8月15日

8月15日 その1

 窓の外に見える一面の木々が枝葉の隙間から光を降らせ、それらは一瞬だけこちらの目を眩ませるとすぐに視界から遠ざかって行く。ここまで山奥に来たのは小学生の時に行った林間学校以来かもしれない。


「うっ!」


 そんな郷愁のような現実逃避から俺を引き戻すのは、助手席の好美の呻き声だ。


「もう少しで着くから頑張れー。吐くなよー」

「ぐっ……」


 会長さんの懸命な呼びかけにも好美は答えない。


「大丈夫かしら好美ちゃん……」


 俺の隣に座る姉さんは頬に手を当て、顔面蒼白の好美の身を案じている。

 俺達はキャンプ場へ向かう為、会長さんの運転する車に乗って山道を登っていた。山道とは言ってもそこらへんに岩が転がっている獣道という事はなく、舗装された人気のない道をただひたすらに登っているだけだ。


「車酔いするタイプじゃなかったよな。もしかして体調でも悪かったのか?」

「……なんかあんまり寝れなかったらしいわよ~」

「小学生かよ」


 キャンプの前日に寝れないとか、さすがに高校生にもなってどうなんだ。


「だっさ」


 そんな俺達の会話に対し、楓が特に面白くもなさそうにそんな感想を述べた。視線こそ怪我をしたという右手の小指に巻かれた絆創膏に向けられているが、言葉の矛先は言わぬもがなだ。


 プールの時の一件以来、どうやら楓と好美の間には深い溝ができたらしい。


 楓は獣還りを許容している人間を全て拒絶しているという事ではないようだが、好美に関してだけ妙に辛辣な一面がある。いくら聞いてもその原因は教えてくれなかったが。


「そういう事言うのはよくないわよ~。楓ちゃんは車酔いとかしないのかしら~?」

「うん。でも飛行機はあんまり得意じゃない。飛ぶ瞬間とか怖くない?」

「ごめんね~。私飛行機は乗ったことないの~」


 一方で楓と姉さんの関係は良好なようで、出発前に軽く挨拶をしただけなのに、既にお互い気を遣わない関係を築いている。

 深く事情を話さなくても仲良くなっているのは、物心ついた時から俺や好美の面倒を見ていて、年下相手は慣れたものなのだからなのだろう。


 そうやって二人の様子を観察していると、何かを踏んだのか車がガタンと大きな音を立てて揺れた。それと同時に、死体のように静かだった好美がプルプルと震えはじめる。


「うぅ……うっ」

「好美! 限界が近くなったらすぐ言うんだぞいいか!? ダーリンの車に粗相するなよ?」


 もはや会長さんも気が気じゃないらしく、いつもの達観している様子は微塵もない。心なしか好美に注意を割かれているせいか運転も最初より荒くなっている。


「……」


 再び動かなくなった好美の口元はだらしなく開けられ、涎が一筋垂れている。それすら気にかけられない程追いつめられているらしい。


 フロントガラス越しの景色は俺がさっき眺めていたものと大差なく、傾斜のついた道路と左右の木々は、終わりがない迷路のように無限に続いているように見えてくる。


 その中に一つ、今までと違うものがあれば見通しが悪くとも気がつくのは当然だろう。


「あ、会長さん看板見えましたよ。キャンプ場まであと一キロって書いてあります」

「よくやった少年! あと少しだけ持ってくれよ好美!」

「……」

「……ださ」

「こらこら、そういうのはよくないわよ~」

「事実だもん」


 一気に騒がしくなった車内の女性陣を尻目に、俺は再び窓の外へ視線を放り投げる。


 せっかくのキャンプだというのに一日の始まりからして、波乱の予感を覚えるには十分すぎるものだった。


 ***


 それから程なくして俺達はキャンプ場に到着した。

 駐車場とテントを張るスペースは木を切り出して確保されているらしく、駐車場に入るとずっと隠されていた青空が姿を現す。

 駐車場内には俺達以外の車はなく、どうやら貸し切り同然に使えるらしい。


「~~~~~~~~~~~ッ!!!」

「好美ちゃん待って~」


 車が止まるや否や、茂みの影に走り去った好美は見なかった事にしておこう。

 見られたいものではないだろうし、姉さんが後を追いかけて行ったから後は任せることにする。


 二人を見送り車のドアを開けると、むわりとした熱気がクーラーの効いた車内を侵食するがそこまで不快感はない。外に出ると山頂が近い為か日差しこそ強いものの、想像していたよりもずっと涼しかった。


「いい天気だなぁ」


 入道雲によって適度に太陽が隠され、見上げた空は絶好の夏日和。時折吹いてくる風は想像していたよりも冷たく、目を閉じて風に身を任せるとなんとも心地よい。


「本当にいい天気だ。楓君は車酔いは大丈夫かい?」

「大丈夫。そんなにヤワじゃないし」


 さっきまでの狼狽っぷりはどこに行ったのか、車から降りてきた会長さんは涼しい顔でタバコに火を点けた。楓は憎まれ口を叩きつつも、尻尾がせわしなく動いているところを見ると一泊二日のキャンプに今から期待を膨らませているようだ。


「よろしい。それでは大いに働いてもらおう。まずは荷物運びからだな。悪いが少年には重いものは率先して運んでもらう。ああ、飲食物は運んだらクーラーボックスに水と氷を入れて蓋は閉じておいてくれ。氷の袋は開けなくてもいいぞ」

「りょうかいでっす」


 その辺は祭りの準備でも手慣れたもので、返事もそこそこに俺は車のバックドアを開けた。ざっと見る限り、この中で一番重いのは水やジュースが入ったビニールのようだ。最初に運んでしまおうとビニールに指をかけると、一瞬にして持ち手が伸びギシギシと嫌な音を立てる。


「楓君はそうだな。好美が使い物にならないから寝かせる用の椅子とレジャーシートを持って行ってくれ。テントのような重いのは我々が運ぶからとりあえずそれを優先で頼む」

「……わかった」

「そんなに不服そうにするな。いくらなんでもこの炎天下の中、車の中に放置しておくわけにもいかないだろう?」

「……うん」


 背後で会長さんと交わされる会話には、やはり不穏な空気は感じない。

 好美の場合とこうもきっぱり態度が分かれていると、看過できない何かが好美にあるのだろうか。荷物を引っ張り出しながら考えてみるが、イマイチそれっぽい要素は頭に浮かんでこない。


 まあ、どうしようもなくなったらその時に間に入ればいいか……。


「太一ー!」

「ん、来たか」


 そう結論付けた俺の元に楓がやってくる。会長さんとの会話は聞こえていたので、予め取り出しておいた椅子を楓へと渡す。折り畳み式で素材も軽いから楓でも一度に数個運べるはずだ。


「早く運んじゃお。午後になったら暑くなるって会長さんが言ってた」

「そうだな。指挟まないように気をつけろよ」

「このぐらい大丈夫だよ。ほら太一、行こう」

「俺のは重いからちょっと待てって」


 尻尾を振り、待ちきれない様子の楓に続いて、俺もえっちらおっちら歩き出す。指に食い込むビニールは一歩踏み出す度に一層負荷をかけ、指先を白くした。

 このキャンプ場はバンガローも何もなく、駐車場とテント用のスペースしかない簡素なものなので、適当に平坦っぽい場所のアタリをつけてそこを目指し歩みを進める。


 夏空の下、セミの鳴き声を聞きながらビニールに入った重い荷物を運ぶ。こんなことがほんの二週間前にもあった。その時のビニールの中身は溢れんばかりのキャベツで、一緒に居たのは小町なのだが。


「あれからまだ二週間しか経ってないのか……」


 この二週間の間はとても濃密で、まだそれだけと思う反面、もうそんなに、とも感じてしまう。今まで生きてきた中で間違いなく一番記憶に残る時間だったのは間違いないし、良くも悪くも、色々と考えさせられる二週間だった。


 最初はただの最後となる夏休みで、それでも漠然と過ぎ去っていくだけなのだと思っていた。


 けれど楓と出会い、同じ価値観を共有できる相手ができた。

 その一方で幼馴染の一人を獣還りで失った。


 どちらも同じぐらいの衝撃で、驚きで、この二つは間違いなく今の俺を構成する大事なパーツとなっている。


 けれど、俺は未だ死が迫っている実感もなく、残せるだけの何かも思い当たっていない。


 プールから一週間経ち、体の浸食は更に進んでいた。

 剃ったはずの毛はいつの間にか元に戻り、髪の毛も全身の毛も、なんだか質感が硬くなってきている。


 長くてあと二週間、楓と出会ってから過ぎた日々と同じだけしか時間は残されていない。


 それだけわかっているのに、やはり現実味がない。


 つい先日目の前で獣還りをした人を見た。それがどういうものかはとっくに知っている。


 けれども、それだけ命が短くなっていたとしても、状況を認識して自らに落とし込むだけの何かは、手が届かない程遠くにあって、決して俺に悟らせてくれない。


 小町は、何故あの時にあんなにも清々しい表情ができたのだろう。

 もう既に、その答えを持つ人間は失われてしまっている。


 けれど、いや、だからこそ。


 俺はそろそろ、小町に会いに行くべきなのかもしれない。


「どうかしたの?」

「……なんでもない」


 考え事をしていて歩みが遅くなっていたのだろう。

 楓は椅子を地面に置いてこちらを心配そうに見つめていた。

 せめて表面上だけでも繕おうと、頭を切り替えて楓の隣へ追いつく。荷物を地面に置くと、滞っていた血の流れが動いて指先が熱くなった。

 そういえば、楓はあれから何か体に変化は起きているのだろうか。


「なあ楓、お前最近体に変化あったか?」

「なんかその言い方やらしくない?」

「んな事思っちゃいねぇよ。特になんも起きてないならいいんだけど」

「……はぁ。うん、まあそうだよね」


 楓は溜息交じりに一人で納得し、右手小指に巻いた絆創膏を剥がした。

 その様子がとても不満そうで、何か失言しただろうかと振り返る俺の目の前に、楓は自分の右手を持ち上げた。


「ん」


 一見したところ、楓の手全体には妙な変化は見られない。だが、絆創膏に隠されていた小指の爪だけがまるで動物のそれを模すように、硬く厚く、そして鋭く尖っていた。それがよっぽどショックだったのだろう、自分の爪を見ている楓はどこか寂しそうに目を細めた。


「綺麗な形だったのになぁ……」


 かつてを惜しむようなその声に、俺は何も返すことができない。

 これで楓は、人体に現れる兆候の一つである爪牙が揃ってしまった事になる。

 それ以外には既に耳と尻尾があるので兆候はこれで三つ。

 ここから先は個人差もあるが、基本的にはすぐ体に何かしらの影響が出ると言われている。

 追い打ちをかけるようで気は進まないが、そこは聞いておかなければならない。


「他に影響は? すぐに他の影響が出る事も多いって聞くぞ」

「他の影響、かぁ。うーん」


 俺の質問に楓は新しい絆創膏を巻きながら考えていたが、すぐに何かを思い出したようだった。


「あ、そういえばこの前変な夢見た。アタシがもう完全に狐になっちゃって、どこか知らない草原を走る夢」

「……夢、か。聞いた事あるな」


 獣還りが近くなるとそういう夢を見るという噂は聞いた事がある。

 見る人も見ない人もいるという話だし、眉唾ものだと思っていたのだが、まさか本当にあるとは思わなかった。けれどすぐそこまで獣還りが迫った楓が見たというのなら、信憑性は確かなものだろう。


 俺はまだその夢を見ていないので、症状の進行は楓の方が上という事か。


「太一はどうなの?」

「俺はなんか髪質が変わってきた。髪だけじゃないな、全身か」


 こちらの質問が終わると、楓も俺と同じようにこちらの状態を確認してきた。それに、胸に手を当てて正直に症状の報告をする。

 俺のように人間のモノではない体毛が生えてくる、つまり体を蝕まれて浸食される感覚は、楓のそれよりも強いだろう。

 だからだろうか、楓の俺に向ける眼がいつもより優しく感じられたのは。


「あとどれぐらい生きられるんだろうね、アタシ達」

「……わからん」

「またそうやって濁してヘタれる……」

「わからないものはわからないだろ」

「ま、そうだよね。アタシだってここまでキてるのにいつなのかさっぱりだし」


 そう言い、木々を揺らす風に攫われないように、楓は麦わら帽子を押さえて頭上に鎮座する入道雲を見上げた。けれど視線こそそちらに向いているが、楓は入道雲よりもっと遠く、全く別のモノを見ているような気がした。

 風が止んでも、俺達はしばらくそうやって空を仰ぎ続けた。


「おーい何やってるんだー? なんかトラブルでもあったのかー?」


 穏やかな風に運ばれて、会長さんの声が聞こえてくる。

 振り返ると会長さんが心配そうにこちらに手を振っているのが見えた。

 途中で動かなくなった俺達に何かが起きたのではないかと思ったのだろう。


「この話、やめよっか」


 雑談の途中で雰囲気が悪くなってしまった、そんな軽さで楓は笑う。

 それがあまりにも内容と矛盾した軽さだったので反応が遅れたが、この夏休み中に何度も決めた俺の中の誓いを思い出し、俺は再び荷物を持ち上げる。


「ああ、今日も楽しくなるといいな」


 楓が笑っていなければ意味がない。楽しく過ごせなければ全てが無駄なのだ。


「うん! 今日の夜にやる花火も楽しみ!」


 楓は眩く笑うと、遠くの会長さんに問題ないと大きく手を振り、椅子を持って駆け出した。まるでそれがきっかけになったように、広い空き地にもう一度風が吹く。


 土と緑の香りを孕んだその風は、思わずむせ返りそうになるぐらいとても濃いものだった。


「太一ー! このあたりでいいかなー!」

「大丈夫だー! 俺もすぐ行くー!」


 すっかり小さくなってしまった楓に置いていかれないように、俺も手の痛みを堪えて必死に地面を蹴る。既に準備を終えた椅子に座る楓は早く早くと俺を責め立てた。


 鈴を転がすような声とはよく言ったもので、このだだっ広い空間でも楓の呼び声はよく通り、その要望を叶えるべく俺はガチャガチャと荷物を鳴らして楓の元へ走るのだった。

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