ラタトスク
鯵哉
手を繋ぐ理由。
ずるい、と言われた。
そうやって逃げてきたんだ、ずるい。
そうやって、逃げ続けるつもりなの?
あの子は嗚咽を漏らさずに、そう言いながら泣いていた。
がたん、とテーブルが動いた音で目が覚めた。
正面を見ると、こちらを見る視線とぶつかった。あれ、今何時だろう、と辺りを見回して時計を探す。同時にここどこだっけ、と思う自分がいた。
何やってるんだ、私。
「私呼んだっけ」
「違うけど、またここで眠ってんだろうなと思ったから。うちで眠れば?」
「大丈夫」
腕時計が目に留まる。午前二時を示していた。こんな時間に私を心配して来てくれたのだろう、千尋は眠そうな顔をしている。千尋の家はこのファミレスの近くで、昨日も来てくれた。そして朝まで一緒に居てくれる。
「いつまで続けんの」
「分かんない。分かんないからこそ、千尋の家にはお邪魔できない」
「うちは気にしない、姉貴もよく帰ってくるし」
「ありがとね」
眠いけれど、ぐっすり眠れない。テーブルの上に置いてあるカップの中には既に冷めきったコーヒー。あと四時間もすれば夜が明ける。そしたらシャワーを浴びて服を着替えに一度家に帰る。水曜の朝から裕香さんはパートに行くので、朝は早めに人が居なくなるはず。
「ごめん、ちょっと寝る……」
「亜季、携帯光ってるよ」
「さっき返信した……」
薄手のコートを枕にして、テーブルに突っ伏す。大学の友達に眠りやすい場所を聞いたけれど、ホテル、ネカフェ、カラオケ、ファミレスだった。ホテルは毎日泊まるには高いし、ネカフェやカラオケは怖い。個室は、人が入ってきても誰も気付かないから。何かあったら怖い。そのことを千尋に言うと、一緒にいると言ってくれるけれど、こんなことに付き合わせるわけにはいかない。
とか言って、今もファミレスに来てくれるわけだけど。
人の足音で目が覚めた。もう三日もここで眠っている。嗅ぎ慣れたファミレスの匂いに顔を上げる。深夜は人通りの少なかった窓の外の道に、人が行き来していた。頬杖をついた千尋がこちらを見ている。
「おはよ」
「……おはよう、居てくれたの」
「起きたときに居ないと、寂しいでしょ」
「うん、寂しい」
「もーウサギなんだから」
無表情で可愛い声を出すので笑ってしまう。千尋はあまり笑わない。涙も見せない。感情が揺れにくいの? と聞いたら、表情筋が鈍いのだと答えた。表情筋が鈍くても、千尋に多くの友人が居るのは、それを覆うほどの人情があるから。
六時よりも前にファミレスを出た。朝日がビルの隙間から差して、私たちの横顔を照らす。何度見ても飽きないし、綺麗だと思った。
出勤前のサラリーマンやOLさんたちとすれ違う。後ろについてきた手が私の腕を掴んだ。何か聞き逃したかな、と振り向いた。
「帰んの?」
「うん。今日は朝から皆いないから」
「ふーん、ついていこっかな。今日何限からだっけ」
「三限。つまんないよ、面白いものとかないし」
「それなら亜季の家出て、うちで眠ってこーよ」
ね、と同意を求められる。ここまで付いてきてくれた千尋の意向も取り入れよう、と思う。私は頷いて「そうする」と答えた。
駅から電車に乗って三つ隣の駅。高校生の姿は殆どなくて、私たちは満員電車の端っこで眠気と闘いながら最寄り駅で降りた。家までの道を歩けば、完全にお日様が空に昇っていた。最近引っ越した家は新築住宅の中にあって、私は未だに表札を見ないと自分の家が分からない。
あ、見つけた。いつも置いてある自転車がなくなっているので、裕香さんはパートに行った後なのだろう。千尋は玄関の外の塀の近くで待っていた。鍵を鞄から出して玄関の扉を開ける。
ローファーが目に入って、リビングの方から人の気配がした。一番いないと思っていた人間が居るとは。仕方ない、帰ってきてしまったんだから。靴を脱いで、リビングには顔を出さずに階段を上がろうとした。
「え」
リビングに続く扉が開いて、その姿が見えた。私が先程までいた駅の近くの私立高校に通っている、その制服。チェックのスカートが揺れた。奈桜が一段上に居る私を見上げている。その手には灰皿がある。
「え、何、怖い」
「そっちこそ、静かに入って来ないでもらえますか。強盗かと思いました」
「ああ、ごめん」
それで灰皿で対抗しようと思う奈桜の思考。よく分からないな、と思いながら階段を上がっていく。自分の部屋に上がって着るものを持った。階段を下ると未だ奈桜がそこにいた。私はそれから目を逸らす。
「あの、両親心配してました」
「そうですか、うん」
「家の居心地が悪いなら、はっきりそう言ったらどうですか」
「そんなこと思ってないよ」
洗面所の扉を開けながら答える。鏡に映った自分の顔を見た。可愛くないな、と思う。今まで可愛かったときなんてないけれど。
千尋を外に待たせていたことを思い出して、さっさとシャワーを浴びる。洗面所を出ると、千尋が目の前の壁に寄りかかっていて何より驚いた。本当に驚くと人って言葉が出なくなるというのは本当らしい。
「な、なんでいるの」
「奈桜ちゃんが入れてくれた」
「千尋のこと知ってたの?」
「いや、ちゃんと自己紹介した。矢幡千尋ですって。そしたら入れてくれて、奈桜ちゃんは学校へ行った」
意外なことをする子だ。髪の毛の水分を拭いながら、リビングの方を見た。たぶん誰もいないと思う。
「リビングで座ってて良いよ、お茶とか」
「気遣わなくて良いから、早く髪乾かしといで」
玄関で待ってる、と言って千尋はこちらに背中を向ける。私もすぐに二階に上がって髪の毛を乾かした。大学の講義で使うものは全部大学に置いてきているので、私の部屋にあるものは今は殆ど必要ない。
ただ、全てを捨てることは出来ないな、とは思う。前の家から持ってきたクッションや勉強机やベッド。少し前はこのベッドで眠れていたのに。
一階におりて玄関の方を見ると、千尋が私を見ていた。
千尋を初めて知ったのは高校三年、同じクラスになったとき。修学旅行も終えて、学校の行事イベントも殆どなくて、三年のクラスはあまり仲を深めるイベントがない。その中で、夏休みすぐ後にある文化祭は受験生の三年には唯一のイベントだった。
赤い靴、という童話の演劇をやることになった。幼い子も観にくる文化祭でこの演劇をやらなくても良いんじゃないか、と担任の先生は良い顔をしなかったけれど、最終的にこれになった。美術部の絵が上手な子が背景を描いて、それを指定された色で塗る係に私はなって、千尋は大道具だった。そこで私と千尋の接点はなかった。私は私で仲の良い子と作業をしていたし、千尋は千尋で男女関係なくクラスメートとわいわいしているのを見た。
夏休みは夏期講習に行く人が多くて、やはり文化祭準備の為に学校に来る生徒は少ない。それぞれの係の中で進捗状況を見て集まることになる。背景は夏休み前には殆ど終わっていて、私は進路室に過去問をコピーしに学校に来ていた。そこで大道具係の郷田くんに無理じゃなかったら手伝ってほしいと頼まれる。
受験生だからピリピリしている人と、最後の文化祭だから精一杯やりたいという人。その両方がいるのは予想できたことだし、背景係のリーダーである平木さんはそれを考えて夏休み中の活動は少なくしていた。今考えても頭の良い人だと思う。確か海外の大学に行ったらしい。
何事も助け合いだと私はおじいちゃんに教わっていたので、五時までという条件付きで教室に向かった。作業しているのは数人で、その中に千尋がいた。
入口近くで作業をしていた男子に尋ねる。
「応援で来たんだけど、何すれば良い?」
「まじで? ありがたい、矢幡の助っ人を頼む」
大道具は男子の方が多かった。一人で椅子の上に乗って釘を打っていた千尋に近づく。見上げると、千尋が見下げてきた。そして、尋ねる前に口が開く。
「そこの釘取って」
床に置いてある釘のケースを持った。近くにあった椅子を持ってきて、千尋の近くに置いてその上に乗る。千尋はとても怪訝な顔をした。
「はい、釘」
「ありがと」
「私のことは気にせずに」
黙って千尋は釘を取り打っていく。ひとつ打って、私の方を見た。千尋には言ったことはないけれど、私は同じクラスになって知ってから、不思議なひとだと思っていた。あまり表情を顔に出さないのに、クラスメートにはとても慕われている。
だから、全然話したことのなかった私はこの時少し緊張していた。あのさ、と話しかけられたときも。
「釘打てる?」
「釘、打てる」
「どうしてカタコトなの、面白いね。じゃあ交代しよ」
無表情だけれど、声は笑っている。私は金槌を受け取ってこくこくと頷く。釘のケースを持った千尋と場所を交換して、印のついてある場所に釘を打っていった。椅子をおりた千尋は板を支えてくれる。
そのとき気付いた。この人の慕われるところは、こういう親切なところだ。
家を出て千尋の家に行った。矢幡家もみんな外出しているらしく、家にあがった千尋は欠伸をした。
「布団敷く?」
「一緒に眠る」
「どーぞ」
千尋は部屋着に着替えてごろんとベッドの上に寝転んだ。私もその隣に寝転ぶ。
いつ見ても綺麗な横顔だ。
「あ、目覚まし」
「十一時?」
「十時半。シャワー浴びて昼飯食べよう」
「カレーが良い」
「レトルトならあったかも」
「流石、矢幡家」
「おやすみ、手繋ぐ?」
「おやすみ、繋ぐ」
仰向けに眠る千尋の手を握った。ちょっとだけ呆れた顔をしてこちらを見た。
知ってる、手を繋いだって同じ夢は見られないって言いたいのだろう。
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