第二章 ツギハギ(36)
逃げるために立たなければ。
沖田は立ち上がろうとするが、足が震え上手く立つことができない。それどころか視界があちこちに動きぶれるため、平衡感覚が失われたように、体がよたよたとふらついてしまう。
目が回る。
息が吸えない。
胸が痛い。
誰も呼べない。
誰も助けに来ない。
気付いてもらえない。
殺される。
苦しい。
怖い。
でも……。
息苦しさのあまり滲む視界に垂れ出す鼻水。
必死に酸素を求める口の中が塩辛くなってくる。
喉の奥がかさつき、貼り付きあおうとする度、咳き込んでしまう。
そんな沖田の様子が、妖物の気分を高めていくのか。嬉しそうに近づいてくるさとり。
むき出しの歯は白銀の色を帯びているように見える。
あれで噛みつかれたらひとたまりもないだろう。
逃げるためになんとしても立たなければならない。
生きたいのであれば、立ち上がり抵抗しなければならない。
その二点に集中しなければならないのに。
姉の顔が……随分昔、ごく希に沖田を褒めるときにみせていた姉の笑顔が彼の中にちらつく。
さとりの言っていることは、きっと正しい。
姉が険しい顔をするのは、溜息をつくのは、怒りに顔を歪ませるのは、呆れるのは……。
いつも自分が原因だ……。
進まないながらにでも、さとりから距離を取るために動いていた手足が静かになった。
自分があの歯に裂かれ肉塊になれば、姉の悩みの種が消え失せる。
骨すらも噛み砕かれれば、埋葬する手間もない。
そうなれば、間違いなく婿殿は喜ぶ。それを見た姉上は……きっともっと……。
ここで生きながらえたところで、誰が褒めてくれるだろう。
誰が喜び、慰めてくれるだろう。
さとりの手が、沖田の髪を掴む。
その刹那、近藤の豪快な笑顔がよぎるが、毛穴から毛根が引き抜かれそうな痛みに、全てがかき消える。
思わず小さな手は頭部に伸びた。
非力な手が、さとりの手をこれ以上頭から離させないように、精一杯握っては自身に引き寄せる。
生を諦めることを考えていたものの、体がそれを拒絶する。
知恵を授けられた生き物の痛みと死への恐怖に、生を求める動物の本能が生きることへの執着を手放すのを許さなかった。
「怖い、怖い。
怖いよね~。
読めるよ、姉上のために死にたいのに怖くてできないって、そう思ってるんでしょ。」
さとりの手に爪を立てるが、動じる様子が全くない。沖田は何とかこの状態から脱することを試みるが、痛みのあまりにできることは限られている。
握る手を一瞬とて離すことはできない。それを掴んだ今のまま、攻防することしかできないのである。
「痛いよ。」
卑しく粘着質な笑いを含んださとりと瞳が交差する。
「死ぬのは痛いよ。
だって僕が痛くするから。
この前のこと、怒ってるから。
そのお返しもしないと。」
けたけたと笑うさとり。生臭い、魚が腐ったような吐き気を誘う臭いに、沖田は嘔吐きそうになる。
だが、それを堪えるため、鼻を押さえるために手を自由に動かすことはできない。
さとりの歯が肘に近づいてくる。腕を囓られれば、髪を引き抜かれまいと抵抗する部位をなくしてしまう。
避けられない、軽減させることのできない痛みが頭を襲うことが予想できた。それに加えて囓られた腕の痛み。
一部ずつ、致命傷を除くように人の形を壊されていくのだ。
その痛みがくれば、叫ぶことができるだろうか。
沖田は、ぎゅっと目を閉じる。
叫んでも痛みは変わらない。それを聞いた誰かが早く来てくれれば命はあるが、遅ければ……来なければ、自分は……。
視界を閉ざしていても、数多の痛みの海に沈む恐怖は襲ってくる。
肘に近づく吐息の感覚で、その間際まで感じ取れてしまう。
危機に直面し、敏感になった神経が僅かな空気の変化も逃さない。袂が微かに揺れ、その揺れが大きくなるのを沖田は感じた。
目と頬の肉が引っ付くことを思わせるほど、ぎゅぅうっと瞼を閉ざし、歯をぎりっと鳴らした時である。
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