第44話 激おこメイドが現れた。

 舞踏会の襲撃に失敗した魔王は、形のない靄の状態で王城から逃げ去った。

 銀の剣から抜け出した魔王だが、それは決して封印が解けたというわけではなく、実のところかなりまずい状況にある。


(依り代がなくては、このままでは……『私』を維持できなくなる!)


 ゲームにおいて魔王は狼の姿を象るが、負の感情の結晶である魔王は本来、確固たる形を持たない。テオラスの森(後のヴァナルガンド大森林)に留まるうちに、いつしか狼の姿が魔王の姿として固定されてしまったのだ。


 それは魔王にとっても都合がよかった。姿が定型化したことで集まる負の感情を凝縮しやすくなったからだ。以来、魔王は狼の姿こそが自身のあるべき形と認識していた。


 ここで説明すると、魔王の封印と銀の剣は役割が違う。

 剣の方は言ってみれば『卵の殻』だ。


 聖女によって力の大半を封じられた魔王は狼の姿を維持することができなくなった。すると驚くべきことに、魔王は靄となって世界中に霧散し始めた。慌てた聖女が銀の剣を依り代にして、全ての靄を剣の中に閉じ込めたのである。


 それは魔王にとってもある意味不幸中の幸いな出来事であった。もし靄が霧散していた場合、魔王は自我を維持できなかっただろう。たとえ封印を解くことが叶ったとしても、それはきっと新たな魔王が生まれるだけで、今の魔王は滅んだことと変わらない。


 剣に封じられたことで、長きに渡り『魔王』としての意識を残すことができていた。


 だが、依り代の剣が破壊された今、魔王は靄の状態のまま王都の空を漂っている。解けかけている封印から漏れ出す魔力でどうにか霧散こそ防いでいるが、いつまでも続けることはできない。


 早急に新たな依り代が必要だった。


(何か、仮初めでいいから何かないか!)


 目はないが、魔王は空から周囲を見渡す。


(人間は……無理だ! 自我が強すぎる!)


 ビュークを操っていた魔王だが、それは銀の剣という殻があってこそ。

 操ることはできても、自我の強い人間は魔王の依り代には相応しくない。


 かといって聖女の剣ならともかく、単なる無機物では依り代の役目を負うことはできない。


(鼠は……ダメだ。生物として弱すぎる。鳥は……見つからない……くそっ……あれは……?)


 魔王の目に留まったのは、薄汚れた灰色の子犬だった。

 路地裏の陰に隠れるように横たわるそれは痩せ細っており、よほど気を付けて聞かない限り耳に届かないほど息遣いは小さい。


 ……おそらく明日まで持たないだろう。だがそれは、魔王には好都合だった。


(あれなら、犬ではあるが狼に近いから姿を想像しやすい……死にかけの子犬なら自我も薄いはず。私の魔力をもってすれば、あの程度の命を繋ぐことも難しくはない……ならば!)


 黒い靄が子犬の中へと吸い込まれていく。数秒後、子犬はゆっくりと立ち上がった。


(……さすが私。生命維持は完璧だ。というかこいつ、腹が減って死にそうだったのか。ふん、それくらい私の魔力でどうとでもなる)


 子犬の体内を魔王の魔力が駆け巡る。痩せ細っていたはずの子犬の体躯が、標準くらいには太り始めた。封印されているとはいえ、魔王の魔力ならばそれくらい造作もない。


(これで問題ないな。思っていたより私と親和性が高いようだ。仮初めの依り代としては及第点か)


 最悪の事態からの脱却に安堵の息を漏らす魔王。

 さて、次はどうしようかと考えたところで、不思議な感情に囚われた。


『生きてる! 死ななかった! やった、やった! 嬉しい! 嬉しい! ありがとう!』


 魔王の意識に『生の喜び』が駆け巡る。これは――。


(……子犬の感情か? 完全には乗っ取りそこねたということか……だが……)


 なんだろう、この感情は?

 今まで集めてきた負の感情とは違う心の爆発に、魔王は困惑した。

 とはいえ、それは一瞬のこと。

 頭を左右に振って、魔王は先のことを忘れることにした。


(とりあえず、一旦森に帰ろう。態勢を立て直す必要があるな……ふむ?)


 森へ帰るために方角を確かめようと鼻を引く付かせた魔王の嗅覚が、ある匂いに触れた。


(この匂いは……まさか……あの小娘の!?)


 子犬を依り代としたことで、魔王の感覚が犬のそれと繋がっていた。

 王城で感じたルシアナの気配を匂いとして捉えたのだ。


(あっちの方角から匂いがする……)


 魔王の脳裏に先程の『銀聖結界』の恐怖が蘇る。

 だが、魔王は一歩前足を踏み出した。


(……このまま帰ったところで、勝算など生まれるはずがない。あんな小娘がどうして『銀聖結界』を有していたのか、調べておく必要がある)


 確かに、ルシアナ本人はまだ王城にいるはずであり、調べるには今が好機だった。魔王は全身に魔力を纏い、子犬とは思えぬ脚力で屋根まで跳ぶと、屋根伝いに目的地へ向かった。


(ここか)


 魔王が辿り着いたのは、貴族が使うには少々小ぶりだが手入れの行き届いた邸宅だ。魔王が立つ屋根の上すら汚れ一つない。まるで毎日磨いているかのような美しさだ。


 再び鼻をひくつかせる魔王。一番匂いが強いのは二階のある一室だ。

 ちょうどベランダがあったため、魔王はそこにふわりと降り立った。


 屋敷全体の気配を読む……屋敷の中にいるのは一人だけのようだ。


(……それも、のようだな。気配を欠片も感じない)


 子犬の口元が器用にニヤリと歪んだ。


 これならば、わざわざこそこそする必要もない。

 いくら力を消耗したとはいえ自分は魔王。魔力を持たない人間が一人現れたところでどうとでもできる。


 それは子犬を依り代にしたせいか、それとも生来の傲慢さゆえか。

 ついさっきあれほど痛い目に遭ったにもかかわらず、魔王の中に『慎重』の二文字は欠落していた。


 魔王が魔力を込めると、ベランダのガラスが音を立てて粉々に砕け散った。

 開いた隙間から悠々と部屋へと侵入する魔王。その瞳が最初に向いたのは勉強机だ。まるで超能力のように魔王の視線ひとつで引き出しが開き、中身が宙に浮く。

 それが目当ての物でないと分かると、浮いていた文具などが床に散乱した。


 魔王は跳んだ。しっかりと整えられたふかふかのベッドの上に乗ると、思いの外面白かったようで、何度も飛び跳ねた。


(なんという触り心地! 人間の小娘ごときがこんな贅沢をしていいのだろうか!)


 今が子犬だからか、寝心地のよさそうなベッドの感触を魔王は気に入ったらしい。飛び跳ねるたびに足跡がつき、全身に纏っていた汚れが舞い散る。


 その後も魔王は部屋中の棚やら引き出しやらを開けっぴろげ、部屋をめちゃくちゃにしていく。途中で見つけたクローゼットの中には何着かドレスが並んでいたが、聖女の魔力は感じない。


 それはほんの数分のできごと。やっていることは微妙だが、さすがは魔王といったところか。

 結論からいえば、この部屋には聖女の気配は微塵も感じられなかった。この結果に魔王の眉間にしわが寄る。

 せっかく調べに来たというのに、これでは意味がない。


 不機嫌そうに部屋を見渡す魔王の耳に、急ぐような足音が響いた。おそらく屋敷に残っていたたった一人の者が今の音を聞いて慌ててやって来たのだろう。


(ふむ。魔力も持たない無力な人間を殺すなど造作もないが、何か知っているかもしれん。操って情報を吐かせるか)


 そんなことを悠長に考えていると、勢いよく部屋の扉が開いた。


 現れたのは、黒いドレスに白いエプロンを纏った黒髪の少女。

 魔王はベッドの上に優雅に寝転がって待ち構えていた。


 慌てた様子で少女は部屋の惨状を確認する。口元を手で覆い、カタカタと震えている。

 魔王はそんな少女の怯えた様子を楽しそうに見つめる。

 さて、どう料理してやろうか。


 そして、少女と魔王の視線が重なった瞬間――魔王は戦慄した。


「……あなたが、あなたが部屋をめちゃくちゃにしたんですか? もうすぐお嬢様が帰ってくるっていうのに、いつ帰って来ても完璧な状態でお出迎えできるようにしておいたのに……メイドは常に、完璧にお屋敷の裏方作業をこなさなくちゃいけないのに……」



 少女の全身から魔力が迸る……美しき銀の魔力が。



「なんてことしてくれたんですかあああああああああ!」


 少女を、部屋を、屋敷全体を銀の――聖女の魔力が包み込む。

 その魔力は怒りに満ちていた。


(な、な、なんでだ……だって、さっきまで、魔力のまの字も、感じなかったじゃないか!? まさか、この娘が、この娘があああああああああああ!?)


 あまりに圧倒的な魔力の強さにもはや魔王は震えることしかできなかった。


 魔王はさっきまで彼女から――メロディから魔力など微塵も感じていなかった。

 今はメロディの魔力に連動するように屋敷中から銀の気配が発せられている。

 なぜ、今まで気づかなかったのか!?


 だが、それも仕方がない。なぜなら――。


『危ないから、しまっとこ』


 感情を大きく揺さぶられて無意識に溢れ出したりしない限り、普段は超絶な制御能力で抑え込んでいるメロディの魔力を察することなど、たとえ魔王であってもできはしないのだから。


 魔王、今宵、第二の痛恨のミスである……魔王はメイドを怒らせた。

 マオウハニゲラレナイ。

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