3.「飴と海鳴り」(サンプル)

 その夏、湯田郡司を悩ませていたのは海鳴りの音だった。どおお、どおおという遠雷のような唸りがまとわりついて離れない。身体を内側から揺さぶられ、骨ごと震わされている気がして、頭痛がひどい。はじめは何の音だかわからなかった。海のそばに住むのは初めてだった。

「ああ、海鳴りでしょ」

 フロント係の女はここに勤めて長いという。全身くまなく肉がついているが、振舞いはいつもせわしない。

「沖が荒れているときね、波が崩れたのが、雲に反射して聞こえてくるんだけど」

 曇りがちのこの町には、海鳴りはつきものだという。とはいえ四六時中響いているのは妙だ。

「そうですか」

 つまりおれだけに聞こえる音なのだろう。郡司は言葉を飲み込んだ。東京から逃げてきた罰だろうか。この町に着いた夜に埠頭で轟いていたそれが、耳奥に延々絡んでいる。嫌なら東京に帰れということか——、海鳴りは郡司の心臓を重くした。


 汐見荘には住み込みで働き始めたばかりだった。安いだけが取り柄の温泉旅館である。

「お湯の湯に田んぼの田か、ハハ、うちにぴったりだ」

 名前が気に入ったからと言って採用を決めた社長の口ぶりは、冗談か本気か掴みかねた。履歴書もなしに訪ねた自分も自分だが、今時こんなことがまかり通るとは。よほど人手が足りないのだろうと郡司は思った。

「きみの部屋、長いこと使ってなかったんだ。テレビ台は置いたままなんだけど、テレビ自体はなくてね。地デジ切り替えのときに捨てちゃったんだよ。もし退屈だったら、ラジカセかなんかやろうか」

 いいですラジオも音楽も聞かないんで、郡司は短く言って断った。


 蒸し暑い満月の晩だった。団体客の慌ただしさと海鳴りの憂鬱のため、もともと白い顔をいっそう青ざめさせた郡司が寮(という名のぼろいアパート)に帰ると、ドアの前に横たわるかたまりがあった。猫だった。

「……またお前か」

 猫はこのところ毎晩、そこにいた。いつもだらりと足を伸ばして眠っていて、近づいても目を覚まそうとしない。黒い猫で、足先が靴下を履いているように白い。尻尾が千切れたみたいに幾分短い。首輪はない。野良猫か、迷い猫か。

「毎晩待ち伏せて、借金取りのつもりか」

 ひとりごちるものの、郡司に猫を追い払う潔癖はなかった。仕方なしに柔らかそうな身体をそっとまたいで部屋に入る。それが日課になっていた。

 しかしその晩、猫は郡司の部屋に侵入した。ドアを開けた拍子、細い身体をくねらせて、するりと入り込んだのだ。

「あ」

 音もなく猫は駆けた。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。ひょいと空っぽのテレビ台に飛び乗ってみせる。満月のスポットライトを浴びて、まるで舞台女優だ。振り返った目が、きらりと光った。そしてテレビ台の裏に潜ってしまった。

 金色の視線に射抜かれたためではない。しかし郡司は猫を部屋から追い出すのを早々にあきらめた。眠かったのだ。次の日、窓を細く開けて仕事に行った。

 けれども猫は出て行かなかったし、郡司も何となく気になって、食堂の残りの牛乳を与えてしまった。猫は満足そうに舐めた。なんだか猫を拾ってしまったみたいだ、とぼんやり思った。


 猫の身体からは潮の匂いがした。海辺の町をうろついていると染み付いてしまうのだろうか。思わず自分の身体を嗅いだがよくわからない。猫は尻尾をゆらりと立てて、にゃあと鳴いた。ふてぶてしく目を細めた。

 猫はひどく暴れ者だった。郡司のシャツを好んで噛みたがったし、我が物顔で布団を占領した。吸い殻のたまった灰皿をひっくり返し、遠慮なくあちこち爪を立てる。細い毛をばらまく。郡司は注意を促してみたが、猫が理解するはずもない。

 あるいは猫を追い出してしまえばよかったが、なぜだかためらわれた。第一、窓から外に出しても猫はいつのまにか帰ってくる。郡司は嘆息した。ほかの従業員に見つかってしまえばいい、そう思った。見つかって咎められれば堂々と捨てられる。

 郡司は何かをキッパリと捨てる、排除するという潔癖を持ち合わせていなかった。他者を所有したためしがなかったためか。これまで郡司は、常に所有される側だった。


 東京では姉と暮らしていた。半分血の繋がった姉はピアノバーをやっていた。妙に羽振りが良く、郡司のことをとても気に入っていた。だから甘えた。従った。

 郡司の仕事はふたつだけ、店を開ける時間に姉を起こすこと、姉に泣きぼくろを描いてやることだった。姉は美しかったが、自分の左目尻には泣きぼくろがあるべきだと主張して、郡司に毎日描かせていた。

「……冬物、クリーニングに出さなきゃ。あなたのコートも、いい?」

「うん」

 黒い絵筆のようなその化粧道具の名を、ついに郡司は覚えられなかった。姉の頬はいつも冷たくて、郡司が筆を触れるとき決して目を閉じない。ぽつん、と点を描くだけのそれを、なぜかいつも郡司にやらせた。

 春先、姉は妊娠した。父親のない子になると言っていたが、姉は平気な顔をしていた。

「来年には三人暮らしね」

 歌うように言った。郡司に父親役をさせるつもりなのだろう。それがわかって、ぞっとして、郡司は姉のいない隙に出て行った。発作的に飛び出した。いくつかの着替えだけカバンに詰めて。

 あの人は今ごろどうしているだろう。腹はだいぶ大きくなったろうか。郡司の子であるはずはなかったが、なぜか自分が子どもを捨てたような錯覚を覚えた。夜道に子どもがうずくまる光景が浮かんでは消えた。子どもの顔はなぜか自分の顔だった。逃げたのは自分なのに、見捨てられたような気がしていたからかもしれない。姉は自分を追わなかった。

 心臓が軋んで、うまく眠れなかった。さまざまな記憶や妄想がざわめく波のように寄せては返す。姉の声やピアノ、冷たい手指。長い髪が自分の肌を撫ぜる感触。それらはふとした拍子になまなましく蘇った。あの人は、東京でどうしているだろう?

 持ってきたコートは結局クリーニングに出さないまま夏が終わりかけていた。ポケットには、いつか姉の店でもらった赤い飴玉が入ったままになっていた。くしゃくしゃの包みが乾いた音をたてた。

(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る