第75話

 “ビクッ!”とする先輩。思わずコップをはなした。元の位置に戻る俺のコップ。幸いまだ台からほとんど離れてなかったので割れたりはしない。


「えっ? なんで?」


 奥名先輩が混乱してる。だって先輩からしたらあり得ないことが起こったんだもの。手にしたコップの周りには“なにもない”はずなのに、まるでコップが“隣のなにか”とぶつかったかのような“音”がしたんだから。まるでコップが“隣のなにか”とぶつかったかのような“感触”がしたんだから。


 ようやく冷蔵庫の危機が回避できたと思ったら、またもや新たな危機発生だ。


 あわてた。そして心の中で小さく舌打ちした。後ろにいる久梨亜のやつをちょっとにらみつけた。なんだよ、“不可視属性”って物を見えなくするだけで消し去るわけじゃないから、視覚以外では感知できんのかよ。


 なにが完璧だ。なにが無問題モーマンタイだ。


 しかしまずいぞ。いったいどうしたらいいんだ。

 あの両隣にある“見えないコップ”の存在を先輩に気づかれてはならない。今はまだ“なんかおかしい”という段階で“なにかがある”という確信には至ってない。そうなる前になんとかしないと。


 あのふたつの“見えないコップ”を俺が取り上げるか? いや取り上げるにしても、俺が“見えないなにか”をあそこから取り上げたってことは先輩にもわかっちまう。かといって取り上げなければ“見えないなにか”があそこにあるってことが先輩にもいずれわかっちまう。


 するとどうなる? まさか光学迷彩だと言うわけにもいくまい。攻殻の時代はまだ先。現代の人類には不可能。ということは魔力の存在を明かさなくっちゃならなくなる。回り回って美砂ちゃんと久梨亜が天使と悪魔だってことが奥名先輩にばれちまう。


 大博打おおばくちの第4の、最後の、そして最も大切な勝負、「中に入っても(俺と美砂ちゃんや久梨亜が同居しているという)決定的な証拠を見つけないかもしれない」は俺の敗北に終わっちまう……。


 と、そこへ今度は悪魔の救いが現れた。唇が俺の耳元で動く。


「英介、あんたのコップのほうを取り上げるんだ。それを見せてる間にあたしがなんとかするから。早く!」


 久梨亜の声だ。さっきまでの美砂ちゃんに代わって俺の耳元でささやいてる。息が耳をでる。あたたかな唇が触れんばかりに近くにある。でもなんでだろう。同じように耳元でささやいてるのに、美砂ちゃんのときと違ってやたらとエロく感じるのは。

 いや、エロい妄想に浸っている暇なんかない。行動の遅れは疑念に繋がる。

 俺は素直に久梨亜のアドバイスに従うことにした。


 俺は先輩にも見えている俺のコップを取り上げようと手を伸ばしかけた。しかし一瞬遅かったのだ。


 先輩は俺のコップの右隣の空間に向かってにゅっと顔を近づけた。そしてそこめがけて“ハアー”っと息を吐きかけた。たちまち白く浮かび上がるコップの形。

 コップ自体には“不可視属性”がついてるけど、それにかかった息の曇りにまで“不可視属性”をつける力はなかったのだ。


「えっ? なに? なんかある!」

 頓狂とんきょうな先輩の声。


 それは決定的な瞬間だった。すなわち“なんかおかしい”という段階から“なにかがある”という確信へと変わった瞬間だった。

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