怠惰の国のカオス

加藤雅利

第1話 カオス・カオス・アリス

 怠惰の国のアリス――


 不思議の国のアリスとして不条理な住民たちと不条理な冒険をさせられて…

 鏡の国のアリスとして屈折したルールのゲームをさせられる…

 という具合に、ふたつの想区に共有される役目を持ったヒーロー『アリス』。


 ゆえに彼女の持つストーリーはただでさえややこしく、その上チャールズ・ドジソン=ルイス・キャロルの難解な原典から作られている。

 そのせいで、ある想区のアリスは疲れに疲れ、その心の隙を『部外者』に突かれることになる。


 …もう不条理な系の冒険をこなすことなどしたくない、うんざりで、辛い。

 全てがとても、めんどくさくなってしまった。

 何もかもが嫌になり、何もしたくない…


 だからアリスは、自分を引っ張りまわそうとする物語を破壊し、平らで何も起こらない更地にすることにした。

 そうすれば、何もしなくて済む。

 その考えで頭をいっぱいにしたアリスはカオステラー『カオス・アリス』となり、ストーリーテラーの作った物語を書き換えようとした。

 不思議の国を制圧して、歯向かう者を始末するまでもう少しというところまで、カオス・アリスの思惑通りに進んだ。

 未来永劫「わけのわからない物語」を停止するために、ハートの女王の城を手中に収め、邪魔者を排除し、或いは封印した。

 あとは、カオステラーの力で、不思議の国・鏡の国の想区を書き換えて、ずうっと幸せな怠惰の夢を見る。この先、理解に苦しむ話にアリスが巻き込まれることはなく、めんどくさいとおもったら寝て暮らすだけの想区になるのだ。

 だが反アリス、つまり反カオステラーとなった登場人物たちは『調律の巫女』の協力を得て、カオス・アリスの企みを阻止した。


“It takes all the running you can do, to keep in the same place.”


 これは赤の女王の言葉で、立ち止まった者はその場に留まることさえ出来ないことを示している。

 アリスの物語を停止させて怠惰に塗りつぶすことは、彼女が素敵なレディになるという結末の可能性までも消してしまう。

 確かに、話が通じているかも分からないような帽子屋と三月ウサギとのマッドなお茶会や、ルールも分からないままハートの女王とゲームを続けるような日々は、それはめんどくさくあるし疲れることだろう。

けれども、と赤の女王は説得した。

 この先の未来は、ずっと複雑さの迷宮に閉じ込められる苦しいだけのものではない。幸せや楽しさ、良き友もまた、そこにはあるのだ。

 振り返ってみれば、これまでのアリスの冒険も、そうだっただろう? 怠惰に立ち止まれば、輝ける面までもが崩れ去ってしまうのだ。

 と、この言葉を聞いたカオスアリスは、不条理のもたらす疲れも楽しみも受け入れ、再び怠惰から前進へと立ち上がるのだった。

 やったねアリス、またひとつ成長したんだ! めでたしめでたし! 


  ――とまあ、これが或る『アリス』の想区で起きた出来事だった。

 調律された想区のアリスはその後、主役として残りの役目を果たしていき、やがて主人公の座を降りたことだろう。そうして何年かの後には、また新たなアリスが想区に現れ、物語は繰り返されていくのだ。

  めでたしめでたし!


 ◇ ◇ ◇


 まったく…『その想区』はそれでいいのだけれど。


 とカオス・アリスは思う。

 登場人物の行動が『運命の書』から大きく外れた時には、調律によって物語が正しい展開へと戻されるだけでは終わらないことがある。

 創造主共のうち誰かが『内容の変化した物語』があったことに気付き、あまつさえ気に入ってしまった時には、その新しい筋書きを持った想区が作られるのだ。

 それは実際に起こった。

 アリスがカオステラーとなり、不条理の力を制御することで不思議の国を支配しようとした物語が、想区となってしまった。

 主人公はカオス・アリス。

 まずアリスはオックスフォードや不思議の国、鏡の国を行き来する冒険をする。 多くの登場人物と会い、めんどくさい会話を繰り返すうちに次第に疲れていき、カオステラーとなる。

 …というように、かつて起きた展開をなぞるように物語は展開していく。

 ややこしいことに、この想区のカオステラーは『役』の名前である。ストーリーテラーに反逆する者が現れるということすら台本の一部分なのだった。

 原典となる想区では、ロキと名乗る外部からの放浪者がアリスに未来の悲惨さを教え、カオステラー化させていた。だがこの想区では本物のロキを用意することが出来ないため、想区の中の人間がその役目を与えられているに過ぎないのだった。

 最終的には赤の女王の言葉により、アリスは自分自身を見失わないために、怠惰に留まることをやめて、進み続けることになる。

 それがこの想区で繰り返されるカオス・アリスの物語だ。

 

もはや想区が出来てから物語が何周したのかも分からない時に、

 何代目かにあたるカオス・アリスはこれまで通り『運命の書』に記された通りに“真面目に堕落”していた。


「めんどうくさい」

 とカオス・アリスは、予定されていた言葉を発した。それは本心でもある。

 不思議の国のアリスに加え、鏡の国のアリスの主人公でもあり、さらにカオス化までをこなさなくてはいけない。

 こんな想区を生み出したストーリーテラーは、余程の物好きに違いない。あの元気いっぱいのアリスが堕落しきっただらしのない姿に、何かしらの感銘を受けたというのだろうか。

 カオス・アリスは手を軽く握り、唯一伸ばした親指を前歯で挟んだ。不条理に押し潰されてしまう少し心の弱いアリスの癖を、演技している。

「アリスちゃん、めんどくさくても、食べて寝て遊んで暮らすには、やらなきゃならないことがいっぱいあるにゃ!」

 友達の役目を持つダイナが言う。

 カオス・アリスは元々は何もかもが嫌になって、やりたくなくなった人物だ。だがそれでは想区への侵攻すらしないままずっと、ハートの女王の城でベッドに寝転がり続けてしまう。

 だからこそカオス・アリスの行動を促す味方が必要なのだ。

 もっとも『運命の書』の内容を無視したカオステラーとは違い、この想区のカオス・アリスは台本の通りにカオス化しているので、友達であるダイナの助けは必要なのだけれども。

「ジャバウォックは封印したにゃ、あとは敵の派閥を追い掛け回すにゃ!」

「めどい」

 カオス・アリスは、気怠い声を作り、短く発言した。近くでは眠りネズミが座り込んで、寝息を立てている。

「そんなこと言わないで行ってくるにゃ」

「あー、うざい。こんなめんどうなことをしなけりゃならないなんて。ダイナが行って来てよ」

「不思議の国はアリスちゃんのための場所にゃ! 不条理の力を持つアリスちゃんが一番強いにゃ!」

「だから?」

「赤の女王を追い立てるには、アリスちゃんが一番だにゃ」

「めどい」

「そうだにゃ。めんどくさくてうざい奴らは倒さなきゃ、アリスちゃんの望む怠惰の国を作れないにゃ」

「うざい奴らは、邪魔」

「なら早く、お片づけをしに行くにゃ」

 こくりと、カオス・アリスは頷いた。左右ツインにまとめた髪の房が揺れる。

ゆっくりと歩いて城の一室を出ていこうとする。服に沁み込んだ寝汗の香りが、微かに漂う。

「あ、アリス、おめかしくらいしていった方がいいにゃ」

「めどい」

 外に出るというのに、カオス・アリスは髪も整えずにいる。こういう役なのだから、当然そうなる。

 元気はつらつ、身だしなみにも気配りをするレディになってしまっては『運命の書』に描かれた人物像と違うことになるので、仕方がない。

「アリス……すっかりだらしなくなったにゃ」

 ダイナはそう言うが、それもまた決められたことなのだった。

いってきますと部屋の中に告げようとして、やめる。

 カオス・アリスの進む先、部屋の出口には長髪の男が立っていることに気が付いたからだ。

 想区にカオステラーを出現させるために暗躍するロキだ。正確には、この想区においてはロキの役目を持つ『登場人物』なのだが。

「おや、お出かけですか、アリス様」

「邪魔な奴らを、片付けに行く…」

「クフフ、そうです。語り部の作った残酷な未来を避けるには、運命の歯車を壊すしかないのですよ」

「運命の、歯車を壊す…」

「そうです。そしてストーリーテラーの作った運命から解放されるのです」

 と、まあこのようにしてロキは言葉巧みに、アリスがカオス化するように誘導していったのだろう。

 カオス・アリスは感心した。目の前にいるロキは、役目通りに喋っているだけだけれども、原初のロキは澱みなく流暢にアリスを言いくるめたのだ。すらすらと思うがままに他人を動かす言葉を紡ぎ続けられるクレバーさは、天性の詐欺師か、余程自分に自信があるか、信念の狂信者だったに違いない。

 それとも、決められたようにしか生きていない、もっと言ってしまえば自分で考えなくても行動を決められている想区の人間とは違い、『空白の書』の持ち主は皆あのように頭が回るのだろうか。

 だが目の前のロキは、これ以上は何も言わない。

 『ロキ役』は本来のアリスの物語にも登場しない、イレギュラーな脇役だ。しかもこの想区のストーリーテラーはカオス・アリスの話を作りたいだけであって、ロキは仕方なく登場させた人物だ。

 本物とは違い、台本に書いてあることしか話さないし話せない。ゆえに余計な台詞を自ら言うことはないのだ。

「ええ、始めるわ、この想区の『カオス』を」

 カオス・アリスはそう言った。

 ロキは、何を言われているのかを分からないという顔をした。アリスがカオス化するという台本は何日か前に終わっているではないか。そう思ったに違いない。

 直後、ロキの顔は驚きに変わる。

 やや金属質の音が、部屋に響いた。

 行動を起こしたのはカオス・アリスだった。

 手のひらよりも大きく、鉄よりも頑丈なトランプを扇のように広げていた。

 それは武器であり、レプリカとはいえ『主人公』格の人間が扱うものであるために、殺傷能力はかつてのカオス・アリスのそれとまったく変わらない。

「あっ」

 とロキが発したのは、既にその喉元に凶器が突きつけられた後だった。

 カオス・アリスは主人公、それもカオスヒーロー級の存在だ。見た目こそ気弱な女の子だが、ロキの首をトランプで断ち切るなど造作もない。

「何を、なさるのですか…! 『運命の書』にはこのような行動はないはず! いや、それとも行間を使っただけの遊びですか?」

 想区の住民の役目が書かれている『運命の書』には、物語で起きる重要な事象や、必ず言うべき台詞が記されている。ただし程度にもよるが、あまりにも細かいことは書かれていない。雑談の内容だとか出かけるときの歩数だとか、そこまでを決めると膨大な量になってしまうからだ。

 物語を繰り返しているというのに毎回が完璧な再現とはならないのは、役者が違うこと以外にも、こういった行間の差異が現れるからだ。とはいえ物語を大きく変えるのはストーリーテラーのお気に召さないらしく、ヴィランをけしかけられたり想区が自爆したりしてしまうのだけれども。

 ともかく、決められたポイントさえ踏み外さなければ多少の振れ幅が許されるので、想区の住民はそこで雑談をしたり、余興を挟んだりする。

 いまカオス・アリスがやっているようにロキへと武器を突きつけたくらいは、まだ物語を台無しにするには至らない。

「アリスちゃんがアドリブ遊びをするなんて珍しいにゃ」

 ロキもダイナも、カオス・アリスの行動をただの遊びと思っているようだ。

 だが、カオス・アリスは笑みを作らない。

「ええ、これは遊び。ちょっとした大真面目な遊びだから、遊びじゃなわね」

 そう言って、トランプを横に振るう。

 スカッ。

 と空振りが、ロキの首を掠める

 明らかに脅かしだった。もし当てるつもりの斬撃だったならば、首を一撃で刎ね落としていたことだろう。

「『アリス』は自分に逆らう者を倒しに行く前に、親しいおじさまの作り上げた世界に突如現れて未来を吹き込んだ男を不審に思い、閉じ込めておくことにした……」

「何を言い出すのですか、アリス様」

「今、私の考えたお話よ」

「アリス、それはなんだか…ストーリーテラーみたいだにゃ」

「ええそうよ。これからの展開を少し変えようと思ったの。どちらかと言えばストーリーテラーの作った話を書き換えるから、カオステラーね」

「おやめください、それでは貴女は本物のカオステラーになってしまいます。そうなれば、想区も終わりです」

 ロキが首筋に汗を浮かべながら、カオス・アリスに言う。

「カオステラーはもっと残忍で、手段を選ばないわ。だから私はまだまだ偽物よ。でも想区のカオスヒーローなのだから本物であって偽物ともいえるけれど。さあ想区が崩壊する前に今ここで終わるか、大人しく牢獄に入るかを選んでよ」

 次にトランプを振るときはロキの首を落とす、そう言いたげだ。

 床で寝ていた眠りネズミが目を覚まし、なんだかめんどくさそうなことをしているなという目で、再び瞼を閉じた。

 重要度の低い登場人物であるロキには、もはやどうすることも出来ないのだ。ただしあっさり殺されるのは嫌なようで、牢に入れという言葉に渋々と従い始める。

「逃げたら首を跳ねるわ、裁判なしですぐ処刑よ」

 と釘を刺すことも忘れない。

「さあダイナ、この男を牢に連れていきなさい」

 カオス・アリスは、そう命令する。

 ダイナは近づいては来たものの、

「アリスちゃん、どうしてこういうことをするんだにゃ?」

 と疑問をぶつけてくる。それは当然と言える。

 この想区の原作とも言える『どこかの想区』でアリスがカオス化したのは、様々なややこしい冒険をすることに疲れたことと、ロキの策略により将来を悲観してのことだ。気の弱い、それでいて思考もアリス・リデルに似ているアリスだからこそ、そうなってしまったのかもしれない。

 ではこの想区のカオス・アリスは?

 赤の女王の説得によって怠惰をやめて未来へと歩むという結末すら知っているし、ロキの言葉がアリスの感情を揺さぶるための罠だったということも知っている。

 アリスの未来が暗いものではないことすら知っている。カオス・アリスは『あの』想区のアリスは『運命の書』をケツまで熟読しなかったのではないか、と推測しているくらいだ。おそらく次に何をすればいいのか答えを見るようにして、毎日2、3ページずつ先を読んでいただけなのだ。

 だから暗い未来を告げられただけで、思い悩むことになる。想区のアリスは『アリスの物語』を再現する登場人物であって、アリス・リデル本人ではないというのに。

 事実あの想区のアリスは、立派なレディになり、主人公を退いた後は幸せに暮らした。恋の失敗に心を痛めることも無ければ、戦争で二人の子供を失うこともないのだ。モデルとなったアリス・リデルとは別人の『アリス』だからだ。

 当然、この想区でもアリスの将来に暗い影はない。友や愛する人との別れなど悲しいことはあるけれど、理不尽を感じるような作為的な運命とまではいかない。

 で、あるならば……どうしてストーリーテラーの作った運命に背くのか。

 

 カオス・アリスはダイナに告げる。

「運命を無視してから何が起こるかが楽しみだったからだよ」


 決まっていない物語への憧れ。

 それは、自身がカオス・アリスだったこと自体が原因だった。

 カオス・アリスの運命は、あるアリスの想区で起きたことを元に作られている。だからアリスの物語にさらに話が設されているようなものだ。

 カオス・アリスは怠惰を演じる運命にあったが、その内面は実に真面目で好奇心旺盛で、頭もよかった。

 運命の書を初めから終わりまでちゃんと、読破したのだ。

 それなりの厚みはあったが、夜寝る前に少しずつ読み進めるだけでも一年あれば十分だった。


 なんて面白いのだろう!


 というのが、運命の書に対する感想だった。

 それもそのはずでカオス・アリスの『運命の書』は、ルイス・キャロルが本物のアリス・リデルを幼少期に楽しませたの童話『不思議/鏡の国のアリス』そのものと言ってもよい内容だったからだ。

 不条理だったり、ひねくれた会話もたくさん出てきたりしたが『運命の書』は読み物としてもこの上なく出来がよかったのである。

 これからの運命を何度も読み返すうちに、想区に対する知識もついてしまった。

 カオス・アリスの『運命の書』にはカオス化した登場人物を演じるために必要な情報が多く書かれている。さりげなく書かれていることもあれば、注釈や備考として載っていることもあった。

 そこでカオス・アリスは知ることになる。

 運命の定められていない『空白の書』を持つ人間のことや調律、物語を書き換えて想区の住民をヴィランに変えるカオステラーのことを。

 飽きるほど読んだ、これからの物語。それを、今度は何が起こるか分からない、決まっていない展開へと変えることも出来るかもしれないのだ。

 カオス・アリスはカオスヒーローとしての強大な力を持っているので、運命を変えようとしたことに対するペナルティにも対抗できる。

 なんだか素晴らしいことのように思えた。

 そうしてカオス化の種は、芽吹いてしまった。


「私はカオス・カオス・アリスとでも名乗るべきかしらね」


 先ほどまで怠惰を装っていたカオス・アリスの目がしっかりとした意志力を湛えている。戸惑うダイナへと、その視線は向けられているのだった。


◇ ◇ ◇


 ――同時刻、想区の端にはヴィランが現れていた。

 ストーリーテラーの作った、想区の物語を防衛するための怪物だ。ヴィラン発生の仕組みをカオステラーが利用して、先兵として使うこともある。

「クルルゥ」

 と笛のような鳴き声を上げたのは、成人男性よりは小型の黒い鬼。

 このヴィランはカオス・アリスのものではなく、それでいてストーリーテラーのものでもないのだった。

 まさにカオス・アリスが『運命の書』の通りに想区へと侵攻したついでに“これは演じているのではない”と言いながら(この想区には変わり者が多いので、はっきり言わないと台本を無視したことに気付いてもらえないのだった)リアル侵攻しているときに、もう一つのイレギュラーが想区を汚染しようとしていた。

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