変人姫君の熱血騎士(野の涯ての王国、スピンオフその2)
「さっさと行け!」
いつも下を向いてぽそぽそしゃべるペトラにしては珍しく、それは大きな声だった。
「でも……。おひとりでお散歩とは、危のうございます」
アンスヘルムはおろおろと言った。
薄曇りの午後。岩がちな荒野のなかの、ある村の領主館で、宮廷は移動の足を休めていた。王女たるペトラと、その近衛騎士であるアンスヘルムも同行している。
王女は領主館の石塀の下部に開いた穴に頭を突っ込んでいる。そこを、石塀の外側を巡回していたアンスヘルムに見つかったのである。
王女は間の抜けた格好のまま、アンスヘルムに怒鳴った。
「うるさい! わたしの命令が聞けぬのか、ああ、ええと……」
「アンスヘルムです、姫様」
若干しょんぼりした顔で近衛騎士は言った。
彼女の近衛を命じられて、はや三ヶ月であるが、この姫君はいまだに自分の名前を覚えていない。
もっとも、彼女はあまり人の名前を覚えない性質であるらしい。もう十年以上の付き合いになる一人の侍女と、王家の面々以外の人間は、彼女に「そなた」と呼びかけられるだけである。
「とにかく!」
――とにかく、と言われた。
アンスヘルムが悲しい顔をしているのにはお構いなしに、ペトラは言った。
「ここから出せ。抜けぬ」
「はい?」
姫君は片腕だけを伸ばし、もぞもぞした。
「だから、抜けぬのだ! 引っ張れ!」
「……はあ。では、畏れながら」
と言って、騎士は姫君を引っ張った。
「あのう……どちらへ行かれるのですか」
ずんずんと前を歩くペトラに、アンスヘルムは尋ねた。
地面に埋まった芋を収穫するかのごとく、ずるずると引っ張り出されたペトラは、衣服についた土埃を放って、すぐさま歩き始めていた。
「……遠くだ」
「はあ……」
そんなに遠くに行くのなら、なおさら誰か護衛か侍女かその両方がついて行った方がいい。
自分を追い払う台詞を、特にそれ以上ペトラが言わなかったので、アンスヘルムは彼女について行くことにした。
ヒースの紫の花、ミモザの黄色い花が、ゆるやかな起伏をもった地面に咲いている。ごろごろと岩の転がるなかを、よろよろと不器用に歩いていく王女は、見るからに危なっかしく、アンスヘルムははらはらした。
「うむ。ここがよい」
重々しくペトラはひとりごとを言い、大きな岩の下に持っていた袋のなかから取り出した布を敷き、座った。そして、同じ袋の中に入っていた本を読み始める。
「……」
生ぬるい風が、あたりを吹き抜けた。
アンスヘルムはそばの小さな岩に腰掛け、ペトラをぼんやりと見守った。
――今日のゆうごはん、なんだろう……。
そうこうしているうちに、不意に薄暗くなったかと思うと雷が鳴り、土砂降りの雨が降ってきた。しかし、数瞬のあいだ、彼女は動かない。
「姫様、雨です、どこかで雨宿り……」
「ギャー!!」
「……姫様!?」
ようやく雨が降っているのに気づいたのか、アンスヘルムが聞いたことのない大声でペトラは悲鳴を上げた。がばりと抱え込むようにして、自分の体で持っていた本を雨から守る。あわててアンスヘルムがペトラに駆け寄ると、
「あー、ええと、ヘングストの……」
「アンスヘルムです、姫様!」
やけになって叫んだ。
しかし、ペトラの顔を見てぎょっとした。
今にも泣きそうな顔をしていたのだ。
「どうしよう……叔父上からお借りした大切な本なのに……四二ページの九行目の五文字目と六文字目が濡れてしまった……!!」
「そ、そうですか」どうしてページ数と行と何文字目かを瞬時に覚えたのかは謎だったが、アンスヘルムは一計を案じた。「この上着で」彼は自分の皮の上衣を脱いだ。「くるめば大丈夫でしょう」
「――わかった!」
ペトラは素早く彼から上着をもぎ取ると、本をくるんだ。
アンスヘルムはなんだかまたすこし悲しくなったが、自分の本分を思いだし、彼女に言った。
「あの岩陰に行きましょう。雨がふりこんでこなさそうです」
小さな洞窟のように開いた穴に二人で入る。
ペトラは穴の奥に乾いた地面を見つけ、駆け寄って慎重に本を置いた。
「姫様、ご本は大丈夫でしたか?」
心配になって問いかける。
「……うむ。このまま乾かせばほかの文字には影響がないだろう。そうだ。火をおこしてくれぬか」
そう言って、片手で本のページをつまみ、もう片方の手で袋の中からさらに小さな袋を取り出して放ってよこした。
それは明後日の方向に飛んでいったが、アンスヘルムは飛び上がってなんとか受け止めた。
「な、なにゆえ火打ち石など持ち歩いておられるのですか」
袋の中身を見てアンスヘルムは尋ねた。
「んむ? 侍女に灯りを消された後でも本が読めるようにだが」
「――それほど本がお好きですか……!!」
アンスヘルムは信じられず叫んだ。
「そなたは違うのか?」
心の底からのような声でペトラが訊いてくる。
「ええと、あの、本は苦手で……読んでいると眠くなります」
騎士の習いとして多少の本は読んだが、結果は惨憺たるものだった。
「……そうか。信じられぬ。文字を読めるのに、本が苦手とは……」
枯れ草を集め、さらにはペトラが木炭すら持っていたことに驚きながらそれに火を点けた。
「……っくしょん!」
二人は同時にくしゃみをし、火に近寄って手をかざした。
しばらくすると、衣服が乾き、体が暖まってきた。
「……すまなかった」
出し抜けに謝られた。
「えっ?」
「いや、そなたの時間を無駄にしてしまったと思って……。やはり付いてくるなと言うべきだったな」
「なにをおっしゃいます、これがわたくしの務めですので」
「しかし、つまらぬだろう、わたしの付き添いなど」
「そうですか? わたしは好きですが。姫様の付き添い」
ペトラは思い切り眉間に皺を寄せて、信じられないものを見るような目でアンスヘルムを見た。
「どこが?」
「どこと仰られましても……よくわかりませんが」
「父上や兄上のように戦に出るわけでもないし、母上のように政を行うわけでもない」
「平和でよろしいじゃありませんか」
「そなた、騎士であろう。戦いたくはないのか」
「姫様の身辺に目を配ることも、戦いですよ」
「む? そうか?」
「そうです」
「そうか……。なんだかよい気分だ」
「それはよかった」
「本を読んでやる」
「……えっ?」
「だから、本を読んでやる。この本はおもしろいぞ。各地に伝わる奇譚を集めておる」
意外なことに、ペトラは朗読に向いた声質をしていた。
ペトラの声は耳に心地よかった。ゆるゆると鼓膜を撫でるような、こくのある声。
土砂降りだった雨も、しとしとと静かなものに変わっていた。
火の揺れる様を眺めているうちに、アンスヘルムはうとうとし始めた。
泉に棲む蛇の化身である女妖、海の底に沈んだ壮麗な伽藍……そんな物語を聴いているうち、夢と物語が混ざり合っていった。
夢のなかで、アンスヘルムは鎖帷子に身を包み、剣を腰に提げ、洞窟をさまよっていた。なにかを見つけなければならない、という、焦燥だけが彼を動かしていた。
目路のさきに、金色に輝くものが見えた。
彼が駆け寄ると、それは宝箱だった。
開けてみると、なかには宝石をちりばめた、豪華な装丁の本があった。
アンスヘルムの心の底から、喜びがいっぱいにあふれて、思わずその本を抱きしめた。
「……アンスヘルム、雨がやんだぞ」
その声で、アンスヘルムは目をさました。
王女は不機嫌な顔をしていた。
「――すみません、つい眠ってしまいました」
「わたしの朗読はそんなにつまらなかったか」
「いえ! 楽しかったです……。子どものころに寝かしつけられるときに物語を聴いたことを思い出して……心地が良くて、眠ってしまいました……。申し訳ございません」
「ふん」
ペトラは鼻を鳴らし、立ち上がった。
「まあよい。帰るぞ」
彼女の口元が、奇妙にゆがんでいる。
それは笑みなのだと、アンスヘルムは突然理解し、
「……はい!」
にこにこと返事をした。
さきほど、自分の名を彼女が初めて呼んだことも、とても嬉しかった。
そうして、彼はその姫君の騎士に、ようやくなったのである。
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