第一章 ヒトダスケ (26)
雪のちらつく中、
遠ざかって行く広い背に手を伸ばす。
指の合間から白い粒が去って行くように、
その背中もどんどん遠くなっていく。
あらん限りの声を出し、呼び止めようとするが、声帯を奪われてしまったかのように何の声を出す
こともできない。喉にぴったりな蓋が取り付けられたみたいだった。
声が出せないならと、
急いで足を動かし追い付こうとするが、
寸も近づけることがなく黒い濁流に足下をさらわれ流されてしまう。
もがけばもがくほど濁流はうねりを増し、
その身を捕らえていく。
呼吸ができない。
足に力が入らない。
あいつを。
あいつを見失ってしまう……。
待って、まさっ……。
嗚咽混じりのむせ返るような咳に、思わず体を
起こす。
満月だろうか。
皓皓とした月の明かりが、障子の紙をすり抜けて鈴音の顔を照らしている。
酷い寝汗を袂で拭い、部屋を見渡すが目当ての
人影は見当たらない。
静代はどこに行ったのだろうか。
側にいて欲しいと求める時に限って、
何故いないのだろう。静代もあいつも。
さっき見た夢が、無性に心許ない気持ちを
起こさせる。
眠るつもりはなかった。
その必要のなくなった鈴音は、睡眠を取ることなく生きていくことができた。
これはもう随分昔に、彼女が失ったものの一つである。
それだというのに、体は染みついた習慣を忘れることが出来ない。
眠るという行為が生きるうえで必要のないものになったとしても、肉体にはその記憶が残っているようで、何もせず、ぼーっとしているといつしか意識が飛んでいるような状態になってしまう。
だが、どれほど長く意識が飛ぼうが、
あのまどろみや睡眠のあとの心地よい感覚を得られることはない。
ただ、次に目を開けたとき、時間が長く進んでいるか、短く進んでいるかのことでしかなかった。そうしてそんなときには決まって、見たくもない悪夢のような世界を旅してしまう。
だから彼女は、そうなってしまわないように、
体が睡眠の記憶を蘇らせてしまわないように気をつけてはいるが、今回はうっかりしてしまった。
橋の魔の毒牙から毒と呪による傷を受けた鈴音は、二・三日熱にうかされていたからだ。眠りという習慣に体が持っていかれないように、遠くなる気の中で集中はしていたものの、気がついたら大量の汗に着物を湿気らせていた。
生き物の体はよくできたものだ。
鈴音は、自嘲気味に鼻で笑うと汗ばんだ胸元に手を入れる。
指先に生ぬるく湿った銭の感触が伝わった。首元から長く垂らされた紐に通された九文の銭が、豊かな山の膨らみに重なるようにぶら下げられている。
その銭を鈴音は、一枚ずつ順に何度も指で撫でた。
そんなことをしても、胸を包み込もうとしている心細さが消え失せることはないが、幾分かは
慰められるように思える。
気休めに思える行為を数度繰り返した後、
障子の向こうの気配に向かって口を開いた。
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