第1話 メイドを目指していた少女

「おかえりなさいませ、旦那様」


 シックな木製のドアを開けて中に入ってきた紳士に、一人の少女が恭しく腰を曲げた。

 少女は仕立ての良い黒いドレス、フリルや刺繍が施されつつも華美でない純白のエプロンを身に着け、丁寧に編み込みまとめられた黒髪の上に、可愛らしいレースのキャップを被っていた。


 どこからどう見ても、主人の帰りを迎えるメイドの姿である。


「ああ、ただいま」


 紳士は傅くメイドに帽子とコートを預けながら優しい口調でそう言った。


「すぐにお茶のご用意をさせていただきます。銘柄はいかが致しましょうか?」


「では、アールグレイを頼む」


「ミルクなどはお付けいたしますか?」


「いや、不要だ」


「畏まりました。お茶請けはどう致しましょうか?」


「ふむ、君に任せよう。頼めるかい?」


 紳士の言葉に対し、メイドの少女はふわりと笑みを浮かべた。まだ十五、六歳くらいだろうか。あどけない顔をしているが将来が楽しみな可愛らしく、優しい顔立ちの少女だ。


「お任せ下さい。旦那様のお口に合う物をご用意致します」


「ああ、頼むよ」


 メイドの少女は帽子とコートをポールハンガーに掛けると、紳士をテーブルへと案内した。




**********


「では、また出掛けるよ」


「はい、旦那様」


「次に帰ってきた時も、君に迎えてもらえるといいんだが……」


 紳士が少しばかり照れた顔をしてそう告げると、メイドの少女は微笑を浮かべて答えた。


「畏まりました。その旨、家政婦ハウスキーパーに伝えておきます」


「ああ、頼むよ。では……」


「いってらっしゃいませ、旦那様」


 美しいお辞儀を見せる少女に優しく微笑みかけると、紳士はドアを開けてこの場を後にした。

 紳士を見送った後、メイドの少女は家政婦ハウスキーパーのいる部屋へと足を運んだ。

 コンコンとドアをノックすると「どうぞ」と返されたので、少女は部屋の中に入り一礼した。


「失礼致します、ミスアマンダ。只今屋敷を出られた旦那様の件でご報告が……」


 美しい所作に不自然さのない優しい笑顔。まさにメイドの鏡といった様相の少女を見て、家政婦ハウスキーパーの女性、アマンダは眉をひそめる。いや、だって……。






「ねえ、私に対してまでその対応するのやめない? ……律子ちゃん」


 律子と呼ばれたメイドの少女は一瞬目を見開くと、先程までのメイド然とした姿から一転、あどけない少女らしく顔を膨らませて口を尖らせた。


「もう! もう少しメイドを味あわせてくださいよ、亜万田アマンダさん!」


「嫌いなのよね、その名字。日本人なのに何よ、アマンダって……」


「それがいいのに!」


 会員制高級メイド喫茶『貴族のとある日常ノーブルズワンデイ』。


 完全予約制で、店を訪れると指名したメイドが迎えてくれる。その時点で店員は完璧にメイドを演じ、客も客としてではなくメイドの主人としての行動を義務付けられ、それを楽しむ。

 支払いは前払い制で、店でお金の話は一切しない。メニューもなく、注文はメイドが自然な形で受けてくれる。客はただ、ひとときの主人気分を楽しむだけでいいのだ。

 家政婦ハウスキーパーと呼ばれる女性、亜万田凪沙あまんだなぎさが作った店である。


「それはそうと律子ちゃん。この前いらした坂上様の奥様が律子ちゃんのことを相当気に入っていたわよ。この前戴いたメールで絶賛していたわ。次もお願いねだって」


「え、本当ですか!? 先週いらした優しそうな方ですよね」


「次はお友達も呼んでテラスでお茶会がしたいそうよ。誰かフォローもつけるからお願いね」


「はい、お任せ下さい!」


 このメイド喫茶に来る客は何も男性だけではない。この店では客の男女比はほぼ半々なのだ。

 男性はスーツ、女性はドレスを着ることがドレスコードになっている。特に女性客のために貸衣装のサービスも行っているので、女性客は普段着る機会のない貴族のお嬢様、奥様風のドレスを身に纏って女主人を演じることもこの店の楽しみのひとつであった。


「だったら、衣装の用意やお化粧のお手伝いもしていいですか?」


「あなたって好きよね、そういう仕事も。そうなると早朝から準備しないとダメね。今度希望を聞いてみるわ」


「お願いします!」


 メイドの少女、律子は満面の笑みでそう答えた。


 彼女の名前は瑞波律子みずなみりつこ、二十歳。大学二年生だ。

 二十歳というには少々幼い顔立ちをしている彼女はこの店の人気ナンバーワンメイドだ。

 英国への海外留学を目指して大学に入った律子は、留学資金を貯めるためにアルバイトを探していた。どうせなら将来に役に立つものがいいと考えた律子が見つけた先がこのメイド喫茶だった。


 律子の夢はメイドになること。理由は至って単純で、幼い頃に見た映画がきっかけだった。


 タイトルは『深窓の姫君の悲恋』。


 昔の英国貴族の話を題材した映画だ。蝶よ花よと育てられた箱入り娘の貴族令嬢が、偶然知り合った平民の青年と恋に落ちる物語。最終的に、身分の差故に二人が心中してしまうバッドエンド。

 この映画を見た観客達は二人の悲恋に涙し、感動したと言い合っていた。


 しかし、律子だけは違うところに感動していた。


(お姫様の後ろにいるメイドさん達って、なんて優秀なの!?)


 ヒロインの貴族令嬢はその人柄もあって仕えているメイド達にも大層慕われていた。

 メイド達はあの手この手を使って令嬢と男の逢瀬を支援するのだ。

 勿論、主役はヒロインなのでメイドが奮闘するシーンなど映画では描かれていない。だが、だからこそ、律子はヒロインの裏で彼女を支援する健気なメイド達に心打たれてしまった。


 瑞波律子。恋など知らない六歳の春のことだった……。六歳が悲恋映画って……は置いといて。


 それ以来、律子はメイドに夢中になった。両親にも如何にメイドが素晴らしい存在であるのか語り、自分もいつかメイドになるんだと、興奮気味に宣言した。

 両親はその姿をとても嬉しそうに見つめていた。


 生まれて六年。律子はすくすくと成長していたが、あまり物事に執着しない性格だった。特に好きな玩具も本もなく、テレビを見ても必要以上に興味を示さない。

 それを心配していた両親にとって、当時の律子の様子は喜ばしいもの以外の何者でもなかった。


 メイドをきっかけに、律子はいろいろな物に興味を示し、遊び、笑い、勉強して、とても優秀な娘へと成長していく。メイドに出会って以来、好奇心が留まるところを知らないせいか年齢の割に幼い性格なのは気になるが、両親にとってもメイドという存在は好感の持てる物になっていた。


「私、大学を卒業したら英国で本物のメイドになるわ!」


 だから、娘が言った突拍子もないこの宣言にも全く反対しなかった。

 メイドになることを両親に賛成してもらい、そのために大学で外国語や歴史、文学、礼儀作法などを学びながら、本格派メイド喫茶でメイド修行の毎日。

 高給取りなアルバイトのおかげで留学費用も順調に貯まり、留学は目前。

 まさに順風満帆。メイドへの道はもうあと一息!









「……だったはずなんだけどなあ」


「どうかしたの? セレスティ?」


 一人の少女がポツリと呟いた。簡素な青色のワンピースを身に纏う少女。胸のあたりまで伸びた輝く銀の髪。神秘的な瑠璃色の瞳を持つ美しく可愛らしい少女が母親の隣に佇んでいた。


「ううん、何でもないわ。お母さん」


 対する母親は腰まで長いブラウンの髪と、少女と同じ瑠璃色の瞳を持った美しい女性だった。少女が大人になればおそらく彼女のような顔立ちになることだろう。

 首を振る娘を見てニコリと微笑んだ彼女は、眼前の屋台での買い物を終えると娘の手を取った。


「そう? じゃあ家に帰りましょうか」


「はーい! じゃあね、トマさん」


「おう、ありがとな。セレナさん、セレスティちゃん。また来てくれな!」


 八百屋のトマさんに手を振ってセレスティとセレナは帰路についた。



 セレスティ・マクマーデン、六歳。彼女はこの日、前世の記憶を思い出した。

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