第8章 さよならは言わない
第126話
月が替わった。4月になった。桜は咲いた。でも俺の心は晴れなかった。
人類滅亡が避けられたというのに、なぜ俺の心が晴れないのか。その答えは俺の目線の先にある。
俺の目線は社内の一角に向けられていた。事務用デスクがいくつかまとまっていわゆる“島”を作っている。それぞれのデスクではその持ち主が仕事にいそしんでいる。
そしてそんな中にたったふたつだけ、持ち主のいないデスクがあった。他のデスクがその上にPCを始めとする色々なものを載せているのに対して、そのふたつには何も載っていない。
持ち主のいない、何も載っていないデスク。誰も使っていないデスク。それがふたつ。そう、それはつい先月まで美砂ちゃんと久梨亜が使っていたデスクなのだ。
あの神との戦いが終わって以降、彼女らは姿を消してしまった。いや、姿が消えただけではない。俺を除くあらゆる人の記憶からも消えていた。彼女らに関する一切の物やデータがこの世界から消えていた。
順を追って説明しよう。
神と悪魔メフィストフェレスが去った後、風雨は止み、水位は驚くべき速さで下がった。俺はスマホで奥名先輩と連絡を取り、先輩のいる病院へと向かった。幸いにも戦いの場からはそれほど離れていなかった。
先輩は無事だった。どこも怪我などはしていなかった。ピンピンしていた。そして、……あの暴風雨の記憶が一切なかった。
いや、先輩だけではない。あの暴風雨はあらゆる人々の記憶からも消えていた。いや記憶だけではない。痕跡さえも。あの大洪水は“なかったこと”にされたのだ。しかしこの時点の俺はまだそれに気づいていない。
「瀬納君、どうしたの。そんなに
先輩は診察室の前で順番を待っていた。のんびりした口調が意外だった。俺が駆けつけたわけなどまるで思いつかないようだった。
「そ、それより先輩は大丈夫なんですか。“あんなこと”があったのに」
「ああ、『頭を打ったかもしれない』ってやつね。今のところ症状はないわ。これから診てもらうところ。まだちょっとかかるんじゃないかしら」
のんびりとした口調は変わらない。思えばこの時点でおかしいと気づくべきだったのかもしれない。でもただ先輩の身だけを心配していた俺には気づけなかった。
「違いますよ。あの暴風雨ですよ。あの大洪水ですよ。先輩が他の人たちを必死に励ましているって知って、俺もう心配で心配で……」
「暴風雨? 大洪水? あなたいったいなにを言ってるの? もしかしてあなたも頭を打ったんじゃないの? 一緒に診てもらおうか」
先輩の手が心配そうに俺の頭に触れた。その時になってようやくなにかがおかしいと思い始めた。そして病院の中を見回した。人々は皆、奥名先輩と同じようにのんびりとしていた。服なども濡れてなかった。建物にもあの大洪水の痕跡は一切なかった。窓ガラスも割れていない。
そこで思い出した。病院までの道中、車は走っていた。人も歩いていた。普段の街と変わりないようだった。まるであの大洪水など“なかった”かのように。
それでようやく気づいたのだ。神のやつはあの大洪水を“なかったこと”にしやがったんだ、って。
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