一幻目「調律幻(チューニング)」
E-1
「恋は盲目である」
と世界で初めて発言したのはジェシカという少女である。正確にはイギリスのウィリアム・シェイクスピアの戯曲、『ヴェニスの商人』に登場するジェシカという人物のセリフ『しかし恋は盲目であり、恋人たちは自分たちが犯す愚行に気付かない』に由来している。
張り巡らされたインターネットの網に引っ掛かり、未だに脱出できない日の本の国を練り歩けば、それこそ、この言葉がちらほらと一人歩きした形跡を見つけることが出きる。『恋は盲目』は小説や漫画や音楽にまで引用され、それは人々の日々交わされる会話にまでにも及んでいる。だが、一方でこれがシェイクスピアの戯曲の文言であることに、残念ながら多くの人は知らずに使っている。小説や演劇、映画などに精通している、若しくはシェイクスピアが好きだという人物であれば聞くまでもないだろうが、残念ながら俺の周りにそんな人物はいない。無知の知は誰でも知っているだろうが、本当によく言ったものである。
そして今日、第二探偵部に持ち込まれた相談も一般的な『恋は盲目だ』の一言で片が付きそうな恋愛相談だった。
「彼女が誘拐された。助けてほしい」
榊原はこう言って俺らに助けを求めてきた。放課後、部活動生徒や委員会従事生徒、帰宅部所属のエースらによる活躍によってがら空きとなった教室に二人でいた俺たちにとって、これは荷が重すぎる相談内容だった。
***
日が傾き始めた教室で、俺は読書に耽っており、先輩は今日出された数学の課題に追われていた。そのため、彼にすぐ気が付かなかった。
榊原の「すいません」の言葉は空しくも俺らに届かず、「探偵部の方ですか」という言葉を耳にしてようやく俺たちは振り向いた。確かに、第二探偵部は俺と
榊原の対応は始め助手である俺が行った。この同好会で俺は探偵の相棒、助手という扱いだったのだ。助手という便利屋に扱う先輩は推理する探偵ということになっていたが、それらしい事が今まで起きなかったのでその機会はなかった。先輩はその嬉しそうな表情がこぼれるのを必死に抑えながら、極めて冷静に努めようとしていた。榊原に椅子に掛けるように促し、使い勝手のいい便利屋に話を聞くように言ったのだ。都合のいい便利屋はこれに従い、シェークスピアの文庫本を閉じた。嬉しそうな笑みの方を見ないように細心の注意を払いながら、俺は榊原に向き合う。
もしも先輩の顔を見ていたら絶対笑ってしまいそうだったからである。
改めて榊原から話を聞くと、先の言葉をもう一度繰り返すだけだった。それに対して俺は極めて真っ当な対応をする。誘拐されたという言葉に、無論、俺はもしも事件性があるのならば警察にすぐにでも届け出る方が俺らよりもずっと優秀に、懸命に働いてくれるだろうと言った。しかし、どうやらそれはすでに試していたらしかった。
榊原が俺らにその証拠だと渡してきたのは一枚の封筒に入った二枚の紙だった。一枚は写真。それはどうやら被害者の女性の部屋であると思われ、ひどく物が乱雑している様子が見て取れる。二枚目はハガキ大の白紙に『たすけて』と平仮名四文字が書かれている。確かにこの二枚だけを見れば、誰かが誰かに襲われて助けを求めているようにも思え、これはとんでもない事件ではないかと俺は思った。焦った俺のこの思考は、やがて後ろで話を聞いていた色内先輩の一言で疑念へと変遷する。
「申し訳ないけどこれだけじゃ、警察だって動けないのも当然だね。封筒に差出人と宛名が書いていないし、切手も消印もない。ちょっと、証拠としては足りないかな」
続く。
「質問。これは郵便受けにでも入っていたのかな? あと、この写真の部屋は本当に彼女の部屋?」
なるほど。御明察です。
しかし、頭からの否定は榊原も覚悟していたのか、そこまで表情を変えなかった。矢継ぎ早な質問には少し戸惑っていたが、少し間を置いて、それから榊原は一つ目の質問に答えた。
「はい。封筒は郵便受けに入っていました。それと、その写真は――」
しかし、この二つ目の問いに榊原はさらに間を開けて答えた。表情を雨の日のガラス程度に曇らせて、さも残念そうに答えた。
「――分かりません。たぶん、彼女の家だと思うんですけど、その、実は彼女の部屋に行ったことがなくて……」
これは中々情けない話である。榊原は彼女に変な遠慮でもしているのだろうか、と俺は思わざるを得なかった。それに比べれば俺は遠慮など微塵もなかった。色内先輩に出会ってからというもの、成行きのそのままの流れで一人暮らしの家に上がり込み、その数日後には告白までしている。成功しなかったけどね。
……話を戻そう。質問の回答を聞いて何か思ったのだろう。すぐに先輩もこちらの方へ椅子ごと移動してきて話に参加した。
「この部屋が、彼女さんの部屋だと思うのはなぜ?」
「ギ、ギターが、ギターが映ってるんです。写真のやや中央に彼女のギターが映っていたので、それで……」
確かに部屋のソファーにギターが立て掛けてあった。ギブソンのレスポールスタンダード。色はチェリー・サンバーストってやつだろう。現物は知らないが、雑誌か何かで見たことがある気がする。それにしても、随分と高そうなギターだ。
俺と先輩が交互に写真に映るそのギターを見た。それから先輩は考え、結論を出すためにとりあえず時間を作る結論にした。
「そっか、分かった。知らないなら、仕方がない。でも、その子に何かが起きているような気はするんだよね?」
「はい」
「よし。それと、私たちのことをどこで聞いたのかは知らないけど、一応言っておくね。私たちがやっているこれはボランティアみたいなものなの。私たちだって何でもかんでも、相談を受けるわけじゃない。だから、少し考えさせて」
「……はい」
榊原は先輩に最低限の連絡先と情報だけ伝え、深々と礼をして「よろしくお願いします」と言って帰宅した。時刻は四と五の間に短針が停止し、ちょうど六を長針が経過したところだった。残されたのは音を鳴らさず、静かに時を刻み続ける時計とわだかまる緊張感だった。
「依頼なんて、来るんですね」
「そうだね。ちょっとびっくりした」
先輩はとても嬉しそうだった。その喜びは、この部活のような活動に意味が与えられたことなのか、それとも面白そうな謎に巡り合ったからだろうか。その笑顔の理由がなんであれ、俺は久々の大吉をそっとしまって先輩に言った。
「先輩、この依頼というか相談、どうしますか?」
「うーん、もう少し具体的なのがあればいいんだけど。最悪、私らをからかってるだけの悪戯ってこともあるじゃん?」
「そうですね。彼の自作自演の可能性は十分にあります」
そう。俺が引っ掛かっているのはそこだ。これが悪戯ならそこまでだが、もし本当に何かあるとしたらそれは誘拐以外の何かだろう。いくら他人の言葉を拉致するのが大好きな国だとはいえ、実際に拉致が実行されるほど荒れた国ではないだろう。実際は分からないが、そう思いたい。
また、あの二枚の紙にも不審な点が多い。あの文面では、まるで本当に彼女が助けを求めているようではないか。普通、誘拐ならば犯人から要求と誘拐した事実写真とかが送られてきそうなものである。誘拐だと思い込んでいるのは案外、『恋は盲目』の典型例かもしれない。それこそ可能性を上げだしたらきりはないのだが、唯一確かそうなことがある。
それは、彼が誰かを、何かを気にかけていることは間違いがないだろうということ。
榊原は両膝をくっつけて話していたのを覚えている。あれだけ自信なさげに話すのは、ただの演技かもしれない。しかし、あの体の萎縮のしかたはどこか怯えているようにも見えたのだ。少なくとも榊原は彼女のことを心配している。これはその裏づけと見て良い。しかし、誘拐ではないとすると、何に怯え、心配しているのだろうか。疑念は尽きないが、依頼を受けない動機は尽きた。俺は先輩に改めて言う。
「先輩、彼を完全に信用することは少々危険ですが、それでも誰かのことを気にかけているのは事実だと思います。それを探ってみると言う理由で受けてみても良いんじゃないですか?」
先輩は俺の話を聞いて、また俺と同じぐらい考えてから口を開く。
「そうだね。
こうして受けた事件が、俺と先輩の第二探偵部発足以来初の事件である。
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