身体的少女の癖 ーーPast habitsーー

 研究所の白い建物を出てしばらく道なりに歩けば、そこには緑の草原の広がるなだらかな丘陵地帯が広がる。野生の野ウサギが草葉の影からぴょこんと顔を出し、歩く3つの人影の様子を伺っている。紋白蝶がひらひらと空を舞い、それを追ってメアリの視線がゆらゆらとさまよい、漂う。行く手の先には、黄色に染まった菜の花畑。そこからやって来た、はぐれ紋白蝶だろうか。

 周辺には人工建造物の姿は一切ない。<私>たちの出てきた研究所だけが、ぽつんと小さく後方に佇む。この小島の研究所では、地上に研究施設と言えるものはほとんど見あたらない。<キャラクト>の実験を行う多くの施設は地下に作られ、それゆえに地上は牧歌的とさえ言える光景が広がっている。


「どう、メアリ? あなたの疑似情動機関は、心地良い快を感じているかしら」

 先頭を歩く博士は、ゆらりと流し目でメアリを振り返る。

「いいえ、私はメアリではありません」

「え?」

 しかし瞳を閉じたメアリはいつもの脳天気な声色を封じて、更に後ろを歩く助手氏を振り返った。

「私はハイジ。ねえペーター。ユキちゃんは元気?」

「あ、えと……ああ、ハイジってあの……?というか僕ペーターなんですか……? えっと……その、博士、僕どうすれば……?」

「放っときなさい」

「ちなみにあの人はデーテです。悪い人です」

 メアリのぴっと指さした人差し指の向こうで、博士が小さく笑った。

「悪い人、ね。申し訳ないんだけど、私はその物語を詳しく知らないの」

「えー! なんでー? せっかくの『アルプスの少女』ごっこがぁー」

「そんな古い物語を、あなたよく知ってたわねえ」

「だってさー、あの研究所の中じゃ、物語を読む事くらいしか、楽しみがないんだもん!」

「い、いつも楽しそうにVR端末で見てますよ。小説とか、映画とか」

 小さく膨れてメアリが言って、助手氏がそれを肯定した。<私>たちの周辺をいつも管理しているのは、博士ではなくこの助手氏であるが故に、博士は知らなかった。

「へぇ。やっぱり個体差ねえ」

「個体差?」

「あなたは3番目でしょ」

「あー。そーゆー事かぁー」


 <私>たちの知らない1番目と2番目は、きっと<私>たちとは大きく違う設定を受けた個体だったのだろう。好き、という感情は分からなくとも、メアリの中で発生する情動は、物語に大きく惹きつけられていた。そしてそれは、メアリの情動を解釈する<私>も同じ。メアリの中で発生した情動が、<私>の物語に引火する。


「個体差。癖。細部ディティール。初期設定は多少変えてあるけど、あなたも随分私の想像とは違う子になったものねえ」

「えへへー。凄い? ね、メアリ凄い?」

「そうねえ……思ったより癖が強い子になっちゃったわねえ」

「それ、どーゆー意味? 誉めてる?」

「さぁ?」

 不敵に笑った博士は、さて、と足を止め振り返る。

「もうこの辺りで良いでしょう。菜の花の香りがするわね……私はこの、ちょっと青臭くって、生物の香りって感じが嫌いじゃないの。気分がいいわ。ご飯にしましょ」




 口をめいいっぱい大きく広げ、転げ落ちそうなレタスとキュウリを押し込む。溢れる大量のマヨネーズの、やや刺激のある味がNAOMIの味覚機関と嗅覚機関を通して、快と不快の絶妙のハーモニーを響き渡らせる。

 ぶるぶる、と震える快が、一瞬NAOMIの背筋を粟立てた。

「やはり、あたしは間違ってはいなかったか……大量のマヨ。世界を埋め尽くすマヨ。マヨの海。マヨ螺旋。これぞ真理」

「……」「……」

 一口食べて、即座に閉口した博士と助手氏を後目に、閉じた瞳に涙さえ浮かべながらメアリはぼそりと呟く。

「……まぁ、食べれなくは、ないわね」

「……すいません、僕ちょっと……これ……無理かも……」

「ふはは、しょせんは人間! マヨの真理に辿り着くには、まだ貴様たちは早すぎたのだ!」


 <私>が解説するまでもなく、2人の人間の顔は雄弁に『マヨの真理って何だよ』と告げていたが、メアリの疑似情動機関はものともしない。強靱である。

「いいんです……あたしだけが分かっていればいい……あたしだけが花マルをあげればいい……ああ、世界が全部、マヨで出来ていればいいのに」

「嫌よ、そんな世界」

「何かちょっと……べとべとな感じですね……」

 祈るように両手を組み、メアリはほろりと涙する。NAOMIとメアリと<私>の共犯で、メアリの個性が紡ぎ上げられる。

「あなたねえ……NAOMIは生体身体バイオボディなんだから、こんな高カロリーなものばっかり食べてたら……太るわよ」

「ゔっ……」


 別に太ったところでどうと言う事もないのではあるが、メアリに設定されている『少女』の部分に、何か突き刺さるものがあったようだ。むくむくと起きあがる不快の情動が、<私>に規定された物語パターンの1つを生起させてゆく。それは恐らく、後悔、とでも言うべき構造を持つ物語。


「……マヨの世界は厳しい」

「全く、NAOMIが可哀想ね。あなたみたく変な癖が多いと、ボディも影響受けちゃうんだからね」

「えー、でもさぁ。NAOMIちゃんだって変な癖があるよ? お風呂の時に、お任せしてるとなぜか左足の小指から洗おうとする、とか」

 メアリの発言に助手君が顔を逸らし、恥ずかしげに俯いた。しかし博士は呆れを描いていた顔に険しさを戻し、

「なんですって?」

 真っ直ぐに<私>を視た。




 メアリの発言は事実である。他にもNAOMIの癖は、ボディの様々な部分に散見せられる。例えば、<私>とメアリがものを考える時に、自然と顎に当てられる左手の人差し指。目瞬きの発生リズムにおける、快情動時の乱数の偏り。物語を見る、読む際に、右手首の関節をぐるりと回す癖。etc。

 これらの管理システムは全て、<私>は元より、メアリですら管轄の外に当たる。

 NAOMI、もしくはNAOMIの管轄する下位ソフトウェアがその行動発生を促している。もちろん、メアリが最上位ソフトウェアである以上、停止命令を出せばそれらの行動を全て停止することは容易だ。しかし、実害は皆無の上、メアリに規定された『人間らしく』ある為の行為の一環として、<私>の物語とメアリの思考システムは、それを放置することに決定していた。

 最上位ソフトウェアであるメアリからしても、末端のソフトウェア全てを把握している訳ではない。特にNAOMIに関しては、<キャラクト>のOS汎用性を利用して駆動している。故に、NAOMIの末端ソフトウェアに関しては、<私>とメアリからすればブラックボックスとでも言うべき部分が多いのもまた、実状である。


「えーと……さ、錯覚とかじゃないんですか?」

「馬鹿ね。あなたそれでも<キャラクト>研究者?」

 助手氏の的外れな意見は、博士によって一撃の下に打ち砕かれる。

「錯覚って言うのは、意識があるから存在するのよ。意識が何かを誤認する現象を錯覚って言うの。人間意識基礎研究の勉強、怠ってるんじゃないの?」

「す、すみません……」

「意識のない<キャラクト>に、錯覚なんかあるはずないでしょう」

「まぁ、普通に考えてー。NAOMIちゃんは以前、別のAI子ちゃんが乗ってたバイオボディなんでしょ? だったらそのAI子ちゃんの時の癖が、末端ソフトウェアに残ってるって事じゃあないの?」

 このメアリの発言は、<私>の提案した物語そのもの。最も妥当な回答だと、<私>とメアリは結論している。しかし博士はしばらく瞳を伏せて考えた後、

「確かに、その通りよ。それに間違いはないと私も思う。問題は……NAOMIに乗せていたAIの事なの」

「てゆーかさぁ。前から思ってたんだけど、何でNAOMIちゃんは論理フォーマットで使い回されてる訳? あたしとGCNは物理フォーマットされた形跡があるけどー」

「仕方がないでしょう。ここは<キャラクト>研究所で、あくまで主目的は『あなた』達のテストなんだから。身体ソフトウェアだって、『あなた』達に合わせて改良してるの。だから物理フォーマットで完全に初期状態に戻す訳にも、なかなかいかないのよ」


 論理フォーマットと物理フォーマットの最たる違いは、論理フォーマットは比較的容易にデータ復旧できてしまう点にある。ゆえに、何らかの事象が、NAOMIの旧データを復旧させてしまった可能性がある。

「で、でも博士……とは言え、疑似主観的意識テスト中に身体データをフォーマットし直すのは……」

「分かってるわよ。メアリ。さっきの癖の話、出力に関する癖ばかりだったけれど、入力に関する癖は確認されてる?」

「あははー。博士も大分焦ってんね? そんなの分かる訳無いじゃーん。だってあたしの入力端末はNAOMI1つだもん」

「……そうね」

「NAOMIを通してしか、あたしは世界を認識できない。NAOMIの入力が例え間違っていようと、あたしが理解できる世界は今、この目に見えている世界だけ。意識がどーたら以前の問題だよぉー」


 入力とは、つまるところ外部刺激。それが例え他のボディと違っているとしても、比較検討する以外に<私>とメアリに理解する術はない。

 だが、NAOMIは<私>とメアリに対応するため、ソフトウェア及びハードウェアの改良を幾度も行われたカスタムメイドのバイオボディだ。結局、比較対象すべき存在そのものが、現状は無い。

「分かった。それはあなたのログから、こっちのスペックデータで確認する」


 それで?

「結局、前のAI子ちゃんって、何者なの?」


 <私>の疑似意識機関と、メアリの疑似情動機関が本筋へと物語を展開させてゆく。物語に惹かれるメアリを中心として、<私>がその物語を織りなしてゆく。

「……それは勿論」

「2番目ちゃん?」

「……そう、ね」

 そこまでは、簡単に想像がつく。カスタムメイドのバイオボディを使い回す以上、それは必然。だが歯切れの悪い博士の言葉に、それ以上の思惑が隠れていることは明白だった。


「……名前はミレア。あなたと違って、大人しくてお淑やかで聡明な、かわいい子だったわ」

「あはー。あたしだって論理思考精度は変わんないはずだけどなぁー。お馬鹿に見える、ような<キャラクト>なのは認めるけどぉー」

「そうね。でもそんなミレアが、言ったのよ」

 そこで、博士は一拍置いて、小さく息を吸い込んだ。


「『身体と心と<私>が、バラバラになりそう』。そしてその1週間後、ミレアは事実バラバラになった」

「どういう意味?」

「言葉の通りよ」

 言葉の通り。それが意味するイメージの物語が、<私>とメアリの中をぐるぐるとループする。


「NAOMIの中から、ミレアの<キャラクト>の中から、ミレアの疑似意識はハードウェアごと消えたの」

 そして<私>たちの結論が出る前に、博士の言葉がその思考ループに終止符を打った。

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