第7話 bar&restaurant渚
「結局ふたり、帰ってこないね。」
大口が怒っているのが見るからにわかる。感情表現が豊かな方ではないくせに、思っていることがだだもれだから困る。
ふたりが部屋を飛び出してから8時間以上が経過し、いまだ戻ってくる気配はない。沢田も無茶なことをしてくれたものだ。時刻は4時21分を示している、そろそろ夕食の支度をしなくてはならない。
「かなちゃんはきっと大丈夫だよ、沢田が何かするはずない。」
「おれから見ればお前だってそうだったんだよ。」
苛立ちを隠す様子がないどころか、本音をぶつけて完全に戦闘モードだ。
「お前に根負けしたおれもどうかしてたけどなあ、どヘタレ童貞が手を出せるなんて思わないだろうが!」
ぶっつりと血管が切れる音がした。そんなことを言われて大人しくしてるほどぼくは穏和ではない。
「なにその言いぐさ!ぼくが手を出してなにがわるいの?浮気なんだからそのくらい想定してよ!測り違えた大口の責任でしょ。」
殴りかからん勢いで胸元を掴まれ、さすがに目を瞑ってしまいそうになった。薄目で大口をみると少しずつ力が抜けていく。目元に一瞬手を這わせるともう顔は上がらなかった。
「わかってるんだよ、おれが手放したんだ、もう帰ってこない、そうなったら怖い。」
なにも言えなかった。言えるほどの恋愛経験がなかったし、この件に関しては当事者である大口が許してしまったことが原因のように思える。いや、ちがう。恋愛経験がないなりにわかってしまった、ぼくがしたい恋愛理想図は、すべてのカップルを壊してしまうことになるのだと。
「ごめん、ぼくのせいだよね。」
大口はなにも答えなかった。胸元から完全に手が離れると、夕飯はいらない、と聞こえた。ああ、自分のために作るのは嫌だなあと思った。今夜は弁当になりそうな予感がした。
どのくらい時間がたっただろう、不意にケータイのバイブ音が鳴った。不規則にライトが点滅して何かしらの通知が来たことを知らせる。相手はかなちゃんだった。
川村くんこんばんは
昨日はいろいろと迷惑をかけてごめんなさい
今は時間ありますか?
bar&restaurant渚でお待ちしています
時刻は午後5時40分、夕食時だった。慌てて出掛ける支度をする、ケータイと財布を掴んだ。現金は入っていないかもしれないのでほとんど使ったことのないクレジットカードに手をかけた。ポケットに無理矢理ねじ込み、一応いってきますと玄関で声を出した。大口からの返答はない。大通りまで走ってタクシーを捕まえた。行き先がマイナーで知らないと言われることを覚悟していたが、運転手はあっさりとオーケーサインを出した。国道をまっすぐ進み始める。
どうして彼女はぼくに連絡をしてきたのだろう。大口と別れてぼくと付き合うという結論に至ったのだろうか、そんな想像をして少しにやついたことに反省する、ぼくが壊してしまった仲なのに。傷口に塩とはよく言ったものだ、同じ心境の先人がいたのだと思うと身近に感じ、こうも言い得て素晴らしい表現を見つけたことに賛辞しかない。
30分もタクシーに乗ると少しお高めの値段になった。相変わらずこの店の駐車場は広い。bar&restaurant渚、楽しくお酒を飲んでいたここでの出来事が今の事態に発展してしまったのかと思うと少し憎い。
扉を開くとあのテラス席にかなちゃんと沢田が座っていた。ふたりはすぐに振り返り手招きをしてきた。逃走していたとは思えない行動に呆れたようなほっとしたような。するとまた扉が開き、今度は大口が入ってきた。
「おい、どういうことだ。」
ゆったりと流れるクラシックのBGMに、つい小声になっている大口はなにか言いたそうだ。なにも言えずにいるとマスターからあちらのお客様とご一緒ですか?と聞かれると返答をする前にすぐにテラス席へ案内された。
「こちらは当店からのサービスです、ぜひご賞味ください。」
フルーツの盛り合わせが置かれ、否が応にも座らざるを得なくなってしまった。
「なつかしいね、ここ。」
この言葉で、つい昨日来たばかりのぼくへ向けた言葉でないことが明らかだった。当人は黙ったままだ。
「あの日、酔っぱらってた私に大口くん何て言ったか覚えてる?」
大口はやはり動かない。しかしどこか申し訳なさそうな顔をしているから覚えていないのだろう。クラシックはこの空間をほどよく埋めてくれていた。
「ごめん、覚えてない。でもここに来たことは覚える。」
「うん、そうだね。あの日ね、お互い酔ってたけど大口くんいってくれたんだー、『いつかかながびっくりするようなデートプランを組んでやる!』って。だからずっと待ってた。」
この言葉でようやく顔をあげた大口はだうしようもなくへたれた顔をしていた。かなちゃんは構わず続ける。
「結局ここに来たのだってそれっきりで、待ってもそんなプランが来るどころかどんもん遠ざかっていって。あげくに私の行きたいところも行ってくれないんだもん。」
ふたりの進路が別れて、お互いの忙しさに時間が持てていないことは傍から見ていてもわかるほどになるころ、きっと取り返しがつかないんだと思っていたことだろう。かなちゃんも仕事柄、毎日時間に追われていたであろう、そして大口も論文に研究と大学に入り浸ることが増えた。机に向かって何時間も筆を走らせることもあった。余裕がなかった。
「それなのに浮気してこいなんて、さすがにひどいよ。」
「ごめん。それは本当に後悔してる、頭おかしかったごめん。」
「だから私ね、本気で浮気してやろうって、わざとこのお店で酔っぱらって、ホテルに誘ったの、そしたら。」
沢田が少しにやついている。どうやらちょっと困った面白い展開になるようだ。ぼくは一体なにをやらかしたのだろう。
「『大口の彼女にそんなことできない』って。ふられちゃったー。」
ふふふ、と楽しそうに笑ってカシスオレンジを頬張る。沢田も続いてウィスキーをあおると、川村くんかっこいいーと言った。
ああ、つまり浮気ができない=童貞のままなわけですか。大口は明らかに安堵の表情で頭を抱えていて、沢田はにやついていた。それをみていると、まぁいっか、なんて思えてくる。
「かな。」
小さなつぶやきがその賑やかな空気を割いて止める。
「今回のことは本当に反省してる。今までのことも含めて、これからちゃんと付き合いたい。許さなくてもいいから、チャンスがほしい。」
そう頭を下げた大口に、かなちゃんは吹き出していった、ばかなんだから。
このときのかなちゃんの口元からは白い歯がこぼれ落ちていて、いかにも明るい女の子という感じだった。フルーツ盛りの中にあったパイナップルとイチゴをかなちゃんに見立ててひとり心の中で乾杯をした。
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