第1話 メロディ大変身
九月三日の早朝。王都のルトルバーグ伯爵邸の調理場は既に稼働を始めていた。室内で作業をしているのはメロディとマイカである。
「メロディ先輩、お湯が沸きそうです」
「ありがとう、マイカちゃん。私はお茶の準備をするからスープを見てもらえる?」
「任せてください! なんだったら味見もしちゃいますよ」
「ふふふ。じゃあ、一口だけお願いしようかな」
「やったあ! ……ん~、美味しい♪」
スープ一口に満足げなマイカの姿を微笑ましく見守りながら、メロディは紅茶の準備を始める。
片手鍋の水は湯気立ち、今にも沸騰しそうな状態だ。
美味しい紅茶を淹れるうえで、ジャンピングと呼ばれる現象は重要な役割を果たす。
ティーポットの中で茶葉がまるでジャンプをするように上下運動をすることだが、これが起こると茶葉の一片一片からまんべんなく味や香りが抽出されるため、紅茶をより美味しく仕上げることができる。
そして、ジャンピングを実行するにはお湯の沸かし方にも気を付けなければならない。ジャンピングを起こすには、沸かしたお湯に十分な空気が含まれていなければならないからだ。
水を強火で一気に沸かし、水面を波打つほど大きな泡が音を立てて弾けだしたら頃合いだ。沸騰直後から数十秒くらいのお湯が最適だろう。あまり沸かしすぎると空気が逃げてしまうので注意が必要である。
あらかじめ温めておいた丸形ポットに茶葉を入れると、メロディは沸騰したばかりのお湯を勢いよくポットの中へ注ぎ入れた。素早くポットに蓋をするとクルリと指を回して呪文を唱える。
「空気を纏いてその身を守れ『
一見何が起きたか分からないが、メロディは魔法でポット表層の空気を固定したのだ。空気の熱伝導率は非常に小さい。例えば飛行機のガラスは二枚の強化ガラスの間に乾燥した空気を密閉させることで、上空のマイナス数十度という外気温から乗客を守っている。
つまり何が言いたいかというと、空気の層に覆われたポットの紅茶は大変冷めにくいということである。メロディは満足げに頷いた。
「当たり前のように魔法に頼ってますね、メロディ先輩」
「あっ」
その様子をマイカはスープの味見をしながら呆れた様子で見つめていた。その味見は何杯目だろうか?
「王立学園に通いだしたらふとした拍子に人前で魔法を使ってそうで心配になる光景です」
「うう、ごめんなさい。気を付けます。普通のティーコジーを使うより冷めにくいからつい」
ティーコジーとはいわゆるポットカバーと呼ばれる布製のカバーのことだ。ポット全体を覆うことで保温性が高まり、お茶が冷めにくい効果がある。メイド魔法『断熱装甲』はこれの上位互換的な魔法であった。
ちなみに、この魔法を人間に使用すると夏でも冬でも快適に過ごせるエアコンスーツになる! とは言い難い。断熱するために固めた薄い空気の層で全体をコーティングしているので、要するに大気の循環が止まる。つまりこの魔法で人間を覆い尽くすといずれ酸素がなくなり窒息してしまうのである。
目に見えない空気を利用した圧倒的暗殺魔法に早変わり! 意外と恐ろしい魔法なのであった。
メイド魔法で本当によかったよかった……。
数分間茶葉を蒸らし終えると、メロディはスプーンでポットの中を軽く混ぜ始めた。紅茶の濃さを均一にするためだ。そして、あらかじめ用意しておいたもう一つのポットに、茶こしを使って紅茶を移し替える。もちろんそのポットも温めてある。
ポットに茶葉が入ったままだと抽出が続くためだんだんと味が濃く、渋くなっていく。それが好きな人はそのままで構わないが、苦手な者はこのように紅茶を移し替えると最後まで好みの味を楽しむことができる。ルトルバーグ家ではこのやり方が好まれていた。
「よし、お茶の準備完了」
「スープの味も十分だと思います!」
「ありがとう、マイカちゃん。追加した味見五口分は今日の朝食から抜いておくわね」
「あわわわっ、見られてました? すみません、許してください!」
「ふふふ、次からは気を付けてね」
朝から元気いっぱいなマイカの姿に和んでいると、調理場にセレーナとリュークがやってきた。
「お姉様、屋敷内の清掃が完了しました」
「屋敷の巡回と旦那様の靴磨き、完了した」
セレーナは早朝の清掃を一人で行っていた。執事見習い兼護衛のリュークは、最初に屋敷内外の巡回警備を行い、その後でヒューズが履く予定の靴を磨いていたようだ。
「お疲れ様、二人とも。作業を分担できるから一つの仕事に集中できるのは助かるね……でも、どの仕事も魅力的だから私も掃除をやりたかったな」
「明日はお仕事を交代しましょうか、お姉様」
「ありがとう、セレーナ!」
両手を組んで喜びを露わにするメロディ。なんて素晴らしい妹を生み出したんだと自画自賛していると、リュークが腕を組んで口を開いた。
「……それで、この後はどうするんだ」
「あ、そうだった。それじゃあ、セレーナとリュークで旦那様と奥様にお茶をお出ししてちょうだい。その後身だしなみのお手伝いもお願い」
そう告げると、メロディは用意しておいた二組のティーセットのうち一組をセレーナに預けた。そう、メロディはあの時、二つのティーポットを用意していたのである。いつの間に!
「お任せください、お姉様。リューク、旦那様のお手伝いをよろしくね」
「分かった」
リュークは執事見習いであるが、仕事を初めて日が浅く技量も足りない。今はセレーナに指導されながら少しずつできる仕事を増やしているところである。
「それにしても、旦那様と奥様は寝室を別々にしてもらえるともう少し出入りが楽なんだがな」
リュークが無表情に嘆息した。セレーナは苦笑する。
「奥様の寝室もちゃんとあるのだけど、結局毎晩旦那様の寝室にご一緒されるから奥様が寝室を移動されてからでないとリュークは入室できないものね」
「こればっかりはお二人の意向だから仕方ないわ。これも使用人ライフの醍醐味よ、二人とも」
なぜか得意げに語るメロディの姿にセレーナは微笑み、リュークは鼻を鳴らすのであった。
「もう、朝っぱらから何の話をしてるんですか。メロディ先輩、私達はどうするんですか」
「ごめんね、マイカちゃん。ご主人様の我儘への対処法を考えるのはメイドの力の見せどころだからつい。私はお嬢様のところへ行くから、マイカちゃんは朝食の準備に取り掛かってもらえる?」
「了解です。後は盛り付け中心なので任せてください」
「それでは各自作業をお願いします」
「「「畏まりました」」」
正式な役職はないが、この家では実質的にメロディがメイド長である。三人は恭しく一礼するとそれぞれの仕事に取り掛かった。
メロディもまたワゴンにティーセットを乗せてルシアナの下へ向かうのであった。
◆◆◆
「おはようございます、お嬢様」
「ふわぁ、おはよう、メロディ」
ルシアナを起こし、メロディは先程用意した紅茶を淹れてルシアナに手渡した。寝ぼけ眼で紅茶を一口飲むと、ルシアナの目がパチクリと見開かれる。
「……すっごい爽やか」
「いつもの森でミントを見つけたので精油したものを一滴垂らしてみました。如何ですか」
「飲み慣れない味だけど喉がすっとして気持ちいいわ」
「では飲みたくなったら仰ってください。一滴垂らすだけですから」
ミント油の小瓶を手にしながらメロディは微笑んだ。簡単に精油したと言っているが、普通は水蒸気蒸留法という、専用器具を使用して作る代物である。もちろん専用器具などルトルバーグ家にはないのでメロディが器具の部分を魔法で代用して精油したことは明らかだった。
「ちょっとびっくりしたけど目が覚めたわ。ありがとう、メロディ」
「お気に召したようでよかったです。では、身支度を整えましょう」
「はーい」
メロディに手伝われてルシアナは身だしなみを整え始めた。
「そういえば、メロディはこれからレギンバース伯爵家に行くんでしょう?」
「はい、今日の午後が伯爵様との面談日ですから」
夏の舞踏会の帰り道。メロディとルシアナが乗る馬車が魔物に襲われた。それはヴァナルガンド大森林の魔物で、本来ならば王都にいるはずのない存在。
同乗者のレクトやマクスウェル、助けに来たリュークと一応グレイルの活躍もあって魔物を倒すことができたものの、メロディの中で王都の安全性が大きく揺らぐ出来事であった。
メロディはルシアナについて王立学園へ入るが、メイドである以上学舎に入ることは原則的に許されていない。
もしも、ルシアナが学園の中で危険な目に遭ったとしたら――。
春の舞踏会でドレスの守りが完璧ではなかったという事実が、メロディに危機感を募らせた。
その結果、夏の舞踏会でレクトの兄ライザックから王立学園へ編入することを勧められたメロディは、セシリアとして王立学園に編入しルシアナの護衛をしようと考えたのである。
(我ながら安直な考えだけど、黒い魔力を帯びた魔物が現れたら私の魔法が必要みたいだし、やっぱり放っておけないわ)
黒い魔力を帯びた魔物が相手では、通常の魔力攻撃でもダメージを与えることができない。襲撃の際はレクトやリュークもかなり苦戦していたことが思い出される。どうやら銀製武器を通した魔力攻撃ならば通じるようだが、複数の魔物を相手にするのはかなり厳しい。
メロディのメイド魔法『
メロディの目標にして母セレナとの約束『世界一素敵なメイド』になるためにも、お仕えするお嬢様の安全を守らなくてはならない。それ以前に、ルシアナが危ない目に遭うことをメロディは許容できなかった。
半袖のドレスに着替え、メロディに髪を梳いてもらいながらルシアナは尋ねる。
「午後になったらあいつが迎えに来るのよね?」
「あいつって、レクトさんのことですか? お嬢様、レクティアス様かフロード様とお呼びください。淑女の礼儀作法として失格ですよ」
「舞踏会でメロディのことを庇いもしなかった男なんてあいつで十分よ。謝ったからって許されることじゃないんだから。公式の場以外では絶対に敬称なんてつけてやらないわ」
「もう、お嬢様ったら」
普段は素直なルシアナだが、なぜかレクトに対しては頑なな様子に嘆息してしまう。夏の舞踏会にて、帝国第二皇女シエスティーナへ挨拶する際、うっかりメロディ(セシリア)の順番が飛ばされてしまった時のことを言っているのだろう。確かにあの時、レクトは順番を抜かされたメロディを庇ったりはしなかったが、それはあの場にいた全員に言えることだ。
そう、全員なのだ。
「……お嬢様も、庇ってはくださいませんでしたね」
「あわわわわわっ! ち、違うの! あの時はどうしたらいいか分からなくて!」
「私、あの時はお嬢様に見捨てられたみたいでとても悲しくて……」
「いやあ! ごめんなさい、メロディー!」
メロディのシュンとした声を耳にし、ルシアナは思わず振り返ってメロディに抱き着いた。メロディのお腹に顔を埋めてえんえん泣き出すルシアナ。さすがのオーバーリアクションに一瞬虚を突かれたメロディだったが、すぐに気を取り直して聖女のような微笑みを浮かべてルシアナの頭をそっと撫でてやった。
「ええ、お嬢様のお気持ちは確かに伝わりました。許して差し上げます」
「本当!」
「はい。ですから、同じく私に謝罪したレクトさんもどうか許してあげてくださいね」
「ぐぬぬぬぬ……分かった」
苦渋の決断のような顔でルシアナは頷くのだった。だが――。
「その件は許すけど、普通にあいつのことは好きになれないから呼び方は変えないけどね!」
「えー、それはどうなんですか、お嬢様?」
「いやよ、メロディの頼みでもこればっかりは聞かないんだから!」
(あいつがメロディに恋してる限り、絶対に認めてあげないんだから。誰があんなヘタレ騎士に我が家の天使をあげるものですか! 一昨日来やがれ、よ!)
メロディが聞いたら『どこでそんな言葉遣い覚えてきたんですか』とでも尋ねられそうなセリフを内心で毒突くルシアナであった。そして相変わらず『嫉妬の魔女』の独占欲は半端ない。
「そういえばメロディ、セシリアに変身する魔法を開発したんですって?」
さっき暴れたせいで乱れた髪を整え直しているとルシアナが質問を投げ掛けてきた。
「はい。昨日レクトさんの屋敷にお邪魔した時にポーラと一緒に新しいメイド魔法を開発しました。今後セシリアとして王立学園に通うなら私とセシリアをすぐに切り替えられた方がいいだろうという話になったので」
「面白そう! ねえ、今見せてもらえない?」
「今ですか? まあ、すぐできますから構いませんけど」
ルシアナから少し離れたメロディは特に気負った様子もなく呪文を口にした。
「演者に相応しき幻想を纏え『
「こ、これは!」
魔法が発動するとメロディの全身が白いシルエットに包まれた。光を発しているわけではないので物陰に隠れて行えば発見される危険性は低いだろう。
細部はよく分からないが、メロディのシルエットが変化していく。まとめていた髪はふわりと下ろされ、メイド服のシルエットが波打ち微妙に変貌していく。
所要時間はおよそ五秒。白いシルエットが薄らいでくると、そこには商家の娘風のドレスに身を包んだ金髪の美少女セシリアに変身したメロディの姿が現れた。髪は結っておらず、化粧も舞踏会の時よりも控えめだが、メロディではなくきちんとセシリアと認識できる風貌だ。
「どうでしょう。髪や瞳の色を変える魔法『
軽くスカートを翻してみせるメロディ。ルシアナは口をパクパクさせてとても驚いた様子だ。
「お嬢様?」
「な、なんてことなの……」
動揺を隠さないルシアナに、メロディも不安になる。どこか魔法を間違えただろうかと。しかし、ルシアナが言いたいことはそんな部分ではなかった。
「……あの、見えそで見えない絶妙な変身シーンがカットされるなんて!」
「はい?」
「うえーん! ポーラのバカアアアアアア!」
「お嬢様、どうしてポーラに罵声を!?」
変身時に全身を覆う白いシルエット。あれもまたメイド魔法『虹染』を利用したものだが、ルシアナが叫んだ通りポーラの発案であった。初めて変身を見せた時に速攻で提案されたのである。
自分の変身シーンを客観的に認識できていないメロディは、ルシアナがなぜ泣いているのか全く理解できないで立ち尽くすのであった……多分、認識できても理解はできないと思われる。
☆☆☆あとがき☆☆☆
オールワークスメイド第4巻が本日11月10日(金)より予約開始です!
いつも通りTOブックスオンラインストア限定特典SS、電子書籍限定特典SSが付く予定です。
残念ながら発売日に書店の平台にどーんと平積み!とはならないと思うのであらかじめご予約いただくと確実です。
第5章の先行公開は一旦終了となります。
なるべく早く更新を再開できるよう頑張ります。
よろしくお願いいたします。
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