8月15日 その4

 既に一本持っているのでそれを見えるように持ち上げたのだが、好美は何故か不満げに手にしたうちの一本を乱暴に俺へと押し付けてくる。


「いやだから、持ってるんだって」

「いいじゃん。二回できるならお得でしょ」

「……? わかったよ」


 何故か好美は拗ねたような口ぶりで、そのまま線香花火を持った手を引こうとしない。別に揉めるような事じゃないかと、それを折らないように受け取ると好美は満足そうに微笑んだ。


 それよりも、姉さんと楓がどこかへ行ってしまったのが気になる。


「姉さんと楓がどこ行ったか知ってるか?」

「花火用のバケツがいっぱいになったんだって。だから新しく水を汲みに行くらしいよ」


「さっき見た感じだと余裕ありそうだったけど……」


 花火のパック一つでバケツは一杯になるだろうか。

 それに、飲み水以外の水もポリ容器に保存してあるからそれを使えばいい。

 花火で高揚して忘れてしまったのかもしれない。


 しかしもう二人の姿は見えないし好美もこう言っている。

 今更呼び戻す必要もないだろう。


「まあいっか。んじゃ線香花火はそれまで待っとくか」


 水場までそう遠くはないし往復しても数分だ。

 昼間の件もあって、好美と二人きりというのは微妙に居心地が悪いがそれぐらいの時間なら我慢できる。


 それまで飲み物でも飲んで待っていようと、テントの方に歩き出した俺のシャツの裾が後ろから引っ張られた。


「線香花火、やろうよ」


 少し震えているその声には、好美の強い意思が篭っていた。

 ある程度こうなるかもしれないとは予想していたが、いざ実際にこうなるとどうするのが正解なのかわからない。


「姉さんたちすぐ戻ってくるだろ? それに水がないのに火を使うのは――」

「やるの。今」


 掴まれたままだった裾が手放され俺は振り返る。

 俺の影に隠れて、なお一層暗闇の中に居ながら、好美の瞳は今まで見た事も無い輝きに満ちていた。

 それは一種の賭けのような、心に覚悟を決めた強い光が形を持ったような、そんな錯覚を俺に与える。


「火、太一が持ってるんでしょ」

「……ああ」


 有無を言わさない好美の口調の強さに、思わずポケットからライターを取り出してしまう。視界の隅では未だに蝋燭の上で火が揺れているのに、好美は一秒でも惜しいと、そのまま俺の手からライターを奪い取り慣れない手つきで着火し、線香花火に火を灯す。


「ほら、太一も早く」


 返事をするよりも早く俺の手を引き、同じ火から俺達の花火は産声を上げた。

 ほんの小さな火種からあっという間に球状の塊へ膨れ上がり、独特な形の火花を散らしてパチパチと音を立てる。

 火種が落ちないように静かにその場にしゃがみこむと、すぐ目の前に好美の顔があった。


「……綺麗」


 好美はうっとりとした様子で小さな閃光を愛でている。

 そんないつもとは違う熱っぽい好美を見ていると、取り戻したはずのいつもの自分が揺らいでしまうような感覚に襲われた。


「……ねえ、太一。一つ聞きたい事があるんだけど」

「なんだよ改まって」


 いやに高鳴ってきた心音のせいで、危うくその声すら聞き逃してしまうところだった。


 緊張? 俺は緊張しているのか? 何故?


 自問しても答えは返ってこない。


「太一はさ」


 しんと静まり返った草原で、好美の声だけが響く。

 得体の知れない動揺は積み重なるばかりで、そう時間も経たないうちにそれは臨界点に達し、わけもわからないまま手にした線香花火の事なんか忘れて、俺は勢いよく立ち上がってしまう。


「あっ……」


 だが、気付いた時にはもう遅く、花火の先端の火種は地面に落ち、みるみる光を失い、そして消えてしまった。場に残るのは好美手の中で未だ咲き続ける一本の小さな音と光だけ。


「……太一はさ、好きな子とかいるの?」


 さっきよりも暗くなったような気がする視界で、俺にそう訊いた好美の顔はよく見えない。

「……どういう意味だ?」


 突然の質問の意図が分からず、俺はそう応えるしかない。

 いや、本当はとっくに気付いているのに、必死に目を背けようとしていただけ。

 そうすることで、この世界から隔絶されると思っていたから。


「とぼけないでよ。太一が気になってる子とか、好きな子はいるの?」


 好美の追及は止まらない。花火を持っていなければ、すぐにでも立ち上がって詰め寄ってきそうな剣幕だ。


「……そんなの、お前に関係ないだろ」

「あるよ」


 濁す言葉を両断して、焦がれるような眼はいつの間にか怒りを滾らせていた。

 当り前だ、もし自分がその時になって、こんな事を言われたら同じように怒るだろう。


「だって私は、私は太一の事を……」


 胸に手を当て、好美は立ち上がり一歩踏み込んだ。

 その衝撃で花火が揺れ、大きく育った果実が熟れて木から落ちるように、火種がゆっくりと地面に向かって落ちていく。


「私は太一の事が……」


 その動きがとてもゆっくりに見え、同時にそれが怖いと思った。


 あの夏祭りの日、俺は自分の生涯を花火のように綺麗に終わらせることができるのかと自問したはずだ。その願いがまるで形を持って否定されているかのように、ゆっくりと、ゆっくりと火種が地面に近づいていく。


 そうして、火種は柔らかなその身を草の上に落とし、まるでそこに何も無かったかのように光を失った。緩慢に過ぎた時間が引き戻され、現実が戻ってくる。


 だが、続く言葉が発せられることはなかった。


「たーくん!」


 名を呼ばれ、振り返ると姉さんが血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。


 だがその様子は尋常ではなく、いち早くこちらに知らせなければならない出来事が起きたとでもいうように、足が傷つくのも厭わずサンダルを脱ぎ捨て裸足で地面を蹴っていた。


 只事ではないと直感が告げる。そのままその直感に従い、自分が不釣り合いな空気から逃げるように、姉さんの元へと駆けだした。


 その時に横目に映る好美の表情は、空虚なようでいて、それでいて口元は忌々しげに歯を食いしばっていた。その感情の意味を考えそうになって、必死に頭から振り払う。


「姉さん! 何があった!?」


 引きずられそうになる意識を無理やり戻しても、訊けるのはその程度の誰もが理解している事だけ。混雑する思考回路で、俺はようやくその時になって気がついたのだ。


 なんで姉さんは一人だけなのか。


 楓は、どこに行ってしまったのか。


「か、楓ちゃんが……、ハァッ、急に……」


 呼吸もままならないというのに、姉さんは肺から空気を絞り出し、その名を告げると水汲み場がある方向を指さした。


 まさか、と最悪の事態を想像するより早く、俺は地面を蹴る。


「待ってよ太一!」


 俺を呼び止める濡れた好美の声が聞こえたが、振り切ってそのまま水汲み場を目指して走る。平坦な地面を抜け、駐車場近くまでやってくると灯りも少なく、その中で照明が多い水汲み場の位置はすぐに分かった。


「楓! 楓どこだ!」


 声を張り上げて名前を呼ぶが、返事はない。

 水汲み場の中に飛び込んでも姿はなく、今度は駐車場へ向かって駆け出す。


「楓!」


 叫ぶのは呼ぶためか、見たくないものから目を逸らす為か。

 自分でもわからないまま、ただ叫んでいた。車の裏、植木の影、探しても探しても楓の姿は見つからない。


「くそ、どこに行ったんだよ……」


 まだだ、まだその時じゃない。


 だってまだ始まったばかりじゃないか。

 海にも行っていないし、二回目の夏祭りだってまだだ。

 こんな中途半端な所で終わってしまうなんて、そんなのは。


「楓!」


 呼べども呼べども返事はなく、俺の中に言いようのない焦りばかりが募っていく。

 そんなはずは、はもしかして、に変わり、有り得ない、がそうなのかも、へと変質する。

 けれど、認められない。そんなのは絶対に認めてはいけないのだ。


「……あれは!」


 焦りのあまり周囲が見えていなかったのだろう、駐車場を一周し、再び水汲み場へと戻ってくると、俺が入った入口とは正反対側にある街灯の下に、楓がこちらに背を向けて佇んでいるのが見えた。


「楓!」


 街灯に照らされ、白飛びした写真のように楓の姿は輪郭が薄い。


 その光景に心臓が高鳴るのを感じたが、楓はまだ人の姿を保っている。

 獣還りが本格的に始まったわけではなさそうだと、痛む肺を抑えて街灯の下にいる楓の元へ駆け出す。


 そうして今まで見つからなかったのが嘘のように、あっさりと楓の元へ辿り着いた。楓の足元にはバケツが転がっていて、無残に溶けた花火たちがそこらへんにぶちまけられている。


「楓……」


 近づいて声をかけるも、楓はこちらに背を向けたままで返事はない。

 バケツの中身がかかったのだろうか、楓の体のあちらこちらに黒々とした汚れがついている。


「これ……、お前がやったのか?」

「……」

「おい、楓……」


 本当に目の前にいるのかも疑わしい一方的な呼びかけに怖くなり、楓の小さな肩を掴む。


 その途端、電流でも流れたかのように楓の体は大きく跳ね、俺の手を振り払った。


「触らないで!」


 こちらを向かないまま、楓は自らの体を覆い隠すようにその細い腕で抱いていた。

 三つの兆候が身体に出た人間には、すぐに最後の兆候が現れる。

 気付けば、俺の手も震えていた。


「……もう、なのか?」


 まだ、始まったばっかりじゃないのか。


 信じたくない、見たくない、認めたくない。


 そんな意思とは反して、俺の手は再び楓の肩を掴んでいた。


「やだ、触らないで! やめてよ!」


 肩を掴まれ楓も必死に抵抗しているが、力の差は歴然としている。

 必死に逃げようとしている楓の両肩を掴み、強引にこちらへと振り向かせた。


「……見ないで」

「……っ」


 そうして、楓は静かに抵抗をやめる。


 楓の隠していたそれは、俺から言葉を奪い去るには十分だった。


 楓の金色の髪と同じ色の体毛が、上半身から二の腕の辺りまでびっしりと生えていたのだ。


 それが何を意味するのか理解した俺は、その現実が受け入れ難く、今の体勢から動くことすら、気の利いた慰めの言葉すらかけることができない。


「見ないでよ太一……」


 楓の頬には静かに涙が流れ、それは汚れた水と合流し灰色の雫となって零れ落ちる。

 ただただ懇願するように、そうすることで現実を否定するように、楓は見ないで、と繰り返し続けた。


 夏の終わりを告げる足音が、聞こえた気がした。

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