第115話

 途端に全身の力が抜けた。胃の中のものが逆流しかけた。口に手を当ててなんとかこらえた。


 突然、背中になにかがぶつかってきた。でかくて弾力を感じる。


「英介、やったな!」


 久梨亜だった。やつは覆い被さるように抱きついてきた。ちょ、ちょい待ち。出る、カレーが出る……。


 久梨亜にのしかかられて体が前にくの字になる。腹が圧迫される。ちょっとヤバい。


 そこに前からなにかがぶつかってきた。今度はちっちゃい。


「英介さん、よかった。私、ずっと心配で……」


 美砂ちゃんだった。天使の姿のまま俺の胸へと飛びついてきた。うっ、マズい。腹が押される。巨乳とちっぱいに前後から挟みつけられる……。


 限界だった。俺はふたりを振りほどくと一目散いちもくさんに河に向かって走り出した。

 ガードレールを越えた。歩道を横切り、河に乗り出すと盛大にリ○ースした。


「俺、勝ったのか……」


 ぼんやりと川面かわもを見つめた。腹が軽くなるのにつれて重責からも解放されていくような気分がした。


 後ろを振り返る。美砂ちゃんと久梨亜がこっちを見てる。メフィストフェレスが配下の悪魔になにやら指示してる。神のやつはまだ倒れてる。


 そうだ、俺は勝ったんだ。人間であるこの俺があの神に勝ったんだ。


 俺はふたりに駆け寄ろうとした。胃の中のものは全部出しちまったし、もういくら抱きつかれたって平気だ。いや、むしろ抱きつかれてほしい。抱きついてくれ!


 ところが俺が近づこうとすると、なぜかふたりは後ずさりしたのだ。体をのけぞらせて。まるで汚いようなものを見るような目で。


「え、英介。こっち来るまえにその口から垂れてるやつ拭いたほうがいいぞ」

「そうですよ。その格好で来られても、私ちょっと……」


 ふたりに言われてハッとした。口からカレーと唾液が混じったなにかが垂れていた。さらに服にはあちこちカレーのみが。


「あ、ああ。悪い。気がつかなかった」


 あわてて手で口をぬぐう。そうだ、確か勝負の最中に鼻水も出てたんだっけ。目に涙もたまってるし、こんなようす、人類を救ったヒーローにふさわしい格好じゃないよな。もっとちゃんとしてないと。


 片手で鼻を拭う。もう一方の手と手首で涙のたまった目をこする。


「う、うぎゃあ! し、みるうぅ!」


 バカか俺は。カレーのついた手で目をこするなんて!

 道路の上で身もだえた。転げ回った。はたから見たらまるでタコ踊りのように見えたはずだ。格好悪い。ヒーローの姿じゃない。


「きゃあ! 久梨亜。英介さんが、英介さんが!」

「待ってろ。すぐ水持ってきてやるから!」


 美砂ちゃんと久梨亜の声。でもなにしてるのかは見えない。目が開けられない。カレーを拭き取りたい。でも手にはカレーがついてる。服の袖でこすってみたが運悪くそこにもカレーの飛沫が!


 目には激痛。手足も道路に打ちつけて痛い。なんとか頭だけは守らないと。


「持ってきたぞ! それっ!」


 久梨亜の声と同時に大量の水が降ってきた。鍋に水を入れてぶちまけたらしい。これでひと安心……。ってその鍋、さっきまでカレーがたんまり入ってたんじゃなかったのか! ちゃんと洗い落としてないだろ!


 もうダメ。俺死ぬかも……。


 その時、俺の頭が柔らかななにかの上に乗せられた。目をなにかがおおった。優しい暖かさが目を包み込んだ。


 しばらくして目が開いた。目を覆っていたのは手だった。その手はそっとのけられた。その先には心配そうな美砂ちゃんの顔があった。

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