夏は奇跡を起こしてくれる

ノグチソウ

第1話・とある夏の終わり

 夏休みが終わった。夏が終わったとは言えないけれど。

 中学二年の夏休み。最後の思い出は、最終日の八月三十一日に小学一年生の妹を連れて夏祭りに行ったことだ。屋台で所持金が大幅に削られ、妹が「らいしゅうのおわりにはなびたいかいがあるからいっしょにいこうね」と無邪気に言うのでどうにかごまかした、という他愛無いことがあったくらいだが。

 当然のように二学期が始まり、平凡極まりない日々が続く。そんなとき、僕にとって忘れられない出来事があったのだ。

 結末までは書けないが、そこは想像にお任せしよう。


「僕らって、青春を満喫できているかな」

 開始直後の昼休み。教室で席についたまま、僕は向き合っているさかきさんにそう切り出した。彼女は、少し考えてから口を開いた。

「できているんじゃないですか。私は楽しめていますよ、この中学校生活」

 やはり榊さんはそう言うだろう。しかし、僕は違う。

「僕は、上限まであと少し足りないんだよ」

「上限、ですか。そんなの私にはないですけど」

「僕の場合は、目標があるんだ」

 目標。今日それを達成しようと考えている。

「へえ。どんな目標なんですか」

「えっと」

 息を吸って、用意していた言葉を口に出そうとしたところで突然、甲高い音が響いてきた。少し驚き、僕と榊さんが音源のほうを見ると、廊下で数学教師の吉良先生が電話に出るところだった。どうやら、電話の着メロだったらしい。僕らの席は廊下に面した列にあるため、先生の男にしては高い声はよく聞こえてきた。


「もしもし、吉良きらです……うん……そうだ、明日が勝負の日だ……それは今夜、うちに持ってきてくれ、くれぐれも慎重に……そりゃあ、俺の人生がかかっているんだから……大丈夫、明日は晴れだ……そんなに心配するな……ああ、がんばる」


 終始、気を抜かない表情と口調のままで会話を続け、そのまま電話を切った。無言で僕らは、廊下を歩き去る吉良先生を見送った。

時男ときおくん。今の、どう思いますか」

 先生が廊下を曲がり見えなくなったとき、榊さんが訊いてきた。僕の台詞が遮られたことは、既に忘れ去られているようだ。少し腹立ちながらも、気を取り直して応じる。

「珍しい、とは思うよ。いつも軽い雰囲気の吉良先生が、真面目な声で話してたから」

「何かあったんでしょうか。『勝負の日』、とか言っていましたけど」

 見ると、榊さんはあごに手を当てて考え込んでいた。声を掛けようとしたところで、彼女が顔を挙げた。

 何かを願う目、だった。

 長年、というほどではないが、それなりの付き合いの積み重ねにより、瞬時に何を願っているのかは悟ったが、『それ』はもう嫌だった。『それ』だけで繋がる関係性は嫌なのだ。もう変わりたいのだ。

 しかし、一応聞いてみることにしよう。

「どうしても?」

「どうしても」

 即答だった。懇願する目のまま、数秒の沈黙が流れた。

「……やってみようか」

 その言葉を聞いて嬉しそうに微笑む榊さんを見ながら、僕は反省する。

 まったく、僕はどこまで榊さんに弱いのだろう。この展開で、僕が折れたのはもう何度目だろうか。でも、仕方がない。

 彼女は、大好きなのだから。

「じゃあ、始めようか。榊さんの大好きな、推理大会をさ」


 僕、重出時男おもいでときおが、入学したばかりの頃に出会って一年五か月。その頃から変わらず誰に対しても敬語を使い続ける榊樫子さかきかしこさん。

 僕の知る限り、最高のひらめき力を誇る榊さんの趣味が、推理だった。

 推理、と言っても難事件の解決や超常現象の解明などではなく、身近なところで起こる小さな謎について、推理よりは推測に近いもので真相に達することを気に入っているのだ。

 そして、それに付き合わされるのが常に僕なのである。

「覚えていますよね、会話の内容」

 現実に戻ろう。喜々として推理の準備を進める榊さんが、目の前にいる。

 ちなみに触れなかったが、僕らは机が前後に並んでいるので、前に座る僕が椅子を反転させて向き合う形になっている。クラスメイトはほとんどが校内に散らばり何らかの青春をしているため、教室内に残るのは、数人の読書好きな無口生徒を除けば僕たちだけだ。彼らを除く必要があるかはともかく、二人での会話を邪魔する者はいない。

 お互い、友達が多いわけでもないし。

 ……それはともかく。覚えているかと聞かれたので、正直に答える。

「『もしもし、吉良です……うん……そうだ、明日が勝負の日だ……それは今夜、うちに持ってきてくれ、くれぐれも慎重に……そりゃあ、俺の人生がかかっているんだから……大丈夫、明日は晴れだ……そんなに心配するな……ああ、がんばる』」

「さすがですね、記憶力の天才は」

 そうじゃない、はずだ。よく分からない。

 昔から、ものを覚えるのが好きで、細かい出来事も正確に記憶して生きていここうと努めていたら、人に驚かれる記憶力になっていた……らしい。

「僕には、榊さんのひらめきのほうが羨ましいよ。じゃあ、この言葉の中から分かることを探らないと」

 それでは、推理を本格的に始めていこう。

「簡単なことから始めますか。まず、少なくとも明日は何か大事な日であるということ。そして、決着をつける日であるということが分かりますね」

「明日は九月十日、土曜日だね。僕らにとっては何もない日だ」

「勝手に私の予定を決めないでくださいよ」

 少し怒ったように言い返してきた。

「ああ、ごめん。どこか行くの?」

 僕ら二人は帰宅部だから、自由に予定を入れられて楽だ。

「いや、別に。暇人扱いされたくなかっただけです」

 ……榊さんは変なところでプライドが高い。

「まあ、いいや。それにしても、『あれ』っていうのが気になる。『慎重に』運ぶ必要があるみたいだけど。高価なのか、それとも壊れやすいのか。ううん、何だろうね」

「『勝負』に使うのでしょう。スポーツでしょうか。『人生がかかっている』スポーツというのも恐ろしいですね。吉良先生、何かスポーツやってましたっけ」

 少し記憶を探ってみる。僕の場合、深くまで記憶を探るときは目をつむり、映像を逆再生させるように思い出していく。

 以前、榊さんにそう言うと、「『思い出』を――『時を』さかのぼらせて探るわけですね。名前の通り」と言われた。駄洒落だ。

「ううん。僕の知る限りでは、先生はインドア派だからね。学生時代のことまでは分からないけど、少なくとも現在打ち込んでいるスポーツなんてなかったはずだ」

 吉良先生に関係する記憶を一通り思い出してみたが、スポーツに関係することはない。

「スポーツの線は消えました。でも、『晴れ』が重要というのは鍵ですよ。つまり外で何かを行うんです」

「インドア派が何かを外で行うって時点で、どこか不自然なんだけどね」

「つまり外でやるべきこと、または行くべきところは、ある程度重要ということになりますね。そして、電話の相手から心配されているし、本当に大変なようです」

 なるほど。重要で大変であることが明確になると、真相の可能性が大きく削られてくる。

 でも、それは別の問題を生む。

「……やめたほうがいいのかもしれませんね」

 僕と同じことに、榊さんも思い至ったらしい。つまりは、個人情報の問題なのだ。

 『勝手に人の個人情報を推測するのは、道徳的にどうなのか』。

 ときどき読む推理小説でも言えることだが、これまで榊さんとの推理大会に付き合わされると、たびたび考えさせられてしまうのだった。

「でも、それは前に結論を出したじゃないか」

 他でもない、榊さん自身が。そして少なくとも、僕はそれを記憶している。

「真相を知っても、本人たちに影響を与えない。真相が分からなくても、追及しすぎない。何より、僕ら二人以外を巻き込まない。この三つを絶対順守する。それでいいはずだ」

「……そうですね。これは私の、生き甲斐ですから」

 生き甲斐。その言葉が嘘ではないことを僕は知っている。彼女は、『将来の夢が名探偵』という時期があったほどのミステリー信者なのだから。

「ひとまず、会話からの読み取りは置いておいて。時男くん、吉良先生のことで覚えていることを教えて下さい」

 気を取り直したらしい榊さんの言葉で推理再開だ。教えて下さいと言われたら、答えるしかない。

「吉良雲男。二十八歳。性格は、一言でいえば楽天家。二年二組の担任で、担当教科は数学。生徒からの人気が高いわけではないが、誰にでも優しいから特にトラブルはない。常にスケジュール帳を持ち歩いている。この学校から数百メートル離れたマンションに一人暮らししていて、一昨年の九月からケーキ屋で働く女性と交際中。趣味はゲーム、最近はプレイステーションのアクションゲームにはまっている」

「後半、何で知ってるんですか、怖いです。もうストーカーみたいになってますし」

 訊いたのは榊さんなのに。それに知っているのではなく、記憶しているだけなのだ。

「でも、やはり普通の成人男性ですね。もう突っ込むところもありません」

「別に先生も、突っ込まれたい生活を送っているわけじゃないだろうけど」

 確かに、吉良先生も平凡な人だったのだな、と改めて思う。僕らみたいに特殊らしい部分もなく、少しうらやましい。

 この記憶力が、マイナスに働くときも多いというのに。

「これらの情報は頭に入れておくだけにしましょう。次は、九月十日という日付け自体について考えます」

「九月十日、か」

 誕生日が九月十日の人は何人か知っているが、このことには全く関係がない。世界自殺予防デーだとテレビで見た記憶があるが、それも無意味。

 このように記憶力が良すぎるということは、余計なことまで覚えてしまうということ。これが悲劇を生んだことも、少なからずある。

「去年、何かありましたっけ。時男くんなら、がんばれば一年前の記憶ぐらい引き出せそうですけど」

「ちょっと待って、思い出すから」

 目を瞑る、逆再生。今回は一年前の記憶だから、しっかりと集中する。

 ん。

「九月十日に、去年も気になったことがあったんだよ」

 そうだ、なぜ忘れていたのか。

「え、本当に思い出せたんですか。というか同じことというのは、不思議な会話があったってことですか」

「いや、そうじゃなくて。吉良先生の様子がちょっと変だったっていうことなんだ」

 昼休み、教室で本を読んでいた記憶がある。それこそ、この教室の無口読書生徒のように。確か、榊さんは何か友達に頼まれたとかでいなかった。

「その場に私がいたら、気になってそのときに推理をしようと思い立ったはずですしね」

「あ、でも深刻な表情になってたとか、そういうのではないよ。なぜか嬉しそうだったんだ」

「嬉しそう?」

「いや、何かを楽しみにしてるみたい、かな」

 感情に精通しているわけではないので確かなことは言えないが、先生が廊下でスケジュール帳を眺めて笑っていたのだ。気持ち悪いな、何かあるのかな、ぐらいにしかとらえておらず、そのときは特に何も思わなかったのだが。

 そのときの様子をできるだけ細かく榊さんに伝えた。しかしその表情は、まだひらめきが浮かんだようではなかった。

「一年前にも、ということはそういう大会でもあるんでしょうか。その『勝負』の大会でも」

 一年ごとに行われる大会なんてごまんとある。そこから絞っていくことは難しいだろう。

「あ!」

 榊さんが大声を上げたので、さすがに驚いた。何か思いついたのか。

「先生は、九月十日に『楽しみ』だったんですよね」

「ああ、そうだよ」

「つまりさっきの台詞と合わせて考えると、その当日が『勝負の日』だったということになります。そして楽しみにしているということは、時男くんがその先生を見た後に『勝負』があったってこと。違いますかね?」

 ああ、そういうことか。

「なるほどね。僕が見たのは昼休みだから、少なくともその後。学校で何かあったわけじゃないみたいだから。……夜か」

 夜に何かするとしたら、たぶん放課後すぐに帰ったのだろう。そこまでしてやりたいことって何だろう。九月十日の夜……あれ?

 九月十日の、夜?

「あ」

 次に声を出したのは僕だった。自分の馬鹿さに呆れながらの声なので、大声ではなかった。

 我、まことに愚かなり。

 何かあったのかと首を傾げる榊さんに、僕は、おそらく鍵となる情報を伝えた。

「明日の夜、花火大会があるよ」


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