7月22日 その3

「あらあら~。喧嘩でもしたのかしら?」


 学校から神社まで好美と小町にやれ使えないだ思いやりがないだでこき下ろされ続ける事十数分。神社で出迎えてくれた姉さんは長年の付き合いからか、俺達の間に漂う険悪な雰囲気をいち早く察したようだった。


「違います! 太一が悪いんです!」

「そうだよ智代ちゃん! 育て方間違えたんじゃないの!?」

「ふふふ、まだ少しだけ時間があるから奥でお茶でも飲みながら聞かせてくれる?」


 姉さんの姿を見るや否や、そこまですっとんで行って語気を荒げる二人であったが、それも慣れているので姉さんは動じること無く、二人を連れて神社の奥へと姿を消した。


「俺は放置ですか……」


 まあ、指定された時間まであと二十分はある。時間に厳しい町内会長さんが持ってきた弁当を食べてから作業を開始するのが毎年恒例の流れなので、しばらくは炎天下で歩いて火照った体を休ませることにしよう。


「確かあの辺にベンチが、あったあった」


 記憶を頼りに垣根の一部と化しそうなベンチを見つけ、落ち葉や汚れを適当に払ってからそこに腰を下ろした。ちょうど木陰に入る位置に置かれているので周囲より気温も低く、時折吹く風が冷ややかで心地いい。


 肩にかけたタオルで汗を拭いていると、本殿の中から誰かの笑い声が聞こえてきた。その光景はどこか懐かしさを覚えるもので、少しだけ感傷的な気分になる。


「もう四年も経つのか……」


 俺の爺ちゃんはこのご時世に珍しく既存の神を信じ、そして老衰で逝けた数少ない人物だ。死んでしまう前日まで毎日朝早く起きて境内の掃除をし、ご近所のご老体方と世間話に花を咲かせていた。

だから俺の記憶にあるこの神社の姿は、落ち葉一つなく庭木の剪定もされていて、いつ行っても厳かな雰囲気が保たれているものだ。


 それが今や町内会が掃除してくれているとは言え行き届いていない箇所も多く、資金難から剪定業者すら呼べずに庭木は伸びっぱなしで鳥居には泥が着き、祀っているお稲荷様の眷属である狐の像も表面に苔が生えてしまっている。


 けして厳格ではなかったが、この様子を爺ちゃんが見たらさぞ悲しむ事であろう。神の概念が崩壊したとは言え、爺ちゃんは最後までここで祀られているお稲荷様を卑下したりはしなかったからだ。そう考えると、この現状は非常に申し訳なく思う。


「……爺ちゃん、すまん」

「何か悩み事かい? 少年」


 遠くにいる爺ちゃんに届かない言い訳をしていると、砂利を踏む音と共にハスキーな大人びた声が聞こえる。下げていた視界に黒い尾が揺れ、釣られるように顔を上げるとそこには町内会長さんがいた。相変わらず神出鬼没な人である。


「こんちわ。会長さん」

「なんだなんだ下ばっかり向いて。そんなに掃除が嫌か?」


 するりと体を滑らせるような身のこなしで俺の横に腰かけた会長さんは意地悪く笑う。これから汚れる事を考えてなのか、Tシャツに七分丈のジーンズパンツというラフな服装だが身体の凹凸が少ない細身の体にはよく似合っている。


 会長さんはまだ二十代だというのに町内会長を買って出た変わり者だ。一回りまではいかないが、俺が物心ついたころからよくお世話になっていて、気心は知れている。


「そうですね。こんな暑苦しい日に外で掃除なんて正気とは思えません」

「まあそう言うな。アイス買ってきたから食え食え」

「あ、ども」


 俺の正直な物言いに気を悪くした様子もなく、会長さんは手からぶら下げていたビニール袋から小さなカップアイスを取り出し、スプーンと共に俺に渡してきた。その拍子に表面の水滴が垂れ、砂利の上に小さな染みを作り出す。


 会長さんもどうやらこの炎天下でのアイスを楽しみにしていたようで、自分のアイスの蓋を開けながら黒豹のものである尻尾も耳もピンと天に向かってそびえ立っていた。


 会長さんが蕩け顔でアイスを堪能しているのを見てから俺も一口。うまい。


「どうせなら好美と二人で食べたかっただろうが、こんなババアが一緒ですまんな」

「会長さんがババアなら俺はジジイってところですかね。あとなんで好美の名前が出てくるんですか」

「それは秘密だ。ま、私にはダーリンがいるからお前は愛人ってところか」


 うだるような暑さの中では、会話の内容に中身なんて全くない。ただ浮かんだ言葉を適当に投げ合っているだけだ。


「旦那さんが聞いたら泣きますよ?」

「大丈夫だ。最近倦怠期というわけじゃないがどうも刺激が少なくてな。高校生男子なんて性欲の塊だろう? いい感じで刺激を与えてくれると期待してるよ」

「間男の介入って刺激通り越して破滅を招きそうですね」

「そうだな。お互いパートナーがいるのにそういう事はよくない。健全が一番だ」


 ……今日の会長さんはいつにも増して会話の内容がスカスカだ。


「会長さん。俺は好美とそういう関係じゃ――」

「なんだ、まだなあなあで済ませてんのか君たちは。そういうのは言葉にしないといずれ些細な行き違いからとんでもないことになるぞ?」

「いやいや、だから違うんですって。今日だって俺が手を引っ張ったら顔真っ赤にして怒ってましたし、会長さんが楽しみにしているそういう関係には絶対になりませんよ」


 会長さんの的外れなアドバイスを否定する。確かに俺と好美はよく一緒にいるが、それは幼馴染で家が隣だからであって、それ以上でもそれ以下でもない。


 だというのに、会長さんは何故か深い深い溜息を吐くのだ。


「……なるほど。これじゃあみんな手を焼くわけだ」


 理解はしたものの納得はしていないと、会長さんはそんな顔でアイスを口に運ぶ。


 この人は何かにつけて俺と好美をくっつけようとしている節がある。俺にとって好美は妹みたいなものでそういう対象として見れないと、以前にも会長さんにそう説明したのだがイマイチ上手く伝わっていないようだ。

 というか、さっきこの人みんなって言わなかったか?


「会長さん、みんなってなんですか。さっきまで好美って言ってませんでした?」

「ん? ああ、そういえばこれは内緒だったな。好美が手を焼くに訂正する」

「はあ……」


 内緒と言っている時点でその秘密は守られていないのだが、深く突っ込むのはやめておこう。


 しかし、手を焼くという事は一体どういう事だろう。

 どこかの誰かが俺へと好意を寄せているのか、それとも会長さんの言葉に踊らされた誰かが好美と俺をくっつけようと躍起になっているのか。どっちにせよ、会長さんが一枚噛んでいるのがなんとも……。


「ねえ、会長さん、そいつって――」


 そういうヤツがいると仄めかされて気にならない方がおかしい。上手く逃げられるだろうが、何かヒントの一つでも掴んでおかなければ、この人の掌の上で延々踊らされることになるだろう。そう思って問い詰めようとした矢先、会長さんの黒い耳がピンと立ち上がった。


「きたっ!」

「うおっ!?」


 何が来たのか、会長さんは突然立ち上がって何かを待つように顔を横へ向けた。視線の先を辿ると、神社の駐車場に見覚えのあるワゴン車が入ってくるのが見えた。


「……ああ、旦那さんが来たんですね」


 遠くに聞こえるエンジン音の時点で気付いていたのだろう、会長さんは明らかに車の姿が見える前に反応していた。確信を得たのか、会長さんはさっきまでゆっくりと味わっていたアイスを勢いよく流し込むとゴミを纏めてこちらに振り返る。


 ギギギ、と音がしそうな固い動きで振り返った会長さんの表情は、本能と理性がせめぎ合っているのかなんだかよく分からないことになっていた。


「まあ、まだ君たちは若い。これから人生長いだろうし焦る必要はない! 命短しなんとやらだ! 色々考えて色々悩みたまえ!」

「無理やりかっこつけなくていいですから。早く旦那さんの所に行ってください」

「恩に着る!」


 言うが早いか会長さんは駐車場に向けて全力で駆け出した。そして車から旦那さんが降りてくるや欲望を爆発させ、真昼間だというのに人目も憚らず濃厚な口づけを交わし合うのであった。あ、なんか車内にもつれこんだけど見なかった事にしよ。


 再びベンチに腰を下ろしてからだいぶ溶けてきたアイスを流し込む。もうだいぶ汗も引いてきた体の奥へ、冷たい塊が落ちていく感覚がこそばゆい。


「……にしても」


 あれだけ情熱的な恋愛に身を焦がす会長さんが言うのならば、少しは恋とやらを実践してみてもいいかなと思わないでもない。高校生である俺の身の回りには色恋沙汰なんて溢れていて、教室での山郷との会話だってそれの一端だ。


「命短し、ねぇ」


 けれど、その言葉が俺の中に引っかかって、俺は無意識に自分の胸に手を当てていた。着込んだシャツの内側に、まるで針金のような硬度を持った体毛の存在を感じる。掌を押し当てるとそれは布地を貫通し、刺すような痛みをもたらした。


 かつての研究で獣還りには一定の法則があることが判明している。


 人体に現れる影響で最も顕著なものは耳、尻尾、体毛、爪牙の四つだ。このうちの三つが体に現れた人間は、そう遠くない内に獣へと還ってしまうというものだ。


 それらがいつ現れるかは個人差がありわからない。だが、俺は生まれた時から犬のような耳も尻尾もあり、まだ胸部にしか生えていないが、体毛も一カ月前に突然現れた。


 これが意味するモノ。


 それは、俺が俺でいられる時間はもう長くないという事。


「こんな状況じゃ無理ですよ会長さん……」


 俺の声をかき消すように、セミの鳴き声と風に凪ぐ木々の合唱が木霊する。滞留した空気から逃れようと顔を上げても、ただただ木漏れ日に目が眩むだけだった。


 あれはいつだったか。爺ちゃんが亡くなる前の最後の夏だった気がする。

 縁側でスイカを食べている途中で、爺ちゃんが突然真剣な顔をして黙ってしまったのだ。


 まだ小学生だった俺は爺ちゃんから怒られるのではないかと身構えたのだが、そんな俺に爺ちゃんは険しい表情を崩して笑い、話を始めた。


「太一、お前は神様ってやつを信じるか?」


 いきなりの質問の意味がわからず、爺ちゃんの言う神様とやらが人類史で唯一完璧な姿で現れたヤツの事だと思い俺は首を縦に振った。爺ちゃんはそんな俺を見て、夏の空を仰ぎながら話を続ける。


「太一、神様ってのはな。一人一人の中にいるもんだ。もしかしたら突然現れたアイツは本当の神様なのかもしれねぇ。けど八百万の神って言葉もあるぐらいだからあんなもんはうん百といる神様のうちの一人なんだよ」


 優しく諭すように、それでいて自分に言い聞かせているような口ぶりで、爺ちゃんは語る。


「そんなもんがいきなり目の前に出てきちゃ自分の信じてきた物が揺らぐのも仕方ねぇ。けどな太一、それが間違えているとは言わないが、自分が信じたいものは自分だけで決めるんだ。そこにどんな横槍が入っても誰からなんと言われようとも、それだけは間違えるな」


 今思えば小学生にする話の内容じゃない。けれども俺は言葉の意味はわからないまでも、爺ちゃんが不器用ながらも何かを伝えようとしている事だけは理解できた。だから、俺を見下ろして答えを待つ爺ちゃんと目を合わせて、しっかりと頷いた。


 それを見て爺ちゃんは満足そうに笑い、盆の上に乗せられたスイカを俺に渡してくれた。


「いい子だ。さあスイカが温くなる前に食べよう。今日のスイカは俺の友達からもらった特別なもんだからうめぇぞ」


 それが俺の中にある爺ちゃんの最後の笑顔だ。

 次の週には爺ちゃんは心筋梗塞で亡くなり、骨になって土の下に埋まってしまった。


「……爺ちゃん」


 俺はあの時爺ちゃんが伝えたかった事の一握りでも理解できているのだろうか。その答えは未だ暗いトンネルの向こう側にあって、いつまで経っても出口の光明は見えてこない。


 けれどそれは歩いている意味すらわからないまま、前に進んでいるだけなのではないか。


 あの時のスイカの味と爺ちゃんの笑顔が、人生を無駄に過ごしてきた自分を糾弾しているような気になって、懺悔でもしようというのか、俺はまた無意識に胸に手を当てる。


 皮膚を刺す針のような刺激が、まるで償いとでもいうように。

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