クラスメート

二木瀬瑠

第一章

 いつの時代も、どこの国でも地域でも、永久不滅の『嫁姑問題』と並んで、 やはり永遠の難題であり、誰もが被害者にも加害者にも成り得る、それが『いじめ』問題。


 ほとんどの場合、いじめの加害者側には大した罪悪感もなく、ちょっとした悪ふざけやストレス解消程度の軽い気持ちでやっているケースも多く、また、最初は傍観者の立場だったはずが、気付けば自分もいじめる側に加担していた、なんてこともあるでしょう。


 そして、往々にして言えることは、加害者側の人間は、時間の経過とともに、そんなことがあったこと自体すっかり忘れていることも少なくないということ。





 ですが、いじめの被害者からすれば、絶対に忘れることなどありません。


 時間の経過とともに、多少記憶が薄れても、自分をいじめた相手への憎しみが完全に消えることは先ずなく、永遠に許すことも忘れることも出来ない、深い心の傷となって残るケースも少なくないのです。


 何かのきっかけで思い出せば、当時の辛かった記憶や感情がフラッシュバックして、またしばらくその苦しみに苛まれなければならず、その罪は果てしなく重いと言えるでしょう。


 その後の人生で、一生その相手に会わずに済めば、それなりの穏やかな時間が約束されるのですが、運命は皮肉といいますか、世間は狭いといいますか。





 私の名前は、松武こうめ。とある新興住宅地に住む、専業主婦です。


 我が家がこの町に転入した当時は、まだまだたくさんの空き地があったのですが、わずか3年という短い間に、売り出されたほとんどの土地には、次々と建てられた新築の住宅で埋め尽くされ、残っている空き地はほんのわずかとなりました。


 この住宅地に転入されていらっしゃる方々は、もともと地元や近隣に在住されていた方はもちろん、北は北海道、南は沖縄、さらには海外(多くは国際結婚など)に至るまで、出身地は実に多様です。


 何かのきっかけで親しくなり、いろいろとお話を伺ううちに、それまで知らなかったその地方独特のカルチャーに触れては驚いたり、興味や世界が広がったりすることもあります。


 一方で、お互いの出身地が同郷、それも結構近い場所だったことが判明し、思わぬ偶然にびっくりするというシチュエーションもしばしばお見受けします。


 その再会が、幸せなノスタルジーに溢れたものなら何も問題はありませんが、ごく稀に、そうではないケースもあり。特にそれが、不均衡な関係性で、ネガティブな記憶の場合は…





「お疲れ様でした~」


「お疲れ様! 今回は思ったより早く済んで良かったわね」



 自分たちが使っていた掃除道具を片付けながら、あたかも『労働しました!』と言わんばかりに、終了した解放感に浸る、いつもの面々。今日は、年に2度の自治会主催の『町内清掃の日』でした。


 当日はお仕事で不在の人もいますので、基本的に自由参加となっていますが、一世帯から最低一人は出席することが暗黙の了解になっていました。


 念願のマイホームを手に入れた当初は、張り切って家族全員で参加するものの、次回からはご主人の姿が消えるというパターンがほとんどで、参加しているメンバーは、専業・兼業にかかわらず、各お宅の奥さま方が大半です。


 今回も毎回に漏れず、ご主人軍団は何かと理由を付けて、この一大町内イベントをエスケープ。我が家の夫も、休日にも関わらず、会社で書類を整理しなければならないとかで、集合時間の少し前に、そそくさと出掛けて行きました。





 もっとも、町内清掃とは名ばかりで、その実態はというと、概ね主婦たちの情報交換の場と化しておりました。


 清掃するのは、各自宅に面した道端が担当箇所になるのですが、それほどゴミが落ちているわけもなく(むしろ、大量のゴミが落ちていたら、そのほうが問題)、箒と塵取りで、緩く掃き掃除をしながら、永遠に満タンになることのないゴミ袋を携えて、時間が過ぎるのを待つという。


 作業量が少なければ、口数が多くなるというのは人の常、特に普段お仕事をしているメンバーとは、なかなか話す機会がないため、ここぞとばかりに井戸端会議に花が咲き乱れます。





 そもそも、そんな清掃に意味があるのか? と思われるかも知れませんが、コミュニケーションという点では、これが意外にも大きな役割を果たしておりました。


 作業中の他愛ない会話で、普段、滅多に顔を合わせる機会がない近隣住民の顔を認識するだけに止まらず、住民同士、お互いの距離感がぐっと近づくことにより、結果、ご近所トラブルを回避するという効果もありました。

 

 こうした住宅密集地で暮らす中で、騒音や挨拶、ペットやゴミ出しのマナーなど、意識や生活習慣の違いからモヤモヤすることがあった場合、ほとんど面識のないお宅に対して物申すのは、なかなかハードルが高いというもの。


 言い方や、相手の受け取り方によっては、深い亀裂を生じさせ兼ねませんし、万が一、ご近所関係が拗れに拗れ、修復不能な状態にでもなれば、毎日が地獄のような日々と化してしまいます。


 堪えかねて引っ越ししようにも、せっかく手に入れたマイホームを易々と手放すのも忍びなく、また、売却してもローンが残ってしまう場合もあり、踏ん切りが付かないまま、ストレスばかりが溜まる一方、なんてことにもなりかねません。





 ところが、お互い顔見知りになることで、見ず知らずの人よりは格段に言い易くなり、受け取る側も『文句』ではなく『お願い』というニュアンスで認識する方向に心理が傾くようです。


 何より、見知らぬ人が発する騒音やマナー違反には過敏に反応しても、それが知り合いとなると、なぜだか急に閾値が下がり、『ったく、しょうがないな~』的な感じで寛容になれたりするから不思議です。


 とはいうものの、何にでも『限度』というものがありますので、出来れば深刻化する前に、上手く取り持って下さる人に間に入って頂き、解決するのがベター。


 災いの芽は、早めに摘み取ってしまうに限ります。





 また、それ以外にも、こうした交流の中で、そのお宅の家族構成などを知る機会にもなり、災害時等の非常事態の際には、ご近所同士で安否確認が出来ること。


 さらには、DVやネグレクトなど、深刻な問題に周囲がいち早く気付くことにも繋がり、それによって、一つでも多くの命を助けられる可能性を見落とさずに済むのです。


 それは決して大袈裟ではなく、こんなごくありふれた住宅街の、ありふれた日常の中にさえも潜んでいるのですから。





 一通り、井戸端会議…もとい、各自担当場所の掃除を終え、使用していた掃除道具を、公園に設置された町内会清掃本部に返却しに行くと、同様に集まって来た多くの参加者たちでごった返していました。


 その中に顔見知りを見つけるたび、またそこここに新たなプチ井戸端会議の輪が出現するのも、いつもの見慣れた光景です。


 次々と新たな輪の中にシャッフルされるメンバーたちと別れを告げ、自宅に戻ろうと歩き出して十数メールほど進んだ辺りで、不意に背後から肩を叩かれました。



「そこの奥さ~ん! 素通りしようったって、そうはいかないわよ~!」


「そうそう! ここで会ったが百年目~!」



 振り向くと、そこには笑顔の静花さん。


 同じ町内の隣りの班に住んでいる彼女は、かつて私が勤めていた会社の先輩で、ご主人の穂高さんと、中学一年の長女、莉帆ちゃんの3人家族。お互いがこの街へ転入したのはまったくの偶然で、時期もちょうど同じ頃でした。


 ご主人の穂高さんは、穂高法律事務所を経営する弁護士さん。私の夫が経営する会社の顧問弁護士をして頂いている間柄でもあり、長きに渡り、公私共に親しくさせて頂いていました。





 静花さんの隣りには、同じく笑顔の麻里さんもいました。


 彼女とは、ご主人の園原くんと私の夫が学生時代からの友人だったことで、お互いが結婚する以前からのお付き合いです。現在は、ご主人の園原くんと、幼稚園年中さんの長女、菜々子ちゃんの3人家族、そして、おなかには4人目の家族がいました。


 我が家がこの新興住宅地にマイホームを建てたとき、そのお祝いがてら遊びに来れくれた麻里さん夫妻は、子育てにも適したこの町がすっかり気に入り、早々にここにマイホームを構えることを決め、その半年後には転入して来たという早業でした。


 その頃、園原くんが経営していた会社と顧問契約をしていた弁護士事務所が廃業することになり、誰か信頼できる弁護士さんを知らないかと相談を受け、穂高法律事務所を紹介したのです。


 自宅や年齢も近く、好みや性格など共通点も多いことから、プライベートでも親しく交流するようになった穂高家と園原家、そして我が家の3家族。この巨大な新興住宅地で、公私共に良好な関係を続けていました。





 他の方たちの邪魔にならないように、隅の空いたスペースに場所を取り、私たちもプチ井戸端会議を開催。



「ところで、来週のパーティーの出欠のお返事、どうした?」



 そう、私たち3家族の元には、とあるパーティーの招待状が届いていました。


 招待状の送り主は、夫たちの学生時代の共通の友人で、自身の父親が経営する会社を引き継ぐことになった石森くんです。


 この度、会社創立40周年記念と、新社長就任のお披露目を兼ね、取り引き先各位を招待しての大々的なパーティーを催すことになっていました。


 園原くんと私の夫は、それぞれ仕事での取り引きがあり、また、石森産業も穂高法律事務所と顧問契約をしている関係で、私たちは夫婦同伴でお披露目パーティーに招待されていたのです。



「一応、うちは同伴でお返事出したよ。静花さんとこは?」


「うちも。はっきり言って、うちなんて弁護士事務所なのに、私までご招待頂くなんて、恐縮しちゃうのよね~」


「それを言ったら、みんな同じだから」


「でも、子供たちのことまでケアしてくれるあたり、気遣いが細やかよね」


「ホント! それがなかったら、うちは多分欠席してると思う」



 高校生にもなれば大丈夫でしょうが、乳幼児は勿論、小中学生くらいまでのお子さんがいる場合、いくら夫婦同伴が原則とはいえ、なかなか子供だけを自宅に置いて行くわけにはまいりません。


 こういうご時世ですから、他に看てくれる家族や身内、信頼出来るシッターさんなどがいなければ、現実的に考えて欠席せざるを得ない奥さまもいらっしゃいます。


 そこで、会社側がプロのシッターさんを手配して、会場のホテルの別室にキッズルームを用意し、パーティーの間、出席者のお子さんたちをまとめて面倒看てくれるというのです。


 勿論、子供たちの食事も用意してくださり、小さな子供たちは一緒に遊べるお友達もいるので退屈しませんし、途中で親が様子を見に行くことも可能です。


 さらに、莉帆ちゃんのような年齢の高い子たちへの配慮も整っていますので、親にとっては、これほど安心できる環境はありません。



「うちの莉帆なんて、どんなゴージャスなご馳走が出るんだろうって、毎日毎日妄想しちゃってるのよ。もう、意味不明なんだけど」


「うちの菜々子は、莉帆おねえちゃんに会えるって、すごい楽しみにしてるわ」


「静花さん、当日は、会社から会場に直行するの?」


「うん、その予定なんだけど、莉帆どうしようかなって。もう中一なんだし、一人で会場まで行けて当然とは思いつつも、あの子のことだから、不安で不安で」


「じゃあ、莉帆ちゃんは私が会場まで連れて行くから」


「ホント!? いつもごめ~ん、助かるわ~! じゃあ、お言葉に甘えて、宜しくお願いね!」



 他にも、当日着て行く服装のことや、会社とは別に、個人でのお祝いをどうするかなど、しばしの間、3人で相談していたときでした。



「あれ? 違ったらごめん! もしかして、あんた、志尾田麻里…じゃない?」



 その声に、いち早く反応して振り向いたのは、麻里さんでした。





 声を掛けてきたのは、私たちと同年代と思しき、この町内では見かけない顔の女性でした。


 彼女が口にした『志尾田』という苗字を聞いて、そういえば、それが麻里さんの旧姓だったことを思い出しました。どうやら、二人が結婚前からの知り合いらしいことは分かったのですが。


 問題は、麻里さんの様子です。まるであり得ないものを見たかのような、強ばり引き攣ったその表情から、かつて、彼女との間に、あまり歓迎しない過去があったのであろうことが伝わって来るのです。


 それにも関わらず、その女性は全く空気が読めないのか、あるいはわざとなのか、耳障りなくらいのハイなテンションに加え、馴れ馴れしい口調で、ほぼ一方的に話し続けていました。



「やっぱりそうだ、オダマリじゃん! あたしだよ、遊木ちか子! あ、今は結婚して、堀米になったんだけどさ」


「ああ…ちか子さん。お久しぶり…」


「こんなとこであんたと会うなんて、夢にも思ってなかったよ~。何? あんた、結婚してこっちに居んの?」


「え、ええ、まあ…」


「そっか! あたしも旦那の実家と仕事がこっちで、結婚してこっちへ来たんだけどさ。なんか、ここっていい感じの町じゃん? だから、思い切ってマイホーム建てたんだよね。つっても、建て売りだけど~」


「ああ、そう…なんだ…」


「オダマリは? あんたの旦那も、こっちの人? 仕事は? どこで働いてんの? あ、てか、新しい苗字、何て言うの?」



 一緒にいる私たちのことなど、まるで眼中にないかの如く、マシンガンのように捲し立てる『ちか子さん』というその女性に、麻里さんはもとより、私も静花さんも、いい加減うんざりし始めていた時でした。



「…お~い! ちか~! 探したじゃないか~!」



 そう言いながら、小走りに駆け寄ってきた男性を、ちか子さんは手招きして自分のほうに呼び寄せ、彼を紹介しました。



「あ、これ、うちの旦那! で~、こっちは幼なじみの麻里ことオダマリ。すっごい偶然なんだけどさ、オダマリも結婚して、こっちに住んでんだって!」


「ども! 堀米です」



 軽いノリといった感じのご主人でしたが、あまり裏表がなさそうな、どちらかというと良い人といった印象で、ちか子さんとは対照的な匂いがします。



「あ、はじめまして、園原と申します」


「いや~、うち、先月、引っ越してきたばかりなんっすけどね、まだ何も分かってないことだらけで」


「そうですか」


「こないだも、町内清掃があるって、回覧板で回って来たもんだから、参加したんっすけど、女性と子供ばかりで、男だと何だか居辛くて! ははは~」


「そうですね。あまり男性の方は参加されないんですよ」


「ですよね~」


「んで、ヒロ、掃除道具、片付けて来てくれた?」


「置いてきたよ。それより、急がないと時間が!」


「ヤバっ!」



 ご主人にそう言われ、ちか子さんは急に焦り始めた様子で、



「じゃね! また今度、あんたン家に遊びに行くわ!」


「えっ!? あの…」



 麻里さんの返事も聞かず、ご主人の腕を引っ張るようにして、急ぎ足でその場から立ち去って行きました。





 その様子を、最初から最後まで見ていた静花さんと私は、お互いに顔を見合わせ、思わず小さく溜め息をつきながら苦笑い。



「今の、何だったの?」


「言葉悪いけど、ミニ台風みたいな人ね」



 静花さんの言う通り、天然で空気が読めないのか、ただの自己中なのか、一緒にいると振り回されること間違いないといった感じで、いずれにしてもあまり親しくなりたくないタイプという点で一致。


 ですが、それ以上に気になるのは、麻里さんにとって、明らかにちか子さんが招かれざる存在であろうことが見て取れることです。


 彼女が立ち去った後もまだなお、治まらない動揺がこちらにまで伝わってくることから、過去にかなり嫌な出来事があったのは、もはや疑う余地はありません。



「麻里ちゃん?」


「え…?」


「大丈夫?」「顔色が良くないわよ?」


「あの…、私…」



 私たちの声掛けに、むしろ動揺が激しくなった様子から、やはりただ事ではないと確信し、各自、ひとまず自宅に戻って着替えと用事を済ませた後、改めて3人で我が家に集合することにしました。


 表向きは、パーティーの打ち合わせという名目ですが、勿論、本当の目的は、麻里さんの口から、ちか子さんとの当時の関係性や、今現在、彼女に対してどういう感情を抱いているのかを聞き出すことでした。


 他人様の過去に口を突っ込むなんて、余計なお世話と言われればそれまでですが、もしちか子さんが私たちが考えるような人物であれば、再会しただけでもかなりの精神的苦痛なはず。


 何より、そんな人物がご近所にやって来たとなれば、事はより深刻。なぜなら、ここは新築マイホームが建ち並ぶ、新興住宅地。人間関係のトラブルを抱える者同士が、生活の居を密にするには、最も不適当な場所だといえるからです。


 先ほど見たちか子さんの言動からは、旧友であろう麻里さんに対する気遣いや配慮などはまったく感じられず、少なくとも彼女の中では、麻里さんに対して上位目線でいることは確かです。



「お節介と思うかも知れないけど、よかったら話してみない?」


「何が出来るか分からないけど、力になれるかも知れないし」


「ううん、別に私は、何も…」



 それでもまだ、口篭っている麻里さんに、さらりと尋ねました。



「麻里ちゃん、あのちか子さんって人に、昔、いじめられてた。…でしょ?」


「えっ…! あっ、あの…」



 図星といった顔で、それまで必死で押さえていた感情が一気に噴き出したように狼狽える麻里さん。



「分かるよ。私もね、昔ターゲットにされたこと、あるから」



 そう言った私の言葉に、目を丸くして固まった麻里さんに、静花さんも淡々とした口調で言いました。



「私もあるよ。あれって、当事者になってみないと、ホント分からないものよね」


「…!」



 同様に、いじめられた経験があると言った静花さん。


 私たちから共感を得たことで、それまで覆い尽くしていた不安や苦悩、恐怖といった感情とともに、自分の身に降り懸かったその忌々しい出来事を他人には知られたくないと思う『プライド』が、少しずつ揺るぎ始めたのが、麻里さんの表情から読み取れます。


 そこへ追い打ちを掛けるように続ける、静花さんと私。



「おまけに、やった方はそんなことすっかり忘れてたり、ちょっとふざけてただけ、なんて本気で思ってたりするんだから、質が悪いよ」


「確信犯のくせして、いざとなるとシレッとしてるのなんて最悪! ごめん、勝手な先入観なんだけど、あのちか子さんだっけ? ああいう自己中な感じのタイプって、そういうことする人、多いのよね!」


「静花さん…こうめちゃん…」


「勘違いなら、全然いいんだけどね。でも、もし心に傷が残るくらい酷いことがあったなら、そんな人物が近くにいるって思うだけでも、辛いと思うから…」



 すると、麻里さんは小さく首を縦に振り、床に目を落とし、膝の上で手のひらをぎゅっと握り締めながら、静かな震える声で、それでもきっぱりと言ったのです。



「聞いてくれる…?」


「うん」


「私…私ね、中学のとき、あの女に…いじめられてたの…」



 そのカミングアウトに、どれだけの勇気が必要だったことか。





 今でこそ、いじめた側は社会的制裁や、場合によっては刑事罰を受けるまでに、世間から『いけないこと』だと認識されてきてはいますが、私たちが子供の頃は、まだまだそうではありませんでした。


 むしろ世間的には、いじめられる側にもそれなりの問題があるからだろうと、言われなき中傷をされるなど、哀しいかな、加害者より被害者のほうが責められるという風潮がありました。


 いじめの事実を公言したところで、世間から自分が駄目な人間だという烙印を押され、自ら恥を晒すだけだという先入観から、被害を訴えることすら出来ず、ただただ堪えるしかなかったのです。


 誰からも声を掛けてもらえず、耳に入る無関係な人の笑い声すら、自分を馬鹿にして笑っているように感じられる孤独と惨めさ。


 いじめによる理不尽な仕打ちに、ズタズタにされた心の傷を癒す術もなく、惨めな過去を知られたくない一心で心の奥底に封印し、何もなかったこととして、今日までの自分を支えて来たのですから。



「そう…」「うん…」


「それも、本当に酷いこと…」



 そう言った彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちました。



「麻里さん、無理しないで…」


「大丈夫だよ。今、全部言わなくても…」


「ううん! ふたりには聞いてほしいの…! お願い…!」



 けれど、次の言葉を発することが出来ず、代わりに激しい嗚咽となって、止めようもなく溢れ出しました。


 驚いて、彼女の顔を覗き込む我が家の2匹の猫たちを、ぎこちなく、それでも優しく撫でながら、少しずつ呼吸を整え、上ずりながらも、ゆっくりと話し始めた麻里さん。


 彼女の口から聞かされた、かつての彼女へのいじめの実態は、私たちの想像を遥かに上回るものでした。


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