を潜め、表情に若干の余裕が戻る。そして気が付けばテララの脚はそのモノの下へ一歩、また一歩歩み寄っていた。


「……そっか……。そう……だよね……。痛い、よね……? 寂しくて、怖い……よね……?」


 身体中傷だらけで動くどころか声を上げて泣くことすらできない。誰かが傍で支えてくれる訳でもない。村人が小間物を拾いに来なければ助けてくれる人もおらず、ずっと独りぼっち。

 ずっとこの場所に埋もれて、ずっと怯えていたんだ。そうか、そうだよね。

 その頬に残る涙痕を見れば、そのモノの心中を識るには容易かった。だが、まだ少女にはその身に受けた心的外傷を拭い去るのは難しい。それでも一歩ずつよろめきながらも懸命に近づき、そしてその傍らに崩れるように膝を着いた。


 間近で見るその姿形はあまりにもむごい。傷口から覗く内容物が強烈な太陽の日射にあぶられて漂う血生臭さが吐気となってテララを襲う。

 意識がもっていかれそうなほど強烈な腐臭に一瞬おののいてしまう。

 このヒト、震えてる……。

 間近に来て分かった。歯をむき出しうめいているが、その身体は小刻みに震えていた。何て残酷なことか。今になって事態を把握する。まだ恐れは消えてはいなかったが、それ以上にテララは手を伸ばさずにはいられなかった。


「……いたっ!!!?」


 するとあろうことか。そのモノはそれまでもたれていた首を途端に持ち上げ、差し出された少女の手に躊躇なく喰らい付いてきたのだ。

 腕を掴まれた痛さなど比較にならない、骨をも砕く激痛が雷轟の如く全身を駆け巡った。

 思わず腕を引き抜こうとするも、最早テララに残された力では微動だにしない。音を立てて腕に喰い込む激痛にただじっと悶え耐えることしかできない。

 唇を血が滲むほどに強く噛みしめ、牙を立て襲い来る恐怖を掻き消しながら、テララは優しくささやきかけた。


「大……丈夫、だよ……? もう……、怖く……ない、から……。だから、……安心して? ……信じて? ね……?」


 テララは身体をつんざく痛みに瞳を潤しながらも、視線を逸らさず努めて微笑みかけ続けた。

 だが、そのモノは血走る銀の目で鋭く威嚇したまま、喰らい付いた腕を放そうとはしなかった。むしろその歯牙は陰惨な音を立てて幼気いたいけな少女の手に徐々に喰い込んでいるようにも見える。


「あぐっ!? うぐぐぐ……!!」


 い、痛いっ……!?

 それでも変わらず向けられる思い。

 そしてついにそれは顎の力を緩めた。苦痛に耐えしのいでいる少女の顔をまじまじと見詰めた後、安堵したのか静かに瞳を閉じ、そして意識を失った。


 力なく弱々しくうな垂れる首をテララは咄嗟に抱き止め、慌てて付近の村人に届くよう大声で助けを求めた。


「だれかっ!? 誰か助けてくださいっ!! お願いっ! 誰か、この人を、傷だらけで……! 誰か助けてっーーーー!!!!」


 普段の耳心地の良い朗らかなそれとは異なる叫び声が小山中にこだまする。

 テララのただごとでない呼びかけに、何事かと村人たちが続々と駆けつけてきた。


「テララちゃん! 一体どうしっ!? こ、こいつはど、どういうことだ……!?」

「な、何て惨い……。信じられない……!」


 その惨状を目の当りにすると例外なく慄く者ばかりだった。しかし、大粒の涙をこぼしながら必死で嘆願する少女の瞳にすぐさま我に返る。自身の衣服の裾を裂きそのモノの損壊個所を被覆する者。拾集した小間物でどうにか担架を急拵えしだす者。村人たちは一丸となってそれを村まで運ぶことに徹した。

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