サンクスレス
九太郎
第一話
さあ本当に私には危機感というものが欠けているのか、それともこれは危機というべき状況じゃないと私のどこかがそう確信しているのか、どちらが正しいのか私にはよくわからないけれど、多分このままじゃ駄目だ。「ありがとうございます」が言えなくなった。
お礼が言えないわけではない。その単語が言えなくなってしまったのだ。私はデパートで新しい口紅を売る仕事をしている。お客様は新しいものに目がない方ばかりで、私が選ぶ珊瑚色の口紅を好んで買っていく。口紅を売る仕事は楽しい。楽しかった。私は唇が性器だという説を強く信じているし、実際そうであって欲しいと願っている。女としての華を枯れさせないために女たちは唇を染める。かさかさに乾いていたり、紫に変色した唇は性器としての魅力がなくセックスアピールになりえない。だから人は唇を染める。潤いを保たせる。健康な性器としての役割を顔面上に持たせることで男の意識を奪う。それに、赤は守りの色だ。赤は邪なものを払う力がある。嬰児のことを「赤ん坊」と呼ぶように、赤は邪悪を遠ざける。だから私はこの仕事が好きだ。
ところがある日「ありがとうございます」というその台詞がどうしても言えなくなった。正直に告白してしまうと、そういうきらいは元々あった。私は購入されたお客様に頭を下げてお礼を言う。だんだんそういうことが義務的になっていて、そこに気持ちなんてなかった。ただその感情を意識したことはなかった。やたら喉が詰まるな、とか、噛むな、とかそういうことには気付いていたような気がする。本当に言えなくなるとは思っていなかったし考えたこともなかった。
実際言おうと思うと、喉がつまり、出てこない。「あ」が出てこないし、「り」も出てこない。まるでその単語が私の中から見事に欠落してしまったようだ。私の中に無いものを私の中から出すことなどできない。だから私は頭を下げて、小さな声で誤魔化したが、そんなことが長く続くはずもなく、主任に見つかってしまい、怒られた。事情を説明してみなさい、と五十を越して桃色に唇を染めたこの人は言うけれど、私の話を全然信用していない。まあ、そういうことなら少しお休みでもとって落ち着いたら?と人が良いのか最終的にはそういう指示を出してくれる。ありがとうございます、と私は言って、ハッとする。あれ、言えた。今言えた。言ったね。うん。主任も不思議な顔をする。言えるじゃない。本当ですね。嘘ついたの?ついてません。疲れてるの?疲れてません。仕事できる?できます。
できなかった。
私はお客様が相手となるとどうにも「ありがとうございます」が言えなくなるようで、その原因はわからなくて、主任にはただの礼儀知らずだの社会人失格だのと言われ、同僚からは困った子扱いされ、そういう全てが面倒になって、私は退職する。退職した足で病院に行ったが、体のどこにも異常はなく、精神科に回されたが、精神科では心因的な、要は「ありがとうございます」に対してプレッシャーがあるのだろう、と言うありきたりな診断を下される。
「言おう。言おうと思っているから余計その気持ちが言えなくしているんだろうね。だから逆に、そう、友達や、その主任に言うような気持ちで、気を楽にしてごくごく自然に言ってみるよう心がけてみなさい。今言える? ほら、言えた。大丈夫。気にしてはいけませんよ。とりあえず一週間ほど様子を見ましょう。大丈夫。すぐ言えるようになりますよ」
診察が終わり、私はその医者に「ありがとうございます」と言おうとしたが、言えなかった。
家に帰ると胡蝶が私を迎えてくれる。胡蝶は大学の時友達になった女の子だ。就職先がお互い近かったため、ルームシェアを始めたのだ。胡蝶はリビングに置かれたソファに座って足を組んでテレビを見ていた。ソファは私が実家から持ってきたもので、テレビは胡蝶が購入したものだ。私は胡蝶の横に座り、仕事を辞めたことを伝える。ああそうなの。と胡蝶はごく自然に言う。今日の帰り、石に躓いてこけたよ、と言っても彼女は同じように、ああそう、と言うだろう。胡蝶は肩にかかるほどの長さの髪を根元から掻き上げて、「それでなんで?」と言った。
「胡蝶、私のために何かして」
胡蝶はゆっくりとソファから立ち上がりキッチンスペースに向かう。私は大型テレビに映された、外国のアイドルグループが足並みを綺麗に揃えて歌う流行りの歌を見詰めている。訓練されたその動きと計算されたダンスは見るものを夢中にさせるのだろうか。私はじっと見ていて、お客の歓声を聞いて、何だか気持ちが悪くなる。
胡蝶は私のために紅茶を淹れてくれた。カットしたレモンを添えてくれた。私は胡蝶に向かって「ありがとうございマス」と言った。固くなってしまった。やはり上手くいかないな。
胡蝶は私が喉を撫でるのを見て、「変だね」と言う。喉を撫でるのは誤魔化しだ。喉に異常はなくて、異常なのは「ありがとうございます」が言えないことなのだ。言葉はかたちを持たないし持たせてはくれない。実存は見えない。私は胡蝶にありのままの話をする。その単語が言えなくなり、でも普通に言える時もあり、結果として退職することになった。そう伝えた。
「いいんじゃない?」胡蝶はそう言ってテレビのチャンネルを変える。「だって働けないんだし、別に無理することないじゃん」
「そうなの?」
「そうかも」
それだけ言って胡蝶は黙った。私も黙った。テレビでは一月後の皆既月食の話をしていた。
翌日、胡蝶は仕事を辞めた。
胡蝶は着物を専門に取り扱うネットショッピングの会社の総務部に属していたのだが、翌日の夕方、彼女にとってまだ仕事中という時間にふらりと帰って来たと思ったら仕事を辞めていた。胡蝶は肩の荷がおりたような表情を作っていたが、私も胡蝶もまだ二年しか働いていないからまだまだ重要なポストを与えられるような人間ではなくて、それは胡蝶なりの社会人としてのポーズだったのだろうと思う。胡蝶はたまにはお酒でも飲もうよ。と言う。私は頷いて、二人で夕方からお酒を買いに行く。
一番近くのスーパーまで並んで歩いていると、普段通らない時間だから色々なものが違って見えるようになっている。食事の匂いのする家がある。子供が走る道がある。自転車をゆっくりと漕ぐお爺さんがいる。たくさんの切り取られた生活が重なりあって街がある。
猛然と、私は無職だ!と感じる。一度そう感じてしまうと、例えば今前から歩いてくる作業服を着た茶髪のお兄さんの頭の上に20という数字が具現化されているよう見える。多分あの人は土木作業員かそういった仕事の人で、だいたい月に20万円ぐらい稼いでいるのだろう。次に太った主婦然としたおばさんがいて、あの人は多分普段はパートをしていてだいたい9万円ぐらい稼いでいるのだろう。そういう風に具体的な数字は見えなくて、それぞれの大人たちがそれなりの稼ぎを持って、地に足をつけた生活を送っていて、こんな不安定な私はどうするのだろうと真面目に考えているのだが結局のところよくわからない。わからなくていいと思う。答えなんてない。ただ将来このまま一生「ありがとうございます」が言えないままだったら私は接客業なんてできないだろうし、それこそたった一人の人相手の仕事でさえできないままだろうな。なんて。
私はちょっとだけ怖くなって胡蝶の手を握る。胡蝶は「ん」と言って握り返してくれる。私はそれに安心して考え続ける。誰だって将来は怖いはずで、より安定した足場やより強い外壁を求めているはずだ。死ぬ時はみんな一緒。と言ってもできるだけ柔らかいベッドや、温かな家族に見守られて死にたいとかそういう望みはあるのだろうな。当たり前だ。少なくとも普通に生活する分にはそういう結末を迎える人は多いだろう。そういう普通のレールから一度外れてしまうと、元のレールに戻るのは難しい。普通は案外普通じゃない。大多数が正しいと思ったことこそ正しいものになるのと一緒だ。私は「ありがとうございます」が言えないけれど、生きていたいなと思う。でもそういった不安定さを許容できるほど私は強くない。欠落を許さないのは結局自分自身で、私は大多数が賛成した意見に乗っかって生きることしかできないんじゃないのか?
そうだから、欠落したとも考えられるけど。
スーパーで白菜4分の1カットと長ネギとエノキともやしと豚バラ肉と鶏のモモ肉とウインナーとトマト鍋のスープと調理用のとろけるチーズとエビスの6缶パックとチューハイを2本とファンタオレンジ1,5リットルとラーククラシックを買う。私は一万円札しか持っていなかったから、胡蝶を押しのけて支払いを済ませようとしたけれど、お釣りを貰って、向こうに「ありがとうございます」を言おうとした時、喉が詰まるような音しか出なくて不思議な顔をされて少ししょげる。胡蝶が「ありがとう」と言って私も頭を下げる。二人で交互に食材を自分の袋にいれてゆく。スーパーのポイントが20ポイント追加されている。
ご飯を炊いて食材を全て半分ずつ使用して鍋を作って、ガスコンロを取り出して胡蝶は火を点ける。胡蝶は食事の前に煙草を吸う。ベランダから戻ってくるとまだ沸騰していない鍋の中に全部の食材を入れて蓋をずらして後は放置する。適当な作り方だ。そうやってる間にエビスの蓋を開けて、私も開けて乾杯をして呑み始める。
「胡蝶次の仕事考えてるの?」
「なんも」
「なんも?」
「なんも」
「なんも……」
「働くの嫌いだし」
「結婚しないの?」
「わかんない」
「暁は?」
「普通な感じだからね。普通は怖いよ。暁は普通過ぎて正しいから怖い」
暁は胡蝶の恋人だ。四つ歳上の会社員で、それなりのポストにつくようになって、一般よりも高めのお給料を貰っていて、上司から信頼されていて部下には尊敬されている。とてもカッコイイ大人だ。胡蝶も美人だし、二人が並ぶと画になる。
「普通は怖いの?」
「普通は普通じゃないものを見下したり、嫌ったりするからな。普通じゃないものは普通じゃないだけで、異常にも特別にもならないんじゃないのかな。生まれて、育って、学んで、恋して、働いて、子供産んで、育てて、見送って、死ぬ。そういうのものって、人によって異なることが許されている、って風潮を許さない奴らが作ってて、結局許さないんじゃないかな」
「よくわかんない」
「あたしもわかってないよ。酒呑んでるし」
そこでお鍋の隙間からぷくぷくスープが泡となって溢れ出す。私は蓋を持ち上げて、沈み切っていない具材をぐいぐい菜箸で押し込んだ。沸騰するトマトスープ。紅蓮だ。地獄の血の池地獄みたいな、赤。
「暁」
「え?」
「電話。暁」
胡蝶は携帯を取り、耳に押し当てる。もしもし。うん。家。早いね。仕事。うん。ああ、そうなの。うん。平気だよ。うん。こっちくるの?待って。
「暁こっち来たいって。いい?」
「いいよ」
胡蝶は携帯に向かって「いいよ」と言う。そのまままた「うん」と言って携帯を切った。
「暁仕事クビになったみたい」
「なんで?」
「上司のミス押し付けられたんだって」
私は思わず、レールから外れて横転する貨物列車を想像する。その列車にはたくさんの石炭が積んであって、こけてしまったせいで石炭はごろごろとのどかな野原に転がり落ちてしまう。列車は自分で意思を持っていたけれど、手がないし、誰か人に頼って荷物を積み直してもらうしかない。それどころか、自分で自分を起こすこともできず、野原に倒れ続ける。その列車の近くでは呑気に鹿が歩いていたり、リスが木の実を齧っていたり、白い雲のが山の谷間に消えていく。このままでは列車は次にくる列車の邪魔になるのというのに。呑気な空気がそれを濁している。
私がその妄想を胡蝶に伝えると、胡蝶は「ハイジみたいな?」と言う。そうそう、ハイジみたいな、そういう野原。高原。
暁はそれから二時間ほどしてスーツにコートでやってくる。仕事帰りみたいだ。私と胡蝶に向かってお邪魔しますと頭を下げる。胡蝶は随分赤くなった顔でビールを飲みながら手を上げる。私も手を上げる。
「参った。クビになった」
暁はコートを脱いで丸めて部屋の隅に置き、その上に手袋を投げマフラーを投げ、ネクタイを緩めてからジャケットを脱いだ。俺も貰うよ、と言って冷蔵庫からエビスを出したが、胡蝶に「参加費」と言われ、何故か二千円札を机に置いた。
「懐かしいだろう。同僚に貰ったんだ。いきなりすぎて何も用意できないけど、これって。いらねぇよって思うけどな」
「懐かしいね」
「うん。懐かしい」
私は胡蝶の言葉に同意する。
「私も仕事辞めましたよ」
「え、マジで。じゃあ働いてるの胡蝶だけ?」
「アタシも辞めたよ。今日」
「嘘、マジか」
マジかよ。と言って暁は急に萎み出す。小さな穴が開いた風船みたいにしゅるるるとしぼんでパンと消えてしまそうだ。まあいいじゃんそんなこと。という風に暁はならないのだ。これからどうしよう、とかこの不況に、とかそういうことばかりを考えてしまうのだろう。今日明るく登場したのだって、きっとそういう状況に不安だったり、理不尽な理由で職と社会的な地位を失った憤りを隠すためで、ついでに働く胡蝶に寄生してしばらくは何とか安定しようと考えていたのだろう。ということを暁が酔い潰れてから胡蝶に聞いて、なるほどーと言った。本当かどうかわからないけど。
無職が三人寄れば文殊の知恵。という冗談を思いついて口に出して笑う。
暁はそのまま胡蝶と私が住むマンションに居ついてしまう。毎日三人それぞれが適当な時間に起きて適当にご飯を作ったりコンビニで何か買ったり河原でぼんやりしたり少し高い服を買ったりして気ままに過ごすが、だんだん暁の様子が変になる。私は相変わらず「ありがとうございます」が上手く言えないままなのに、暁まで変にならないで欲しい。
暁は最初ハローワークに行ったり働いている友達に連絡を取ったりしていたのに、急に何もしなくなった。多分暁の前の職場よりいい条件のところがなくて、暁のプライドがそれを許さないのだ。なんとかなるよ。が口癖になったのに、お昼から酒を飲んで、吸えない煙草を吸うようになって、前は絶対朝と夜に髭を剃っていたのに伸びっぱなしになった。何より胡蝶には泣きながら抱きついて甘えるのに、私にも何だか甘えてきて、キスしてきたりした。
私は暁より胡蝶のほうがはっきりと大切だったし、そういうことをする暁を許せなかった。というか、たかだか仕事がないくらいで自暴自棄になるその気持ちが理解出来なかったし、彼の弱さを救ってやる義理は私に無かった。だけどこのまま統合失調症にでもなったらどうしようと思うほど彼の躁鬱はひどくなっていったので、言うにも言えずの日々が続いていた。
ある日の夕方暁が河原に行こうというので私はついていった。胡蝶は朝から図書館に出かけていた。最近の胡蝶は朝から図書館で本を読むのに夢中になっていて、時々分厚い本やドラえもんを借りて来てリビングで読んでいる。私は文字を読むことがあまり得意じゃないから、胡蝶に頼んでうちと図書館の間にあるレンタルショップで映画を借りて来てもらう。河原は、真逆だ。
暁は大きな荷物を抱えていて、それは何?と訊いても教えてくれなかった。河原は広いし、冬だから殆ど誰もいないしで、風景的にも肉体的にも寒かった。暁は髭が生えて胡乱な目でのそのそ歩いていて、私はその散歩後ろをついていた。このまま死のうって言われたらどうしよう、このまま草むらの中でレイプされたらどうしよう、と考えていて、とりあえず「ありがとうございます」って言ってみよう。そうすればきっと気が狂ったと思って許してくれそうな気がするし、実際言えたら私の病気が治ったということで、勇気が出そうだ。言えなくてもそれは、私だ。
とある橋の下につくと暁は「ここでいいや」と言った。大きな鞄を開けるとその中からスーツを取り出した。仕事をクビになった日にきていたやつだ。暁は「ねえちょっと手伝ってよ」と言う。何だか枯れ枝とか葉っぱを集めて、投げ捨てたスーツにかけている。
燃やす気だ。
暁は自分のスーツを燃やそうとしている。ヤバい。この人、馬鹿だ。そんなことしても何も変わらない。社会からは逃れられないし、会社への復讐にもならない。自己満足以下だ。何よりの証拠に私を連れて来て、自分以外の第三者の視点も確保している。そういう浅はかさだ。かっこつけなのだ。そんなことしても意味ないのに。意味がありそうなことをしてとりあえず前進した気になりたいんだ。前進どころか後退しそうなぐらいなのに!
私はとりあえず胡蝶に電話をかける。しばらく待って――多分図書館から外に出てる――胡蝶は電話に出る。あ、胡蝶?
「ヤバいよ。暁自分のスーツ燃やそうとしてる」
「え本当に?」
「うん。河原の上流のほう」
「わかった。食い止めてて」
食い止める?
それが正しいの?
とにかく、私は暁に「駄目だよ」「待って」「落ち着こう?」「考えてみてよ」「周りが見えてないよ」と色々言って宥める。ライターを取り上げてしまう。暁は「もう俺なんて駄目なんだ」「死にたい」「先が見えないんだ」「どうしていいかわからない」などのことを言って泣き始める。そんな大層な。
私が暁を慰めていると、オイルが切れたせいで甲高い音を立てて自転車が止まる、気配がする。胡蝶がいる。胡蝶は息を切らせている。余程急いだのだろうか。その背中には大きなリュックを背負っている?
「あ、間に合った」
「胡蝶、暁が……」
私の言葉を無視して胡蝶はリュックをおろした。いやいや、間に合いましたなぁ。と呑気な声をあげて、ずんずん川の方に進む。すると大きな石を一つ抱えて、暁の棄てたスーツの周りに一つどかんと置いた。呆然としている私と暁を無視してその動作を何度か繰り返してスーツを囲んでしまう。
「はいはい、アンタらも手伝う」
胡蝶はそのまま草むらに消えて、小枝やら葉っぱを拾ってくる。河原を抜けて近くの林から太めの枝も拾ってきた。それらを、空間を潰さないよう上手く組み合わせていく。勿論スーツの上で。リュックの中から百円均一ショップで買っただろう石炭をほいほい放りこんで、ためらうことなく火を点けた。ああ、暁のスーツが。暁がぎゃあと悲鳴を上げるがお構いなしに、次はその上に網を置いた。トングを取り出し、スーパーで買った焼き肉用の肉を取り出し、お野菜を取り出した。
バーベキューになってしまった。
ポリエステルがばんばん使われている暁のスーツを燃やして焼いたお肉なんて食べたくない。ウールであってもカシミアであっても同じだ。明らかに体を悪くする臭いがあたりに漂い始める。でも胡蝶の買ってきたお肉はいいやつらしく美味しそうだし、実際食べるととても美味しい。美味しい……。とっても美味しい。
気付けば私は紙の皿にお肉や野菜を取り分けてもぐもぐ食べている。胡蝶はビールを取り出して呑み始める。泣いていた暁も無言で食べている。途中で胡蝶は「邪魔だな」と言って火の中から焼け焦げたスーツを引っ張りだして捨ててしまう。スーツにはもう見えない。ゴミの形状をしたスミのような、そんなボロ切れが河原の隅で煙を伸ばす。橋の裏側を通る組み込まれたパイプの中に煙は消えていく。
「やっぱバーベキューだわ」
と胡蝶が言う。暁はまた泣きだす。私はビールを貰う。空を見ると、夜は晴れそうだなとなんとなく思う。
その日の夜、21時45分頃から皆既月食が始まるというニュースを20時過ぎのテレビ番組が言っていた。私はお風呂上がりで良い気分だったし、胡蝶はストレッチを続けていた。暁は部屋に閉じこもっていた。皆既日食も皆既月食もなんとなくイメージできるけれど、見たことはなかった。これを逃すともう生きている間の一生は見れないらしい。それとなく胡蝶に見る?と訊いてみると「あぁ~、覚えてたらね」と言う。そうだね。と私も返す。
そうしてすぐに私たちは皆既月食のことを忘れていた。21時から始まる海外のB級映画が胡蝶も私も大好きで、俳優や演出に興味はなかったけどアクションシーンが大好きで、楽しみに待っていたのだ。胡蝶はソファに座ってビールを片手にスタンバイし、私は胡蝶の隣に座って爪を研ぎながら待っていた。映画が始まると二人とも何も喋らずテレビを食い入るように見つめた。
「何してんだよ」
と暁が行ったのは22時30分頃だった。暁は虚ろな目で私たちを見ていた。胡蝶は無視していたので、その声に振り向いたのは私だけだった。
「月食始まってるじゃん。見ないの?」
「でも、映画が……」
「それ何度目の再放送だよ。凄いよ。ベランダから下見てみなよ。みんなこんなに寒いのに外出て月見てるよ。綺麗なんだよ月。晴れてるし」
暁はそう言ってベランダに出ていった。身を乗り出して月を見上げているようだ。そのまま落ちないでね。と思いながら私は映画に視線を戻した。ちょうどそのタイミングでCMが入り、暁の馬鹿、と思う。
「なんか、ゴキブリみたいだね」
胡蝶が言った。
「餌に釣られて、家具の隙間からゴキブリがわらわら出てくる。そういう感じ」
「ひどいなぁ」
「だってここ六階だし、月からすればそういう風に見えると思うよ。こんな寒いのにさ。わざわざ」
CMが終わってしまったので、私は返事ができなかった。
結局、映画が終わっても私と胡蝶は月食を見なくて、暁に「馬鹿だなぁ」と言われる。もう生きてる間は見れないんだよ?なんで見ないの?と怒られてしまい、あまりにしつこかったので胡蝶が怒って空になったビールの缶を暁に投げつけた。
翌日気になった私は皆既月食をキーワードにパソコンで検索をかけてみる。そうするとたくさんの皆既月食の画像が見つかる。みんな見ているのだ。どこもかしこも皆既月食一色だ。まるで見ていることが絶対の正義で価値観を有しているみたいで。そのうちの、何倍にも拡大された皆既月食の画像を見詰めていると、胡蝶が「うーっす」と言って私の部屋に入ってくる。振り向くと、左目を紫に腫らしていて驚く。「暁?」「暁。出て行った」そうなんだ。と思う。
「何それ」
「昨日の月食らしいよ」
「へぇ。汚いな。菌に汚染されてる途中みたい」
確かにそうだ。黄金色の月は赤色の斑模様に染色されているように見える。全然綺麗じゃない。でも赤は邪を払う力を持っているし、セックスアピールにもなる。だからある意味正しいんじゃないだろうか。むしろこういう風にじわじわと染まっていることを月自身は知らないと考えると、怖いかもしれない。それを見て喜ぶたくさんの人も少し怖い。少しのものが集まるとたくさんになる。
「暁、仕事見つかったの?」
「さあ。でも『ここにいると俺は駄目になるんだ』って言ってた」
「駄目になるの?」
「駄目ってなんだよ」
「さー?」
駄目ってなんだ?
私たちは駄目なのか?
その日は胡蝶と手を繋いで近くの河原に散歩に行く。相変わらず冬の河原に人はいなくて、でも水の流れはごうごうと強いもので止まることを知らない。多分これも私が生きている間は一生流れ続けて止まるところなんて見られないんじゃないだろうか。胡蝶に手を引かれて私たちはどんどん歩く。そうしていると、昨晩スーツを燃やしたところについた。まだ橋の下には暁の焼け焦げたスーツが落ちていた。胡蝶はそれを棒の先に引っかけて川の中に捨ててしまった。橋の影になっていたので、スーツはすぐ水の闇に紛れて見えなくなった。流されたのか、引っかかったのか。
帰ろっか。と胡蝶は言う。私は頷く。河原で石に躓いて転んでしまう。いてて、と足を撫でていると、胡蝶が手を差し出した。私は胡蝶の手を握って「ありがとうございます、胡蝶」と言う。あら、言えたなぁと思い笑う。胡蝶も笑う。ここは高原で、石炭がばらまかれているのかなぁと私は胡蝶の手を握り返して思う。
サンクスレス 九太郎 @999_taro
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