第6話:急変

 たった1つの自然災害から、事態は大きく変わろうとしていた。


 頬を伝う一筋の水。イズルは空を見上げ、雨が降り始めたことを悟る。

 だが、シズリはそんなこと気にしていない。長の言葉を聞いた彼は思わずリーハの方へ1、2歩出て彼女に考えを改めるよう説得していた。


「失礼ながら、長。今回の件は確かに自然による災いであり、天によるものだと言えます。えっと……しかし、それは彼女のせいではなく、仕方ないことで、それは……その判断は些か早計ではないでしょうか。もっと他に考えることがあるのではないでしょうか」


 とにかく思い浮かぶ言葉で伝える彼にリーハはゆっくりと首を振った。


「我らは常に天と共に生き続けた。家々の木は海から流れゆくものを、料理の幾つかは大地に生まれし生命を、そして飲み水は空に降りし水を。これは全て天に与えられし祝福であり、生きゆく術でもある。これからもそれは変わることはないでしょう」

「な、なら天の怒りと考えずに今回の件を祝福と思えば……」

「リディアの言い伝えにこうある。地を揺るがす天の災い。それすなわち我らリディアの存亡をかけるほどの天の怒り。過去より贄を差し出し、怒りを鎮めなければ何度も起こった大きな災いである」

「そんな……。何でミウがその贄になってしまうのですか!」

「舞姫は天に最も接する近しき人の子である」

「……ッ!」


 舞姫がどんな役割を担っているか彼だって十分に理解していた。そのためにあり得る犠牲も、宿命も彼女から聞いている。

 しかしそれよりも、彼は舞姫としてのミウではなくリディアに住む1人のミウとして考えていた。皆から寵愛を受け、外へ憧れを抱きながら、ここの掟で出ることが許されない1人の少女。彼にとってそれ以上でも、それ以下でもないのだ。


 だからこそ理解が出来ない。彼女は何も悪いわけではないのに、リディアのためにたった1人犠牲になろうとする事実がシズリの中で気持ちとなって、声となって叫びたくなるのだ。

 雨は少しだけ強くなる。風も吹き始めてきた。しかし彼の身体は火照るほど熱く、声を出せば白い息が出ている。


「どうして、彼女が……!」

「シズリさん……」


 首飾りに触れる彼女は滴る髪を拭うことなく、真っ直ぐシズリを見つめている。

 だが彼はそれを見ることなく、周りに訴えるようになっていた。


「彼女の想いを知ってるでしょう!? それなのに、ここの人たちにとって、彼女は――――」


 腕を強く握られてそれ以上の言葉が続かない。そんなことをして、暴走気味な行動を諌めるものは今いる人たちの中では1人しかいないだろう。


「それ以上はやめろ」


 兄もまた思うところがあるのだろう。

 しかし顔を歪ませながらも、こみ上げてくる何かを抑えつけて自制していた。彼は弟と皆のために冷静さを保ちながら、弟を諭す。


「でも兄貴、これじゃあ!」

「シズ!! ……お前何か勘違いしてないか?」

「何が? 何を勘違いしてるってのさ!」

「俺たちより辛い人が、目の前にいるだろうが」


 兄から叱咤に近い正論をぶつけられて、少しだけシズリは冷静さを取り戻した。リーハは目を瞑ってその表情を悟らせないよう努めていたが、その口元は微かに震えている。

 それを見た彼は言いたかった言葉が霧散し、火照った身体も冷める。「でも……」、そう何度も呟くことが、彼に出来た精いっぱいの反抗であった。


「ありがとうございます、シズリさん。最後までお世話が出来ずすいません。渡り屋としてのご活躍を祈っています」

「え……」

「おばあさま。行きましょう」


 彼女は多くを語らずにシズリ達のもとから離れた。恐らく誰に話し掛けられても振り向くことはないだろう。淀みのない足取りで彼女は真っ直ぐ手漕ぎの船へと向かうのであった。

 イズルはシズリの様子を伺う。何もせずただ立ち尽くす弟の姿にこれからのことを予想していた。


「イズル殿とシズリ殿は家で休んでおいてください。その間に他の者を連れ、沈天の儀を行います」

「……分かりました」


 イズルが答え、とりあえずこの場で話し合いは終了した。

 一息ついた後、リーハは杖を使いながら立ち上がり、一部の者を引き連れてミウが乗っている船へと向かう。そのうちの何人かは黙ったままのシズリを心配そうに見つめるも、声を掛けることが出来ず、結局は見てみぬふりでその場を後にしていた。

 必要な人数を乗せ、船はゆっくりと動き出す。向かう先は集落から離れ、暗き大海原の中へ。松明の灯りだけが彼らの場所を示し、2人は消えるまでその灯りを追っていた。

 それらを終え、イズルに肩を叩かれたシズリはミウが先ほどまで踊っていた場所を一瞥したのちに、彼女とは逆側に着けられていた船に乗りこもうとする。


 その間、彼の答えは沈黙しかない。それが自分を諌める一番の方法だからだ。

 恐らく渡り屋として絶対に避けては通れない出来事の1つだろう。だが、シズリにとってあまりにも重すぎた出来事であった。


 イズルもまた弟のその姿を見て歯がゆい思いでいた。誰だって、こんな型式だけの犠牲を喜ぶことなど出来はしないのだから。

 こういう時に弟に対してどんな言葉を掛けるべきなのか、渡り屋としての言葉をイズルは知らない。ただ出来ることは兄としての自分であり、シズリの背中を叩いてやることだけであった。


「まずは雨風凌げる場所に行こうぜ。風邪引いちまったら元も子もないだろ?」

「……そう、だね」


 イズルはオールを持って隣の建物へ向けて漕ぎ出す。灯りもないために暗く、先の見えない世界。雲によって月明りも遮られているいま、頼りになるのは建物上の家から発する火鉢の灯りのみである。


 それを目印に進む中で、彼は上空を睨んだ。それは若干波が荒れてきたことと、雨はまだ小雨の範疇でありながら、風が以前よりも強くなりつつある。

 そして何より磯の匂いだけではない、雨の匂いも強まっているのが今までと違う。彼の胸中は穏やかではなかった。


「天候が荒れなきゃいいが……」


 シズリには聞こえないように注意しながらそう呟く。移動には注意しながら漕いでいき、横に着岸させて2人はお世話になっていた家にたどり着いた。家内は火鉢で温められていて、雨に打たれていた2人に温もりを与える。しかし2人に笑顔を生み出すまでには至らないようだ。


 濡れた服を脱ぎ、身体を拭いて、そしてミウから前もって渡されていたローブに袖を通す。ここまでしてようやく、2人の中で余裕が生まれた気がした。

 2人は火鉢を中心に、挟み合うような形で座る。何かを話すためではないが、とりあえず今すぐに横になり寝るという考えは出来なかったからだ。

 胡坐で座るイズルは火鉢の近くに置いていた薪を焼べる。パチリと音を立てるのを聞きながら、彼は外の音に耳を傾けた。


「風、強くなってきたな」

「……」

「このままであれば問題ないが、明日になって酷くなると、こりゃあ旅立つのも難しいな」

「……さっきはごめん。兄貴」


 体育座りのシズリは腕に顔を埋めながら、ぼそりと言った。


「ったく、なんだよ。色々ありすぎてどれか分からないぞ」

「もう少し状況を読まなきゃいけなかった……」

「まあそうだな。渡り屋として深く干渉するのはご法度だ。親父がいたらお前の顔はいまごろパンパンに腫れてたぞ」

「兄貴は何もしないの?」

「そんなことしてもお前が改心しないのは知ってるからな。それに、昼間銛を投げすぎて腕上がらねえ」


 シズリはそこで顔を上げる。イズルが大きく肩を回しているのを見て、そして熱気で揺らめく火鉢の上空を眺めた。


「はあ、切り替えるべきなんだろうなあ」

「そう言ってる間は切り替えられないぞ。慣れろとまでは言わないが」

「……これから、ミウはどうなるかな」

「贄とか儀式とか言ってたからな。それ用の場所へ連れていかれた、ぐらいか?」

「そうだとして。集落のみんなは、これで安心できると思えないよ」

「さあな。少なくとも何も起こらなくなる、と信じていそうだ。何せ掟が大切な場所で、かつ天への信仰が厚い集落と見えるからな」


 彼らがしきりに天という言葉を使い、信仰心が強い民であることにイズルは気づいていた。

 特に舞姫を先祖代々受け継ぐ話。これは確かによくある話ではあるが、集落1つがずっと抱え込むことは例が少ない。外の世界で舞姫とは常にいくつかの集落や村、街を渡り歩いていくものである。何かあるとイズルは考えていたのだ。

 それがこの事態を招いたということだ。彼らが常に自然の驚異にある海上集落で住むということから、仕方ない話ともいえる。


「俺には考えられそうにないよ……」


 シズリの尻すぼむ言葉を聞いてイズルは薪を掴んで、何度か弟の腕を軽く叩く。


「とにかく寝ようぜ。今は色々ありすぎて俺たちも疲れてる」

「……うん」

「分かってるだろうが、明日天候が落ち着いたら出発するぞ」


 イズルはシズリの反応を待つ前に彼から背を向けて横になる。シズリが何も答えない、それでもイズルは寝返りを打つことはなかった。

 静かになると一層風の音が聞こえる。雨が屋根に当たる音を聞きながら、シズリは暖簾から垣間見える外を眺めた。そしてどこかへ行っただろう、暗い海の向こうを眺める。


「これが、渡り屋の仕事か……」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいた言葉はあまりにも力のないものであった。

 昔のことを思い出す。父がどうして渡り屋となったか尋ねた、幼き頃を。

 胡坐を掻いていた父は、膝の上に座っていたシズリの頭をくしゃりと撫で、そんな質問に歯を出して笑ってみせた。


『父さんはな。大事な遺品や遺構が沈んでしまって手遅れになる前にそいつらを救い出したい。そう思って渡り屋の仕事を続けているんだよ』


 手遅れになる。今の自分の言葉にぴったりだと思った。


 だが人生経験の浅い彼はそこから先が進めない。どう理屈を込めようと、どう言い訳を考えようとしても、結局自分は部外者でしかないと考えさせられる。

 悲しき事実が彼らしさを捨て去ろうとしていた。


「あーもう!!」


 何度考えてもたどり着く答えは……自分が理解しなければならないということだ。

 ゆっくりと瞼を閉じて父のあの表情を思い出す。そこにあったのは子供のようで、揺らぎのない笑顔であった。

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