第24話 セシリア嬢は逃げられない

 レクトに手を引かれながら、メロディはダンスホールへと足を運んだ。

 演奏はまだ始まらず、二人は向かい合う。

 始まる曲はワルツ。手を取り合い、腰を寄せ合い、互いの鼓動が、吐息が聞こえる距離感。

 想いを寄せている……かもしれないと自覚したレクトには、またとない好機であると同時に、理性と本能を試される試練の数分間でもあった。


 ……ぶっちゃけ、レクティアス・フロード、二十一歳。

 遅ればせながら、初恋……の予感である。

 対するメロディはレクトと向かい合いながらこんなことを考えていた。


(よかった~、これでルシアナお嬢様から離れられた~。あとはダンスが終わったら帰ろっと)


 レクトをダンスに誘ったメロディだが、その目的は自分に気づいたかもしれないルシアナからの安易な逃走である。ついでにこのダンスが終わったらこっそり会場を後にしようとも考えていた。


 彼女達はまだ舞踏会に来て一時間も経っていない。いくらなんでもそんな早々に退場できるはずもないのだが、思いの外テンパってしまったメロディにはそれが最良の選択肢に思えた。


 メロディ、恥じらいとか、高鳴る胸の鼓動とか……皆無である。絶対にレクトに知られてはならない。あまりに哀れで。この場にポーラがいれば「うわあ」などと言いそうだ……。


 メロディにとっては何よりもメイドの矜持が最優先であった。

 何度も言うが、ただの使用人が、お仕えする主一家の参加する舞踏会に無断で出席するなどあってはならない、あるはずがない、というのがメロディの考えである――と同時に、正しくこの世界における一般常識でもあった。

 この点に関しては、レクトの取った行動の方が非常識なのである。


 演奏が始まり、ダンスホールに立つ男女が手を取り合い、その時を待つ。

 レクトも周囲に倣い左手を差し出すと、一切気負う様子のないメロディが何のためらいもなく右手を重ねた。ついさっきまでできたことなのに、手を取り合った瞬間、彼の心臓が一層跳ねる。


 レクトの右手はメロディのか弱そうな背中に触れ、メロディの左手はレクトの逞しい右腕に添えられる。まだ距離のあった互いの腰は密着するほど近づき、レクトの心臓を更に突き上げる。


(……ど、どうしよう……い、一歩目はどの足からだった……? リ、リード、リードしなくてはならないのに……頭が真っ白になる……こんなこと、今まで……)


 今までも舞踏会で女性と踊る機会は何度もあった。今と同じように女性の手を取り、腰を寄せ合い、当たり前のように踊ってきたはずなのに、今は、体が硬直して自由に動かない。

 メロディの右手を握るレクトの左手に力が入る。それは当然、メロディにも伝わった。


「……レクトさん?」


 メロディに名を呼ばれ、レクトはいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げ彼女と目が合った。


「体が強張っていますけど、緊張しているんですか?」


「あ、いや、その……」


 レクトは焦る。まさか、今の自分の気持ちを見透かされてしまったのかと。

 だが、鈍感を絵に描いたような少女、メロディ・ウェーヴに限ってはそんなはずもなかった。


「ああ、レクトさん、ダンスが苦手だったんですね。それでさっき誘った時も戸惑ったりして。だから舞踏会にもあんまり参加したくなかったわけですか。納得です。でも大丈夫ですよ。ダンスなんて基本さえ分かっていれば、あとは楽しむだけでいいんです」


 メロディは先ほどまでの、セシリアとしての営業スマイルではなく、いつものメイドのメロディの微笑みをレクトに向けた。


「まあ、うちのお嬢様にはパーフェクトなダンスを踊れるように、超絶指導しましたけどね」


 ピッと舌を出して悪戯っぽく微笑むメロディ……気が付くと、レクトの左手からは余計な力が抜けていた。とりたてて上手いことを言われたわけでもないのに、心が満たされていく。


(……もう、疑う余地すらないようだ)


「とりあえず、今はダンスを楽しみましょう。楽しむのに、技術は不要ですよ?」


「……ああ、そうだな」


「――え?」


 メロディの口から思わず声が出る。(あくまでメロディの思い込みだが)ダンスが苦手なレクトの緊張を解してやろうと笑いかけたところ、レクトが自分に向けて、初めて微笑んだのだ。

 前奏が終わり、レクトが迷いのない一歩を踏み出す。

 彼が浮かべた微笑の意味を考える間もなく、メロディはワルツを踊り始めた。


 ……彼女の背後で歯ぎしりしながら美しいワルツを踊る妖精の存在に全く気づくことなく。


 メロディの想像以上に、レクトのリードは完璧だった。

 鍛え上げられた筋肉がしっかりとメロディの体躯を支え、どんな姿勢だろうと美しい角度を維持する。元々美しかったメロディのターンやスピンは、彼の助けによってより一層魅力的なものへと昇華されていった。


(……なんだ、全然踊れるじゃないですか。じゃあ、さっきの緊張は何だったのかしら? ふふ、でもここまでできるならもっと全力で踊っても大丈夫そう。何だか楽しくなってきちゃった!)


 今世において、メロディが異性と踊るのは実はこれが初めてだ。

 前世では練習を兼ねていろいろな男性とペアを組みはしたが、レクトほどにメロディのダンスについてこれる人間はいなかった。

 今、メロディは初めて心底ダンスを楽しむことができる相手を見つけたのだ――が、どうにも、幼子がお気に入りの玩具を手に入れて喜んでいるのに近い心境である。ファイト、レクト!


 天使のような少女、メロディがダンスホールに立った時点で、既に多くの注目を集めていたのだが、ダンスが始まった今は、会場にいるほぼ全員の視線を釘付けにしていた。

 メロディ・レクトペアの、他を圧倒する洗練された踊りのせいもあるが、魅惑的なダンスを踊る二人のすぐ隣で、まるで天使と完全にシンクロするかのような、妖精の踊りが披露されていたのだ。


 ルシアナ・マクスウェルペアである。


 彼らのダンスは完全にメロディ達のダンスをコピーしていた。ステップやターンどころか、ふわりと浮き上がったスカートが垂れ下がるタイミングまでぴったりと一致したダンス。


 天真爛漫に舞い踊る天使と、それを追い、天使とのひと時を楽しむ可憐な妖精。


天使と妖精が奏でる、音のないシンフォニーは、ただそれぞれが踊りを披露するのとは全く異なる感動を、そして不思議な幸福感を見る者に与えていた。

 メロディとともに生活し、彼女の性格を知り、彼女にダンスを指導され、彼女の呼吸を理解しているルシアナだからこそできる芸当だった。


 もちろん、意識的にダンスをシンクロさせているわけではなく、習ったことをきちんと自身の力として吸収したルシアナの努力の結果である。まあ、そんな彼女についてきているマクスウェルの功績もあるにはあるが、別に端折ってもいいだろう。



◆◆◆



 さてそんな中、世の中には間の悪い人間というのが本当にいるもので、天使と妖精の輝く羽ばたきをまるっとしっかり見逃している哀れな二人組が存在していた。


「はぁ、もうみんなダンスに誘いすぎよ。おかげでルシアナちゃんと一言も話せなかったわ」


「俺にぼやくなよ。俺だってルシアナちゃんをダンスに誘いたかった。そりゃあ、列をなす美少女達とのダンスが楽しくなかったわけじゃないけど、本命には声掛けたいじゃん?」


「ちょっと、気持ち悪いあんたの性癖の話なんてしないでくれる?」


「性癖ってほどでもないだろ!? 第一、美人をダンスに誘うのは紳士の嗜みじゃん!」


「そう。では、淑女の化粧直しにお付き合いくださっているのも王太子殿下の嗜みであらせられるということでございますか? へぇ、存じませんでしたわ……キショ」


「ちょっとおおおおお!? 変な言いがかりやめてくんない!? 俺だって舞踏会が始まってからずっと踊りっぱなしで、トイレに行きたかっただけだし! お前に合わせたわけじゃないし!」


「だったら少しくらい時間差で行きなさいよ! 今だって一緒にお手洗いに行くもんだから、国王陛下に『お前達、さすがに仲が良すぎるのではないか?』て、変な心配されたでしょ!」


「それを言うなら、俺だって母上に「ま、まあ……一、いえ、何とか二時間くらいなら私と陛下でもたせてみせますわ。なるべく早く帰ってくるのですよ。ちゃ、ちゃんと対策をしないとダメよ。正式に決まるまでは……あ、後継ぎなんて流石に外聞が悪いですもの……」って、うちのお母様、何を心配してたわけ!? ねえ、何を心配してたわけ!?」


「キッモッ! あんた、私に何をするつもりだったのよ! 変態! 最低! 変質者!」


「俺のせいじゃないよね!? 俺だけのせいじゃないよね!?」


「もうやだ。早く会場に戻ってルシアナちゃんのところに行こう。そろそろ例のイベントが始まるはずだから、私もルシアナちゃんと……ぐふふ」


「……自分の今の顔、鏡で見てみろよ。そして俺をキモイと言ったことを訂正しろ。つーか、そうか、そろそろあのイベントが始まる時間か……あれ、俺は参加したくないなぁ」


「あら、ちゃんと参加しなさいよ。あれ、一部の女性ユーザーには大人気だったんだから」


「うええ……腐ったお姉さま方にだろ?」


 図らずも生理現象のせいで、王太子クリストファーと侯爵令嬢アンネマリーは、今宵最も幻想的で優美な光景を見逃すこととなってしまった。


◆◆◆


 沸き起こる歓声と止まない拍手。


 向かい合うメロディとレクトは、肩で息をしながら演奏の終了とともに紳士淑女の礼を取る。

 どうしたものかと思っていた舞踏会だったが、思う存分踊ることができたこの瞬間は、メロディにとっても大変充実した時間であった。


「あの……レクトさん、ありがとう、ございました。とても楽しかったです」


 肩を弾ませながら礼を告げるメロディ。ツーッと彼女の頬を小粒の汗が滴る。

 全力で踊った彼女の頬は上気し、触れる手は汗ばんでいた。


「……ああ」


 その姿にドキリと心を揺らしたレクトは、先ほどまでとは打って変わって恥ずかしそうに視線を逸らす。「あら、元に戻っちゃった」と、メロディは首をかしげるだけだった。


「それにしても凄い歓声ですね。何かあったんでしょうか?」


「んん……ああ、気にしなくてもいいんじゃないか?」


 鈍感少女はともかく、レクトはこの盛り上げりの意味を理解していた。姿を現しただけで沈黙をもたらす少女のダンスが、観衆を魅了しないわけがないのである。

 少々気になることではあったが、メロディはレクトの言う通りあまり気にしないことにした。

 それよりも、ダンスが終わった今、やるべきことはただひとつ。


 ――こっそりこの場を辞することである。


「あの、レクトさ――」


『お集まりの紳士淑女の皆様!』


 向き合うレクトに今後の趣旨を伝えようとしたその時、メロディの声を遮るように舞踏会の司会者から大音量の呼びかけがなされた。


(も、もう! 一体何なの!?)


 若干不機嫌そうに司会者の方を向くメロディ。レクトに話をしたいが、全員が一斉に口をつぐんでしまったため、今彼女が声を発すれば全員に聞こえてしまう。口を閉じざるを得なかった。


 そして、司会者から告げられた言葉は、メロディには全くもって想定外の内容だった。


『今宵の春の舞踏会をお楽しみいただけておりますでしょうか? よく知る男女が、初めて出会った男女が楽しく踊りあかすこの舞踏会ですが、今宵の一曲だけは趣向を変えてお楽しみください。春の舞踏会の主役は今年から社交界デビューとなる王立学園の新入生達です。同級生との仲を深めるのにダンスは最適。ですが、そのお相手は異性だけというのも寂しいものです。さあ、この一曲だけは淑女の皆様、男性パートを踊ってみたくはありませんか? 紳士の皆様、この一曲だけ女性パートを踊り、次回のダンスに活かしてみては如何でしょうか? 春の舞踏会恒例、『同性カップルダンス』を始めます!』


(えええ!? 何それ、そんなの初めて聞いたんだけど!?)


「そうか、もうそんな催しの時間か」


「えっ! レ、レクトさん、これのこと知ってるんですか!?」


「というか、毎年の恒例行事だからな」


「恒例行事! あ、あの、私これにはちょっと参加できないのでそろそろ帰――きゃっ」


 取り急ぎ退場を告げようとしたメロディの手を何者かが掴んだ。



 その手の先で微笑んでいたのは——ルシアナであった。



「あ……え…あ、あの……」


「さあ、私と踊ってくださいな、メ……じゃなくて、セシリア様」


(きゃああああああああああああああああああああ!)


 返事をする間もなく、メロディはルシアナに引っ張られ、レクトから引き離されてしまった。というか、もはやどこにいるのかも把握できない。


「えーと、私達も踊りますか? レクティアス殿……」


「……あ、ああ、そうです、ね。踊っていれば見つかるかもしれませんし」


「はぁ、私が女性パートで構いませんよ」


「助かります。さすがに女性パートは踊り方を知りませんので」


 あまりに突然な出来事についていけなかった美男子二人は、手に手を取ってダンスを始めた。


(ま、まあ、仮にも主従なんだし、無碍にされたりはしないだろう……)


 実はルシアナ、メロディの手を取る瞬間、レクトをギロリと睨みつけていた。

 その覇気はレクトを怯ませるには十分であった。

 レクトの恋心は、燃え盛るにはまだ時間が足りないらしい。



◆◆◆



「『同性カップルダンス』って確か、ヒロインが誰と踊るかで今後のストーリーが変わっていくってイベントだよな?」


「そうよ、例えば入学式で知り合った友人達と踊れば友情パラメーターが上がって彼女達からの支援が増えるし、悪役令嬢の私と踊ればライバルパラメーターが下がるから難易度が落ちたりするの。どんな風にゲームを進めたいかで踊る相手を選ぶのがミソよ」


「んで、ついでに流れる男性ペアに腐ったお姉さま方が萌えまくっていると……」


「ヒロインが選んだ相手によって男性ペアも変わって、それぞれにスチルがあるんだもの。おかげでこのゲームの腐った二次創作って結構人気だったのよね。私はあんまり興味ないけどマククリっていうジャンルがなかなか人気で……」


「クリって何! クリって誰!? 違うよね、違うよね!?」


「私はレクト様が出るならレククリでも我慢してあげなくもないわよ?」


「やめてくれえええええええええええええ!」


 本気で嫌がるクリストファーを見ながら楽し気に語るアンネマリーであった。


 まさか今、ダンスホールではレクマク風味のダンスが繰り広げられているとも知らずに。


 接待ダンスに明け暮れ疲れ切っていた二人はスケジュールを若干勘違いし、『同性カップルダンス』イベントに遅れてしまっているという事実に、まだ気が付いてはいなかった。

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