第31話 引き上げ
東京着十時十分。駅弁を購入しマンション近くの公園で早めのランチをとる。
日向ぼっこをしている老夫婦、おしゃべりし合うママ友達、走り回る子供達、水辺に佇む鴨の群れ。そこにはゆったりした時間が流れていた。休日はここをランニングコースに入れようと道具をひと通り揃えていたのだができなかった。後悔ばかりが募る。一時間ぐらい呆けてから重い腰を上げた。
マンションに入り届けてもらった段ボールをフロントで受け取り、引っ越し作業を開始した。座布団、布団カバー、歯ブラシ、コップ、便座カバー、マットなどはまだ使えたが、この部屋の悪い気を吸い込んでいそうで使う気は失せていた。
十三時、引っ越し業者の集荷で七六六〇〇円を支払う。不動産屋が部屋の損傷の確認をしに来るまで待機。何もない部屋。嫌な思い出しかない。
不動産屋と別れて五反田へと向かう。二〇一五年九月十七日に悩みを打ち明けた唯一の女性に会いに行く。頻繁に通っていた店の風俗嬢だった。
「久しぶりね」
「そうですね......」
友人にも店のスタッフにも相談できなかったが彼女は例外だった。お互いに本当の名前も知らない嬢と客。だからこそ気軽に話せた。彼女の変わらない声と笑顔を見て緊張が解けた。
溜まらなくなって私は彼女に襲いかかった。
淡い光の中、ベッドに座りながら着替えて揺れる彼女の豊満な胸を眺めながら考える。「失踪当時は対人恐怖症で風俗店にも行けなかった。あの頃と比べて自分はマシになったのだろうか? 」と言う確証と、いつも元気をくれた彼女に最後にお別れが言いたかった。
「どうしたの? 」
「今日で会うのが最後かもしれない」
私は事情を告白した。
「今日で引っ越しも終えた。田舎に帰る前に直接会って話がしたくて。色々お世話になりました」
深く頭を下げる。彼女は親身になって話を聞いてくれた。実は彼女のお父さんも鬱になって自殺していたらしく、鬱病に対しての理解も知識もある人だった。
「前会った時病んでたもんね〜。実は私もあの頃仕事で色々会って落ち込んでてね。言い出せなかったのよ」
私は驚いた。あの時は自分のことしか考えていなかった。
「今は大丈夫よ。最近エステに通ってそこで愚痴も聞いてもらってるの。夏までには痩せたいわ」
おどけて自分のお腹の肉をつまむ彼女は終始笑顔だった。
「病気が治ったらまた東京に来なよ」
「いや、それは......」
「あんたなら大丈夫よ。今日だって来れたんだし。しぶとい人間なのよ」
背中を叩かれた。明るく前向きな彼女にはいつも癒される。姉御......心の中で呟く。
「頑張りすぎないように頑張るよ」
「お互いにね」
駅まで仲良く腕を組んで歩き、名残惜しく別れた。
その後近所のよく通っていた焼肉屋に向かう。仕事の帰りによく利用していた店だった。失踪中にご飯を食べるとき、常に後ろめたい気持ちがつきまとっていた。店員が忙しく働いているのを見ると、かつての自分を思い出してしまうのだ。生ビール、センマイ刺し、キムチ盛り合わせ、タン塩、シマチョウ、マルチョウ、ミノを順に食べる。さらに麦焼酎をロックで流し込むが、いくら飲んでも酔えなかった。
店を出て新宿に向かう。そこでかつて自分が泊まり歩いた場所を巡ってみた。キャッチの兄ちゃん、中国人観光客、キャバクラ嬢、黒服。街はごった返し活気にあふれていた。歌舞伎町のエネルギーが自分には心地よかったのだろうか? 再びこの地に来ても嫌な気はしなかった。気分が高まって来た私は世話になったYに連絡を取り新橋で会うことになった。
「あまり人は呼ばないで」
それだけ要求した。
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