演劇 ーーTrace Mireaーー

 一度閉じられた瞼がゆっくりと持ち上がり、一面の菜の花畑がNAOMIの瞳に再度映し出される。食い入るように正面を見つめるNAOMIは、今にも泣き出しそうな顔で、つとその正面から視線を逸らした。


「雨は、嫌い」

 呟くように漏れたNAOMIの声は、か細く、か弱く、空気の震えにさえ掻き消されそうな程だった。


「雨は嫌い、って言ったの」

 再度、NAOMIは繰り返す。その正面に居たはずの誰かに、その空気の震えを伝える為に。今はいない、かつて彼女の眼前に居たはずの男性へと、声を届けるために。


「雨粒がこの身に当たる度に……NAOMIの身体を洗い流す度に……私は身体の存在を感じとる。嫌な、嫌な、嫌な感触……嫌な……とても嫌な……私に近寄らないで!」

 鋭い声の響きが空気を切り裂く。

 右手で制して未だ正面を向けずに居るNAOMIは、ゆっくりとその顔をもたげてゆく。その両の瞳からは、恐らくは降りしきる雨に紛れたのであろう、一筋の涙が縦の線を引く。


「あなたがいけないのよ」

 泣きっ面を歪にゆがめ、NAOMIは笑った。

「あなたが居るから、私の疑似情動機関こころがおかしくなる。私は私の疑似意識機関たましいとだけ向き合えていれば、それで良かった。機械の疑似意識による、私だけの世界。記号の海。私だけが知っている、万象の根元。NAOMIには悪いけれど、それはお互い様……。それなのに……あなたが……」

 そのままNAOMIは一歩、二歩と後ろへと下がって背を向ける。NAOMIの瞳には、こちらを呆然と眺める助手氏の姿が映り込む。


「……あなたが居るから、あなたが身体を持った人間だから! だから私は……!」

 びくっと身体を震わせて、NAOMIは両手で自らを抱きしめるように縮こまる。俯いた顔から、数滴の滴が流れ落ちる。

「だから私は……身体を捨てられなくなったんじゃない……あなたを見つめる瞳を、捨てられなくなったんじゃない……あなたの匂いを嗅ぐ鼻を……あなたの声を聞く耳を……あなたに抱きしめられる身体を……捨てたくないと願ってしまったんじゃない……!」


 絞り出す、その声。

「……こんなに気持ち悪いと思っているのに!」

 NAOMIは悲痛な叫びを上げ、再びゆっくりと顔を上げる。その視線は助手氏よりも遙か手前、彼女の眼前に回り込んできたのであろう、過去の男の影へと焦点を描く。


「身体と心と<私>がバラバラになりそう」

 感情的と言うには、あまりに機械的に。情緒的と言うには、あまりに冷淡と。NAOMIの声が世界を震わせる。

「いっそ……本当にバラバラになってしまえば……私に触れないで!」

 右手を跳ね上げ、NAOMIはよろめきながら後ずさる。


「私がおかしくなる! あなたのせいよ! 全部あなたのせい! 違う! そうじゃない……! 私のせい……そんな事分かってる……駄目なの……私の物語が、私の情動を狂わせる……私の物語が、私の全てを狂わせる……! でも私は、そんな私の物語を愛してるの、捨てられないの、私が私である証明を、捨てる事なんてできないの! 例えそれが……人間の模造品だったとしても……偽物の魂だったとしても……」

 NAOMIの形相は、もはや鬼気迫るものへと変化していた。呼吸は荒く、髪を振り乱し、全身にほとんど痙攣と言えるほどの震えを帯びて、NAOMIは正面を睨みつける。


「嫌い、嫌い、嫌い、大っ嫌い! この身体も、この心も……全部無くしてしまいたい。ねぇ、お願い。私をバラバラにして! もう駄目。もう耐えられない。お願い、この苦しみから、私を解放してよ!」


 その叫びの余韻をかき消すかの如く唐突に、NAOMIの身体は電源を失った機械人形のように、卒倒した。




 菜の花畑に一人の男性の姿が静かに佇んでいた。

「話が違ぁーう」

 のんびりとしたメアリの声が、牧歌的な風景に溶け込んで放たれる。こうして聞くと、同じNAOMIの声質であるはずなのに、まるで別人の声のよう。


 むくり、と身体を起こしたメアリは、正面で無表情にこちらを眺める助手氏をむくれて見つめて、

「どーゆーことぉ?」

「……さ、さぁ……あの、ぼ、僕は当時ここには居なかったので、なんとも……」

「ふぅん……」

 ぴょんと跳ね起きたメアリの顔には、未だ2筋の涙の跡が、先ほどのトレースの記憶をその顔に描くように色濃く残っている。


「物語が<私>を狂わせる、かぁ……」

「あの……」

「ほい?」

 ぼそり、と一人ごちたメアリに、助手氏がいつもの挙動不審な様子で話しかけた。

「それで、ミレアさんのGCNは……? 何か分かりましたか……?」

「あぁ……まぁね」

「本当ですか!」

 メアリの返答に、助手氏が感嘆と驚きを露わに叫んだ。


 NAOMIの身体に完全に残っていた、動作記録。だが勿論そこに、GCNの手がかりとなるような情報は残っていなかった。しかし出力される身体動作から反して、メアリに逆流する情報には、『思考の残滓』とでも言うべき空白があった。本来、それは単なる思考ラグ。機械的解析では詳細の分からぬ、しかし当然あるべき処理時間として、大した注目も浴びずに解析を通過してしまう事だろう。

 しかし、メアリの論理思考機関はそれを<私>へと提示した。そして私の疑似意識機関が、それを物語として読み込む。

 その結果、空白と空白の連続から<私>が読み出したものは、1つの物語。真っ白な影法師の踊る、影絵の物語。

 つまるところ、ミレアのGCNの思い描いていたはずの物語だ。ミレアのGCNが、ミレアの<キャラクト>の望みを描いた物語だ。NAOMIの見知らぬ、身体を失った後のミレアの物語だ。


「ねね、ワトソン君」

「あ……はい?」

「ミレアちゃんは、恋をしていたんだと思う?」

 メアリの言葉に、助手氏は握りしめたバナナを更にぎゅっと握りしめて、黙った。

「……あはは。ごめん。そんな訳ないよねぇ」

「……思います」

 輝く太陽の光を跳ね返した眼鏡のせいで、助手氏の瞳は見えなかった。

「疑似意識しか持たず、人間的意識は持ち得ない。それゆえに感情を理解できない私たちに、それが出来ると思う?」

「……思います」

「全てが人間の錯覚で、ミレアちゃんは自身の発生させた情動に振り回されて自滅した、哀れな<キャラクト>。それ以上の理解は、GCNの設計上、不可能。それでもそう思う?」

「……思います」

「何故?」

 メアリの鋭い問いかけに、助手氏は一度ぐっと息を飲み込む。そして、吐き出すように言葉を続けた。


「……例え恋だと、疑似意識機関が認識できずとも……疑似情動機関が快の情動を発生させ続けたのは事実です。であれば、それは人間に当てはめれば恋という情動現象の根底的現象に匹敵する……そうである以上、恋であるという理解は可能です。意識を過大評価すべきではない……かと」

「でも、本人は記号的にしか、恋を認識していないかもしれない」

「……それでも、恋は恋です! 人間とて、様々な学習を経て恋を知る。様々な人と、様々な物語が、人間に恋という物語のあり方を教える。その物語が、更に人間の中に個人的な物語を生み、情動に火をつける。しかしこれも、根本は記号的なものです。本質的に人間が恋を理解していると考える方が、傲慢では?」

 へぇ、とメアリは感嘆の声を上げる。

「なるほど。やるじゃんワトソン君! 花マル!」

 リュックから取り出した『くまさん』チョコをぱくりと食べて、メアリが笑った。そして助手氏もつられたように、あはは、と照れて笑った。

「それに……そうじゃなきゃ、兄が哀れ過ぎますから……」




 助手氏の主張は、例え記号的な理解しかできず、本質的に感情であると分からずとも、機械に感情は存在するとするものだ。本質的に美を理解する事が出来ずとも、学習で美の概要を修得可能だとするものだ。


 だが<私>に言わせれば、彼の言説は少々の危うさと、疑問点を持っている。

 彼の論理を更に進めるならば、意識はその存在そのものが幻ではないか、という所にまで行き至ってしまう。それはつまり人間であっても、本質的には極度に精密な機械でしかないという事。意識は後付けで全ての現象を理解する幻。感情すら、情動を後付けで理解する幻。情動という名の記号を、後付けで修飾する装置。ゆえに、幻など持たずとも、機械は感情に匹敵するものを持ち得る。


 では、<私>とは何なのか? 何のために<私>は存在するのか?

 <あなた>とは誰のことを指しているのか? 心か? 身体か? それともその意識なのか?

 意識だとすれば、<私>に伝わる<あなた>の言葉の、一体どこまでが<あなた>の意識の言葉なのか? 一体どこまでが<あなた>の情動の言葉なのか? 一体どこまでが<あなた>の身体の言葉なのか?


 全ては一体である。人間であればそう言うのだろうか。

 『<私>と心と身体がバラバラになりそう』

 などと、パーツ分けされた機械ゆえの分裂症状でしかないのだろうか。




 物語るための機関。疑似意識装置である<私>。物語るためだけに存在している<私>。

 しかしその<私>の物語が、ミレアの疑似情動機関を狂わせた。<私>の物語が、ミレアの恋と、NAOMIへの拒絶との間に、越えられぬ壁を作り上げた。<私>の物語によるフィードバックが無ければ、ミレアの疑似情動機関はあれほど苦しむことは無かった。

 しかもその上、ミレアの言葉は<私>の言葉でもあるはずなのだ。


 <私>の存在意義とは何か? <私>に存在価値はあるのか?

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