第一章 ヒトダスケ(7)

 嫌な月が出ている。どこか赤みを帯びた月だ。化け物の眼が細くあざ笑っているかのような伸びた三日月を、土方は睨み付ける。

 化け物退治に同行させられた数名の隊士が、彼の鋭い眼光に身を縮ませた。

 ただ、一人の女を除いては。


 鈴音は、土方から発せられている苛立ちの空気に怯みもせず、たじろぎもせず、ただ気だるそうに付いてくる。

 その様子も、土方からすれば苛立ちを増幅させる原因の一つであるが、副長ともあろう者が、さすがに八つ当たり紛いのことはできないため、さらにイライラした。


 そもそも、何故そこまで気が立っているのか。怒りの根本は、近藤の勝手で軽率な判断に対してなのだが、途中からは鈴音の態度が原因である。


 何を考えているのか、よく分からないうえに、口を開きもせず、顔もよく見えず、鼻下まで伸びている前髪が見ていて鬱陶しい。


 それに、この装いもよく分からない。覇王も静代も、高級には及ばずとも、それなりに良い着物を着ているように見えた。だというのに、何故この女だけ、こんなみっともないボロボロの着物なのか。


 考えれば考えるほど、訳が分からない。覇王達に関する情報を、持っていないのだから当然のことである。知りもしないことを考えたところで分かるはずもないのであるが、答えがでなくとも、気になったことは、考えてしまうのが土方の性格だ。そのうち、そんなことを考えている自分にまで、苛立ってくるのだから、もうどうしようもない。


 話が分かりそうで分からない、頼みの綱の静代も一緒にくるものと、てっきり思っていたが、「自分は、大して何もできませんので。」と、待機を希望した。


 道すがら、静代から覇王達の情報をうまく聞き出そうと考えていた土方の思惑は、風の前の塵のように消えていった。


 こんな返事もしない女じゃ、聞き出すどころか、会話もろくにできやしねぇ。


 隣を歩く鈴音にちらと目をやると、頭が自分の方に向けられていた。


 俺を見ているのか……。いや、俺を通り越して町並みか……。


 髪の毛で目線が全く分からないため、何を見ているのかは分からない。


 何か用か、と聞いてみようかとも思うが、自分を見ていなかった時は、気まずくなるため、そんな言葉もかけられず、打開策を閃くこともないため、自身は視線を進行方向に戻す。


 こんな女を相手にするくらいなら、その辺りの女を口説いてこいと言われる方がまだ楽だ。


土方は、微かな頭痛を振り切るように、頭を振った。


どうしよう……。


 夕刻から、ずっと考えを巡らせているが妙案が浮かばない。今から祓いという戦だというのに、集中できない。鈴音は、土方達に歩調を合わせながら、帯元に差し込んでいる匕首に手を添える。


 本来の用途とは違うが、鈴音はこの匕首で長い間、前髪を切りそろえてきた。

 できる限り大切に使いもした。

 なにせ、彼女が心を寄せた人物から貰った大切な匕首だ。


 だからこそ、気に掛けて使っていたというのに、うっかり手入れを怠ってしまい、少し錆びさせてしまったのだ。 


 静代にバレたらどうなるか……。


 普段は温厚で忠実的に接してくれているが、静代は怒らせると、とても怖い。


 この数ヶ月、鈴音が前髪を伸ばし放題にしていたのは、匕首の錆が、静代に見つからないようにするためなのであるが、そろそろ限界である。静代に隠すのもそうであるが、自分自身も、視界が悪く鬱陶しくてたまらない。 

 

 こっそり鍛冶屋にと、何度も試みたが、基本的に静代は鈴音のそばに居るため、彼女に知られずに鍛冶屋に持っていくということは不可能だ。


 ほんの少しの隙を見たにしろ、次は仕上がったものを取りに行く機会も必要になるため、一度の好機だけでは成功しないのである。


 覇王に頼んだとしても、多分、あいつの性格上、面白がって静代に告げ口するだろうし、迂闊に人にも頼めない。


 ……あ。


 鈴音は、しかめ面で歩く隣の土方に顔を向ける。


 こいつに頼もうか……。

 いやいやいや……。

 

 こんな小難しい顔してる野郎に頼んだって、変にごちゃごちゃ事情だけ聞かれて、協力してもらえないのがおちだ。


 そもそも初対面だし、あんま良く思われてないし……。


 あぁ、無理だ。

 もう絶対バレて怒られる、終わった……。


 そんなことを考えていると、土方の目がこちらに向けられる。


 長く、土方の方を向き過ぎたこともあって少し気まずく思えたが、よくよく考えると前髪のおかげで目線がどこにあるかは、相手からは分からないのだ。


 ほっとしながらも、鈴音の胸のうちでは静代に対する恐怖と、どうにかなってくれという切実な願いと祈りが、もやもやと残っているのだった。


 お互いにてんで違うことを考えながら歩を進めると、人の気配が消え失せる。静まり返り、胸に何かがのし掛かるような、嫌な重たい空気が漂う。


 橋の魔が現れる場所はもう近かった。

 隊士達の歩幅が、心なしか狭くなる。


 今から挑む相手は、人間ではないうえに、初めて見るものだ。


 幽霊や妖怪など、絵巻で見ることはあれど、本物を目にすることは、ほとんどない。


 微々たる力でも霊能力を携えているもの、もしくは、力が強めの怪異の方から、何らかの反応をとってこない限り、普通の者は何も気付けないからだ。


 妙な違和感を感じ取ったとしても、それが霊障によるものだとは、誰もすぐには思わず、多くは置かれている状態が随分悪くなってから、怪異によるものだと、勘付き始める。


 そんな非日常の中にいる想像も及ばない相手と戦うのだ。怯えが体に表れたとしても、当然のこと。


 鬼の副長と恐れられる土方でさえ、嫌なものが背筋を駆け上がっていくのを感じるほどだ。


 見たこともない相手に戦いを挑む恐怖は、頭身の毛も逆立つほどであるが、覇王達を信じきれない以上は、自分たちでなんとかするしかない。


 土方は、横目に鈴音を気にしながらも、まだ見ぬ敵へと、意識を集中させていく。

 陰陽師や祓い師などがいるのだ。彼らは、多少人と違えど、根本は同じ人間。


 自分たちも、それなりに気合いと踏ん張りをきかせれば、非現実のものさえ斬り裂くことができる。


 土方は、漠然とそんな考えを持ち合わせていた。田舎百姓や荒くれ者の集団である彼らが、新選組に成り得た理由は、ここにあるのだろう。


 だが、今回に関して、それは無謀であった。 経験から培った人知は人間相手に通じても、怪異にはそう簡単に通用しないことを、土方達は、まだ理解しきれていないのだ。


 霧がかった橋の一歩手前、誰もが足を止めた。噂が確かであれば、刀や武器を携えた者が、この橋を渡ると、体の臓物を一つ抉り出されて殺される。


 ほんのわずかにしか聞きとれない、どこかの誰かの生活音に、隊士の誰かが生唾を飲む音が重なった。


 「あの、本当に自分たちでどうにかできるん 

 でしょうか。

 こんな刀で、怪異なんて……妖物なんて斬れる

 んでしょうか。」


 恐怖に耐えきれなくなった、橋本という隊士がすがるように鈴音に問いかける。


 どうしたもんだか……。

 結論を言えば、難しい。


 完全なる妖刀を持つ訳でもなく、術が施された武器を持ってもいないうえ、霊力が鍛えあげられてもいない。


 彼らだけで戦って、勝てるかと聞かれれば、負けると答えたくなる状態だ。


 そもそも、全員が妖物を視ることができるかすら怪しいというのに、勝敗を気にしている場合ではない。


 彼らは、そんなことすら分かっていないのか。


 鈴音は、前髪越しに橋本を見た。


 悪い視界から見てとれる橋本の瞳には、完全なる恐れが見える。


 きっと、他の者も同じだろう。

 恐れは隙だ。全滅するかもしれない。


 何も手出しをするなとは言われたが、流石にこれに答えないのは可哀想か。


 「あのさ……。」


 「五月蠅ぇぞ、橋本。

 あんな素性も分からねぇ奴の助言なんざ求 

 めるんじゃねぇ。

 法螺だったらどうする。」


 鈴音の声をかき消すように、土方の怒声が響く。


 好きにしな、あたいはもう知らねぇ。


 ほんの少しでも友好的になってやろうと思ったことが、馬鹿らしくなり鈴音は口を閉ざす。


 「おい、お前。確か鈴音とかいったか。

 余計な手出しは無用だ。

 俺たちは、お前らを信用してねぇ。

 今日は、近藤さんの顔を立てて同行させただ

 けだ。

 おかしな動きをしてみろ、お前も妖物もろと  

 も斬り殺してやるからな。」


 威嚇のつもりか、土方は刀の柄に手を添え抜刀の仕草をして見せる。


 刀の腕も、お前なんかよりあたいの方が上だと思うけどな。ま、どんなもんか、自分の目でしっかり見ると良い。じゃねぇと、分かんねぇだろ、この頭でっかちには。


 橋に足を踏み入れ始めた新選組に続きながら、鈴音は刀の柄にぶら下がる鈴の音が鳴らないように、そっと握り締めるのだった。

 

 「何も起こりませんね……。」

 橋本が、橋の欄干から身を乗り出す。

 「ただの噂だったんだな。」

 緊張感がなくなり始めた隊士達が、小話を始める。

 引き上げ時か……。

 前方の欄干には、鈴音が腰を掛け、両膝に肘を突き立てながら、頬杖をついて座っている。

 怪しい動きをする気配もない。

 本当に信用しても良いのか……。

 いや、それはまだ早い。


 チャポン。


 川で魚でも跳ねたのか。水音が聞こえた。


 こんなところにこれ以上いても仕方がない。戻って、隊士に覇王達のことを調べさせよう。 

 土方は、後方の橋本に声を掛けるために振り返る。

 橋本は、さっき橋下の様子を確認していたはずだからな。


 後ろを振り返る土方を、鈴音はじっと見据えている。


 「橋本……。」


 振り返った先には、誰もいない。


 霞の濃い靄が広がってはいるが、人の気配は確認できるほどの濃さだ。


 今、見つめる欄干沿いに人が居ないことは明白だった。

 体中の毛穴から、嫌な汗が滲みでている。外気の暑さで吹き出すものではない。得体の知れないことが、自身のすぐ真後ろで起こっていることへの不安と恐怖。


 土方は、分かっていた。

 自身の後方から、橋本が前方に移動していないことを。


 だから、反対側を振り返って確認したところで、橋本の姿は確認できないことも。


 土方は、分かっている。

 身を乗り出した橋本が、欄干から落ちて川に流されてはいないことを。

 そんなことになれば、大きな物音や叫び声が聞こえるはずだ。

 何も聞こえはしなかった。

 橋本は、妖物とやらに攻撃されたのだろう。 


 土方は、すぐに察した。

 それは、橋の魔の噂を知っていたということだけで勘付いたのではない。

 そう思わざるえないものが、はっきりと土方には見えていたからだ。


 欄干から滴り落ちる、真っ赤な鮮血が。

 

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