第15話
話はとんとん拍子だった。
水野康子は、昨日司法書士の松田兼則と喫茶店で会った後、夜に名刺に書いてあった携帯の電話番号にかけて、北鎌倉の別荘の名義変更を自分にする意思を表明した。
松田は、その後翌日、諸々の手続きの書類があるので、また有楽町の喫茶店で打ち合わせをすることになった。
康子は、喫茶店の中に、松田と入ると、すぐに大量の書類に署名と印鑑、その他の記入事項を書き込んでいった。
一時間ほどして、一通り書類の作業が終わると松田は口を開いた。
「これで、法律上は、あの別荘に関してご主人さまから奥様に名義が変更になりました。後は、土地を売る場合、土地の査定をする必要があります。よろしければ、私の方で不動産屋を紹介しましょうか?」
「―――はい、お願いいたします。松田さんはその時はご一緒に査定に立ち会ってくださるんでしょうか?」
康子は、完全に松田に安心感と信頼感を抱いていた。
「もちろんです。査定の際も、私もご一緒させていただきます。いつ頃にしましょうか?」
康子は首を捻った。
「今日でもよろしいでしょうか?」
水野康子は、司法書士の松田と、紹介された不動産屋と三人で車に乗って、北鎌倉の別荘に向かっていた。運転していた不動産屋は信号が停止したところで、助手席に座っていた康子に向かって首を捻った。
「奥様があまりにも唐突なので、こちらもびっくりしました・・。でも、なるべく、こういう土地は今ちょうど景気がいいですから、土地を売ってしまった方が高く売れると思いますよ」
「私も昨晩、色々考えたのですが、やはりこの別荘に関しては主人との思い出とも一刻も早く断ち切りたいと思いまして・・・」
松田も不動産屋の男も大きく頷いた。
東京から北鎌倉まで車で到着したころには、既に午後の三時を過ぎていた。
康子は、感慨深い想いで、かつては主人との思い出が詰まった別荘を眺めていた。
「こちらの別荘ですか?これはすごい・・・・」
不動産屋の男は、康子の別荘を外から見るなり、既に驚きのため息をついていた。
「これは、主人の思い入れが強い別荘でしたのよ」
松田が横から口を挟んだ。
「こちらの別荘は、およそ三百坪あるうえに、まだ築一年という新築です。土地の値段も含めれば、かなり値打ちの高い物件だと思われますが・・」
不動産屋の男は、その壮大な別荘を外から眺めながら大きく頷いた。
「では、まず家の中に入って内覧しましょうか?」
三人は、玄関の扉を開けて、中に入った。
一回の応接間は見事に広く、家の窓からはよく手入れされた庭園が見渡せた。
階段をさらに上がると、二階になっており、マスターベッドルームが一つ、ゲスト用の寝室が二つ、そして、書斎が一つあった。
不動産屋の男は、一つ一つのドアを開けて、部屋をぐるりと見渡し、壁を叩いてコンクリートの響きを確かめているようだった。
「三階はどうなっているんです?」
不動産屋の男は康子に尋ねた。
「三階は、ゲスト用のパーティー会場になっていますの。外にはテラスとプールもついていますの」
「随分、大層な別荘を建築なさいましたね・・。ご主人はそこでご友人とパーティーをなさるおつもりだった?」
「そうですのよ。主人は何よりもそれを楽しみにしていましたから・・・」
康子は、パーティー会場の部屋からプールを眺めていた。
その時だった。康子が後ろを振り向こうとした瞬間、金属バッドが頭上に振り上げられているのが目に入った。
康子は瞬間的に、身を守ろうとして、手を頭の上に置いた瞬間、後ろから男性の声が聞こえた。
「やめるんだ、伸君・・・・」
康子が振り向くと、そこには管理人の柳田茂がスーツ姿で立っていた。
康子は何が起こっているのか全く理解できなかった。
松田は、金属バッドを放り投げると、
「なんだと、管理人の身分でおまえが何言っているんだ!」
と叫んだ。
不動産屋の男は、そのまま状況を察すると部屋から慌てて逃走していった。
「何事かね?」
康子が振り返ると、そこには隣の別荘の夫婦とその娘二人、若い男性が一人いた。
「何事もなにも、あなた達がすべて分かっていることですよね」
柳田茂は、麻里江達に向かって、警察バッジを見せつけた。
「私、柳田茂と言いまして、刑事をやっております。今まであなた達の行動をずっと去年、水野浩二さんが殺害された時から、監視しておりましてね・・・」
すると、父親の顔が一瞬にして、青ざめた。
「あなた達は、隣の別荘の水野浩二さんを殺した。違いますか?」
すると、後ろからハルおばあちゃんが車椅子で、部屋に入ってきた。
「松田`兼則さん、いや、吉田伸さん、あなたは偽名を使って司法書士に成りすまして、水野康子さんに近づいて、殺害しようとしましたね・・」
すると、松田は困惑したように下を向いた。
麻衣子は
「どういうこと?伸はこの人なの?殺害されていたはずだったのに・・・」
柳田茂は頷くと話を続けた。
「この吉田伸は、変装しています。変装を取りなさい、伸君」
松田は、髭と眼鏡とカツラをとると、若い伸の姿が現れた。
「よくも、まあ、こんな凝った芝居を家族でやったもんだ・・・」
半ば呆れた様子で柳田茂はため息をついた。
麻衣子はショックのあまり、床の上にヘナヘナと倒れこんだ。
「ハルおばあさんも、もう車椅子に座って演技するのは止めたらどうですか?」
柳田は春日ハルに向かって、呟いた。
「私は管理人を装って、あなたと親しくしているように振る舞っていましてね。お蔭さまで、あなたから色々詳しい内部情報を聞けましたよ」
麻里江は慌ててハルおばあちゃんの方を振り返ると、ハルおばあちゃんの手足が怒りで震えているのが目に入った。
「どうして、こんなことを伸がやる必要があるんですか?」
麻衣子は泣きながら、柳田に闘争心丸出しの眼差しを向けた。
「いや、実は、吉田伸は、あなたの父親の実の子なんですよ・・・」
家族が全員ざわめいた。
「吉田伸は、本名は春日伸。よって、春日ハルの孫にあたる訳です」
「ただ、吉田伸は、今のお母さん、つまり春日典子との前の女性との間に出来た隠し子だった。しかし、父親の春日雄二は、隠し子であることを認めなかった。その後、ずっと吉田伸は、児童養護施設に預けられた。違いますか?」
吉田伸は、怒りと絶望の表情をあからさまにして、顔を真っ赤にしていた。
「これはすべて春日ハルから聞いた話です。お風呂場で何回も聞きました」
柳田は、冷静に全員を見渡しながら言った。
「吉田伸は、それでもなんとか実の父親に気に入られたくて、近づきたくて麻衣子さんと付き合った。そして、去年の水野浩二が自殺したと報道されたのも、あれは実際は嘘で、春日ハルが吉田伸に指示を出して、水野浩二を殺害した・・・・」
「なんにも証拠なんかありやしないじゃないか!」
その時、怒りに任せて春日ハルが車椅子から立ち上がって、柳田茂に歯向かった。
「あなたはあの晩、吉田伸に指示を出して、水野浩二を寝ている間に殺害しろと言った。水野浩二は、普段寝つきが悪く、睡眠薬を飲んでいた。たまたま、夏の暑い日もあって、窓を開けていたので、そこから吉田伸は家に侵入し、吉田伸があたかも自分でやったかのように、吉田伸が寝ている間に左手首を切った。でも、そこに大きなミスがあったんですよ・・・」
柳田茂は続けた。
「切られていた左手首です。普通、大半の人は右利きが多いですよね?でも、ご存知じゃなかったかもしれませんが、水野浩二さんは完全な左利きだったんです。左利きの人が、自分で左手首をカットして自殺したりしますか?いやあ、実に巧妙で、吉田伸は手袋をはめていたから、指紋は残っていなかった」
「でも、もう一つ大きいミスがあるんです・・・」
家族全員は、表情一つ変えずにじっと柳田茂を見ていた。
「水野浩二さんは眼鏡を掛けていましたね。肩身離さず、いつもその眼鏡を持参されていたんです。奥様の水野康子さんの話によれば、寝る前は必ずベッドの横の棚に眼鏡を入れていたそうで・・・。しかし、その眼鏡が見当たらなかったんですよ・・・」
吉田伸はゴクリと唾を飲みこんだ。
「そうです。人間ですから、ミスはどうしても緊急の状態では犯してしまうものなんですね。結局、手首を切った反動で、水野浩二は起きてしまった。珍しく、その時は眼鏡を外さないで、寝てしまったのでしょうね。それが、恐らく手首を切られた時のショックの反動で起き上がり、眼鏡が床に落ちてしまった。」
「で、どうしたというんですか?」
父親は固い表情で聞いた。
「伸さんは、その眼鏡を慌てて拾って持って帰ってしまったんです。でも、自分のミスに気づいた伸さんはそのことは何も言えず、ずっと家族に黙っていた。ただ、私、その眼鏡を見つけたんですよ・・・・」
すると、柳田茂は、一階のリビングに全員移動するように指示した。
家族全員が一階の応接間に行くと、床がフローリングになっていた。
「ここのフローリングですが、実はこの下に部屋があります。そこに吉田伸は、眼鏡をひっそりと隠していた。要は証拠隠滅のためですな。誰も、こんなところに地下があるとは思わないでしょう?」
すると、柳田茂はフローリングの一か所を持ち上げて、地下を全員に見せた。
柳田茂は地下に潜ると白い手袋をはめて、銀縁の眼鏡を持ち上げた。
「この指紋を吉田伸と照合させたのですが、指紋が一致しました・・・」
麻里江と麻衣子は驚愕のあまり声をあげた。
「吉田伸は、この水野浩二を殺してから、不動産屋に頼んで、この地下の穴倉を作って身を隠していたんです。ここで、あの麻里江さんが来たバケーションの最初の日に、吉田伸が血を流して倒れていたでしょう?あれも、全部演技だったんです。演技というか、予行練習ですね。水野康子さんを殺すために、春日雄二と予行演習をやった。金属バッドで後ろから襲うという練習をね・・・」
「吉田伸は、自分が誰かに殺されたと麻衣子さん達に見せかけて、その後はずっとこの穴倉で暮らしていました」
そこまで言うと、吉田伸はがっくりとうな垂れた。
「じゃあ、水野康子さんを殺そうとした目的はなんだったんですか?」
麻里江は声を張り上げて、柳田茂を凝視した。
柳田茂は、水野康子の方を振り向いた。
康子は、すっかり動転して青白い顔をしている。
「あなた、水野康子さん。水野浩二さんと結婚する前のお名前は、春日康子さんですね?」
康子は力なくこくりと頷いた。
「康子さん、あなたはショックかもしれませんが、あなたの実の兄が春日雄二なんですよ・・・」
その途端、康子の目が大きく見開かれた。
「あなた達は、幼い頃、両親が離婚してそれぞれ別々に引き取られましたね。春日雄二は父親に、そして、春日康子さんは、春日ハルに引き取られたんです」
春日ハルは青ざめながらそっぽを向いている。
「春日ハルは、離婚した後、別の男に惚れ、同居した。幼い康子さんを置き去りにしたままにね・・・」
「だから、水野浩二さんを殺害した目的はなんだと聞いているんです!」
麻里江は叫んだ。
「おっと、麻里江さん、そんなに焦らないでください。物事の説明には順序ってものがありますからね」
柳田茂は、椅子に座ると自分の持っているペンで家系図を紙に書きだした。
「ずばり、言いますと、水野浩二と水野康子を殺害する目的は・・・・、遺産相続です」
麻里江と麻衣子は口に手をあて、目を合わせた。
「先ほど申し上げたように、水野康子さんは戸籍上、春日ハルの娘に当たります。春日ハルは、水野康子が資産家に嫁いだことを、知った。なぜなら、母親ですから、娘を見れば年十年時が経とうが、分かるわけです。去年、この水野浩二の豪勢な別荘が建てられた時から、春日ハルは、水野康子を見て自分の娘だと気づきました・・・」
柳田茂はそう言って、春日ハルと春日康子の戸籍を背広の懐から取り出した。
「これは、市役所に頼んでもらった戸籍謄本です。刑事ですから、頼めばいくらでも市役所は調査に協力してくれますからね」
麻里江は唾を飲みこんだ。
「よって、水野康子さん、いや、春日康子さん、あなたにとって、酷なことをお伝えしなければなりません。つまり、春日ハルはあなたも殺害することによって、結果的に水野家の資産、およびこの別荘の相続権を自分の手元に委ねようとしたのです・・・」
そこで、水野康子は悲鳴を上げて、床に倒れこんでしまった。
「春日ハルさん、あなたは随分強欲な人ですねえ・・・。私も管理人を装ってあなたと親しい間柄になって、色々と話をお風呂場で聞きましたが、あなたは自分のことしか考えていない・・。私は刑事ですから、この水野浩二さんの別荘の鍵も業者に頼んで作ってもらい、出入りしていました。よく施錠されていないことがしょっちゅうあったので、みなさん不思議に思ったのではないですか?」
「あの・・・・、キッチンにあった食べ掛けのものは?」
麻里江が力なく聞いた。
「ああ、あれですか?すみません。私もこの別荘に頻繁に出入りして、吉田伸の動向を監視してたものですから、朝ここでご飯を食べている時もありました・・。奥様、失礼いたしました」
柳田茂は、微笑みを浮かべながら、頭の後ろを指で掻いた。
「でも、なんで今回私のバケーション中に殺害しようなんて、家族が思ったんですか?」
麻里江は、柳田茂の目をじっと見つめながら最後の質問をした。
「それは・・・、ハルおばあちゃんの暗示ですよ。君も覚えているだろうけど、ハルおばあちゃんはよく独特なお経のようなものを唱えていましたよね?」
「あれは、家族全員が、水野家殺害に関して不信感を抱かないように、家族全員一体が同じ意思を持って行動するように暗示をかけていたんです。よって、いずれ麻里江さんと麻衣子さんと俊之さんも、この別荘に長くいたら、暗示に完全に掛かってしまって、家族が殺害しても誰にも口外しないようになっていたでしょう・・」
その時だった。別荘の周りから一斉にパトカーのサイレンの音が鳴り響き始めた。
「ちょ、ちょっとどういうことよ!」
春日ハルは、動揺してそのまま逃げだそうとした。
しかし、その時には家の外で待ち構えていた警察に捕まり、両手に手錠を嵌められた。
「ハルおばあちゃん!」
麻里江と麻衣子は叫んでいた。
俊之は事の成り行きをずっと見ていた。
ハルおばあちゃんの他に、共犯ということで、伸と、麻里江の父親と母親も逮捕された。
麻里江と麻衣子と俊之は三人でその様子を信じられなくて、夢のように呆然と眺めて、それ以上行動に起こさなかった。
気づいた頃には、パトカー三台は、そのまま別荘の丘を下って、サイレンの音は遠く彼方に消え入るように小さくなった。
麻里江は、そっと窓の外から庭園を見た。
外にある華やかだった庭園の花はすべて枯れ果てていた。
Dead flowers - 枯れ果てた庭園 森英子 @Eiko_Mori
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