第二章 ツギハギ(28)
「どうじゃ。」
威厳を忘れず老いた爺は、その見た目には似合わない酷く古びた小屋で女を組み敷いている。
いつだったか、土方と鈴音が橋の下で魔を弔った際に、その様子を物見遊山していた爺であった。
「何に対する質問ですか。」
逆さにした桶に腰掛けている女が低い声で答えた。
呆れの滲む女の瞳には、必死で抵抗する力ない者の足下がはだかれていく様と、それを恍惚とした眼差しで見つめながら体を押し入れる獣が映し出されている。
「決まっておろう。
さとりの件じゃ。」
「どうも何も、あれくらいがちょうど良いんじゃありませんか。
鈴音とあいつらの仲を深めていくには。」
「それがお主の前戯という訳じゃな。」
女の前身ごろから上がる顔は下卑た笑みに満ち満ちていた。
卑しく欲に満ちた顔にも、大きな抵抗を見せなくなった女にも虫唾が走る。
桶に尻を乗せている女は、天井を仰いだ。
見るに忍びない情事ごとから解放こそされるが、聞こえてくるその音を遮るには、二つの灯火を根本から掻き消す以外には思いつかない。そんな淀んだ重みのある感情が心の奥から滲み出てくる。
「何じゃ。
羨ましいのか。
お前も鈴音をものにしたいのであろう。」
下品な呼吸音の間が徐々に早まっていくのが分かる。
か細い悲鳴に似た拒絶の声も、抑揚を持ったどこか物欲し気な声に変わり、それら全ての音色が悪寒となって、桶の女の背を駆け抜けていく。
人など欲の前には形無しでしかない。
清らかな鈴の呼び声が、久しい感覚として鼓膜を揺らす。
こんな穢れを含む場所に長居をすれば、自分すらも醜い獣であることを思い出さなければならない。
そうなってしまえば、緻密に施してきた計画なども忘れてしまい、原始の生き物のように蠢き合う目の前の者達を、いよいよ土の人形返してしまうだろう。
ここまでのことは何の為の前戯であったのか。
目的を見失ってしまう。
いや、それはそれで良いのか。
そうなれば、まだもう少し、鈴音と時を過ごせるのだから。
……でも、悠長なことを繰り返しここまで来てしまったのだから、次は邪魔が入らないうちに、あの女を自分のものとして……。
そうして……。
女は桶から腰を上げた。
荒々しく座っていた桶を、小屋の奥に蹴り飛ばす。
「お主も好きであろう。
手に入らぬものを、我が物にする快楽は、女を突き上げるそれに似ているのだ。
このような品のない女でも、一時の慰めにはちょうど良い。
全てを奪われたこの穴を満たすには、これしかないのじゃ。
そうであろう。」
去り際に女が振り返ると、筵(むしろ)の上で誘うような視線を向けながら、その身を激しく揺らしている女と視線が重なる。
女体の扱いに慣れた爺に、抵抗する素振りは毛ほども見られなくなった。
事実が変わらずとも、意志を貫く様があれば、まだ美しく思えたものを。
……だが、元よりその類いにあれる者でもないのであろう。
ほんのわずかにその身を弄られただけで、自身の自由を委ねるような女であるのだから。
桶の女は唾を吐きつけた。地面にじわじわと吸い込まれ、シミと化していく唾液の末路を見届けながら口を開く。
「お前みたいに下卑てはいない。
私は相手を選ぶので。」
先ほどの唾と同じように言葉を吐き捨てると、女は簾をあげその場を後にする。
薄い隔たり越しに、激しくなる睦み合いを感じながら足を踏み出そうとした時、小屋の角に気配を感じた。
見るとさとりである。
さとりは、女が渡した金色の笛を握りしめながら、こちらを見つめていた。
「何ですか。
私の心でも読もうとしているのですか。」
京を混乱させるために自身が山から引き連れ、町に放ったさとりではあるが、今は目障りに思えてならない。
さとりは何も答えない。
大した妖術も使えない無力な妖怪。
笛を取り上げられれば、人の心を読む以外に何も成せない非力な怪異。
女は膝を曲げ、さとりに視線を合わす。
力があったとしても、掌握し使いこなせなければ何の意味も無い。
それは昔の自分と同じで役立たずのできそこないなのだ。
抱いた哀れみが女の手を動かし、さとりを手招きする。
「今回の失敗は誰のせいですか。」
低い声で優しく問いかける。
「……女ぁ。
あの女。
あの女が邪魔なんだぁ。
あいつがいなければ、今回も上手く出来たのにっ。
皆を山に連れて帰れたのにっ。」
「おしいなぁ。
確かに女は邪魔ではあったけど、あの女は何で邪魔をしてきたんでしょう。」
さとりは答えられない。
あらゆる者の心を読めたとしても、彼の知能が高い訳ではない。
多くの心を知ったからとて、彼の知能が高まる訳でもない。
さとりは首を左右に傾げ出す。
「難しいですかね。
鈴音が邪魔をするのは、守らなければならないものがあるからです。
じゃぁ、その守るべきものは誰でしょうか。」
さとりが、にたぁぁっと笑う。
連れ去った子供を食ったあとなのだろうか。
口内はまっ赤に染まり、むき出された短く鋭い歯の間には、毛髪のようなものが挟まっている。
「そう。
もう分かりますね。
それがいなくなれば、鈴音も崩れる。
鈴音が使い物にならなくなれば、残った芋侍など、烏合と同じ。」
答えが見えたさとりは嬉しそうに、けたけたにやにや。
首を何度か回転させて飛び跳ねる。
「分かった。
じゃぁ、殺すね。
あの子供を。」
「えぇ。」
「元は大人だから、遊び相手にはしない。
その場で、ずたずた、ずたずた。」
さとりの手が何かを引き裂くような仕草を見せる。
よほど興奮しているのか。
開かれた口からは薄赤く染まった涎が垂れ流れている。
「そう。
それができれば、お前の思い通り。
お前お得意の力で存分に心が読めますよ。
勿論、鈴音のも。」
もう返事をすることも忘れたさとりは駆け出していた。短い手足は不器用な動きであるが、素早い。
そんな背を見送る女は腰を上げた。
できそこないは、どう足掻いてもできそこない。
人に答えを貰っているようでは、そこから抜け出す才もない。
さようなら。
やくたたずの、さとり。
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